上海センターブラウンバッグランチ(BBL)セミナー 第9回

戦前・戦後の東アジア

 日時  2005年 11月9日(火)12:15-13:45

 会場  法経総合研究棟1階103演習室

 報告者 堀 和生教授(京都大学経済学研究科)


 講演概要

 日本のアジア認識は、1970年代後半から1980年代初頭にかけて大きく転換した。その要因は、日本の先進資本主義化、東アジアNICs・NIEsの登場、中国の改革開放政策の展開、等が継起的におこってきたからである。アジアは、停滞の象徴から発展の代表に代わり、日本特殊論は日本トップランナ−論へ転換した。そして、従来は非常に困難であると理解されていた社会の資本主義化ということが、より普遍的で一般的な現象として認識されるようになった。この様ななかで、さまざまな新しいアジア研究潮流が簇生してきた。たとえば、小農社会論、アジア間交易圏論、華僑ネットワ−ク論、植民地工業化論等である。本報告は、このような研究動向の一環として、貿易分析を通じて、戦前戦後の東アジアの位置づけを検討したものである。                      
  第1に、両大戦間期の世界貿易の推移をみると、1929年世界恐慌で大収縮が起こったが、そのなかで当時の資本主義の新しい生産力を代表する米国の輸入市場が、劇的に収縮したことが特徴である。また、アジア諸国・地域の貿易の趨勢はばらばらで、決してひとつの共通な傾向を示していたわけではない。中国関内の大収縮と日本帝国の大膨張は、対照的な様相をみせている。   
  第2に、両大戦間期の日本資本主義の対外関係には2つの側面があった。一つは、日本製品が世界市場にもっとも果敢に進出し、あらゆる地域で輸出を伸張させた。これは、基本的に生産力の優位性に基づくものであり、国際競争力を高めることによって、日本の貿易収支を顕著に改善していった。いま一つは、自己の帝国経済圏を劇的に膨張させていったことで、非常に閉鎖的な経済ブロックを創出していった。日本帝国主義は英仏帝国主義よりも巨大な植民地経済を保有しており、最後の帝国依存型資本主義であったともいいうる。日本経済はこのような異質な二面性を保持していた。
  第3に、日本は植民地社会を帝国内分業に組み込むことによって、台湾や朝鮮の社会経済を根本的に再編成していった。つまり、それらを日本資本主義の一部としたのであり、日本資本主義の高度化により、各植民地においては工業化が持続的に進展していった。
  第4に、東アジアの第二次大戦後への展望は二つの側面があった。まず、1950年代後半より米国市場が拡大を始めた時に、東アジア各国は一斉に対米国市場向け工業製品の輸出をはじめた。そして、それと対応して、日本と台湾や韓国、香港間の地域内分業が早期に形成されたのであった。
  本報告の結論は、以下の3点である。第1は、日本資本主義の性格の捉え方である。日本の輸出品は一次産品・粗加工軽工業品から加工度の高い軽工業品へと移行しながら、急速に世界市場に輸出された。この時期の日本資本主義は全世界的規模で展開しており、アジア交易圏論者のいうようなアジア論には収まりきれない。
  第2に、日本資本主義は東北アジアの一部地域(台湾・朝鮮・満州・華北)を植民地として自己の内部に組み込むことによりその基盤を拡大した。同時に、各植民地社会は日本帝国内分業によって大きく再編成されたので、資本主義に適合的社会へ転換した。
  第3に、これらの地域は第二次大戦後米国を中心として世界市場が急拡大しはじめた段階で、最も積極的に反応して工業製品輸出国になった。その条件として、戦前の日本資本主義の高度化、日本と周辺地域の工業的分業関係の形成、台湾・韓国の資本主義発展等の相互に連動した展開があった。これらの過程を、東アジア資本主義の形成と規定することを提起した。                



(本稿は11月9日に開催された上海センターブラウンバッグランチ(BBL)セミナーでの講演を堀和生氏にまとめていただいたものである。