中国東北振興と日本海両岸交流

 日時  2006年7月3日(月)

 会場  時計台記念館2F国際交流ホール

 司会  山本裕美 (京都大学経済学研究科上海センター長)

 報告者
小河内敏朗 (元在瀋陽日本国総領事)

権 哲男  (中国延辺大学副教授)

伊達俊行  (舞鶴港振興会常務理事)

小島正憲  (小島衣料株式会社社長)

 
 講演概要
   (小河内敏朗

只今ご紹介いただきました小河内でございます。今年2月まではお酒が大好きな国の最もお酒に強い人が多い地域で、勤務しておりましたが、今年4月からはお酒を飲まない国・正確には飲酒が禁じられている国での在勤ということになっております。

先ずはじめに、本日のセミナー開催に尽力された京都大学上海センター、同上海センター協力会並びに京都大学の教授・関係者の皆様に感謝申し上げます。次に中国吉林省朝鮮族延辺自治州からも出席され、発表があることを大変嬉しく思っております。また、京都府から麻生純副知事が出席された他、こうして酷暑にもかかわらずご出席いただきました皆様の中国東北振興と日本との交流に対する積極的なご関心と熱意に敬意を表したいと思います。

本日のテーマを見ますと、一見して経済と日本海を柱として日中関係を盛り上げていこうとする積極的な姿勢あるいはそうなって欲しいという強い期待が読みとれます。今年中にそのようなモーメムタムがさらに強まってくることを期待してみたいと思います。また、日本海ルートの活用を中国の東北振興にも役立てていこうとする発想は、日中間の地域協力を活発化させるだけでなく、よりダイナミックな日中関係、より効率的より生産的な日本と朝鮮半島との関係、さらには経済面での連携が進む東北アジア全体の未来を展望していく上でも大変興味深いテーマであります。そういう意味で本日のテーマは焦点は明確ではあるが、本質的には非常に大きなテーマであると考える次第であります。

さて、現在私は、カダフィ大佐で有名な地中海に面する北アフリカのアラブ・イスラム国家(正式名称は大リビア・アラブ社会主義人民ジャマヒーリーア国、直接民主制、元首なし)リビアという国に駐在しております。では何故、今回、遠隔の地であるだけでなく、何かと難しいことの多いリビアから、大使がわざわざ、飛行機を乗り継いで京都大学までやってきたのか。それは、去年出席をコミットしていたこと、もうひとつは私がこれからも、中国東北振興の日本側応援団のメンバーであり続けるとの姿勢を明確にするためであります。(ここで大きな拍手をいただければと思います)。瀋陽在勤中は応援団長を自認しておりましたが、これからしばらくは、遠くリビアから、しかし更なる関心をもって、中国東北振興と日本海ルートに関連する動きを見守っていきたいと考える次第であります。しかし、第3の本当の目的は、ビジネスのことは企業家の方々にお任せするとして、日本海を内海とする東北アジアこそ、日本がリーダーシップを発揮し、地域と世界の平和と発展に貢献できる唯一の場所であり、21世紀前半の日本の最大の課題を提供してくれているところだと考えるからであります。

そこで本日は、折角リビアから来たということで、先ずリビアからの視点を紹介したいと思います。次に、3年半にわたる中国東北地区在勤の体験と感想を報告させていただき、続いて豆満江開発と日本海ルートの問題について気づきの点を述べた上、最後に日本の役割ということについて若干ふれて本日の発表を締めくくりたいと思います。

なお、ここでは、北東アジアの代わりに東北アジアと言っておりますが、西は渤海湾、山東半島、東は極東ロシア、それに朝鮮半島と日本をカバーする地域と勝手にイメージしているので御了承願います。

1.リビアからの視点

視点1.オセロゲームの黒を白にする手法を採用すべし!

リビア:大量破壊兵器計画放棄、国際社会復帰のモデルケース

詳しい経緯はともかくとして:国連制裁下に11年(92年〜039月)。

米国との関係では:20年間も制裁下に。一時、リビアの主要都市(トリポリ、シルテ、ベンガジ)が米軍の空爆に晒されるという最悪の事態。

日本との関係:この間まったく低迷。見るべき進展はなかった。制裁期間中はほとんどの日本企業が撤退。

この行き詰まりは:0312月、The Leaderカダフィ大佐の英断(大量破壊兵器計画の自主的廃棄宣言、IAEAによる査察受け入れ表明)によって一瞬にして解消。制裁と空爆の脅威から、G8に対して対リビア支援を要請する立場に逆転。“我々は計画を放棄した。それによって何が得られたかを国民に説明する必要がある”との立場。可能な限り、支援の手を差し向けるべし。

049月米国が制裁解除。そして国際社会復帰。03年〜04年に、英仏独伊始め40数カ国の首脳がリビアを訪問。

さらなる米国との関係の変化:515日、米政府はリビアとの外交関係復活を決定。同時にテロ支援国家リストからリビアを削除するとの決定を行った。531日、在トリポリ米国代表事務所は大使館に昇格。事務所代表は臨時代理大使に昇格。テロ支援国家リストからの国名削除については、通告期間の45日が満了となって71日、リビアという国名はリストから完全に削除される。これによって、米国民間セクターの活動が活発となる条件が整う。米国の石油関連企業は晴れて必要な資機材をリビアに搬入できるようになる。外交関係正常化後の米リビア関係が今後どのように進展していくかは大いに注目されるところ。石油開発を始め、リビアに大きな富をもたらすことは確か。今や、リビアの関心は米国に向けられ始めている。

視点2.リビア・北朝鮮両国の経済発展戦略上の類似性

イ.リビアも中国も北朝鮮も(多分にロシアも)政治休制を変えずに経済発展 を図りたいと考えている。リビアにとっては、改革開放後の中国の経済発展戦略は参考となる。そのリビアの変化の動向は北朝鮮にとっても参考となる。

ロ.地理的に見ると、地中海のアフリカ側沿岸のほぼ中央に位置し、目の前にEUという大市場があるリビア、朝鮮半島の北部にあって、韓国、中国、ロシアと国境を接し、日本海を介して日本という大市場が至近距離にある北朝鮮は、その気にさえなれば、ビジネスを展開する環境には甚だ恵まれている。

ハ.そこで何を売るのかというと、リビアは言うまでもなく石油・天然ガス。北朝鮮は物流のルートの使用と良質で安価な労働力。(余談として、現時点ではリビアの労働力はあまり勧められない)

ニ.リビアは有力外国企業による市場独占を許さないとの方針の下、米国、欧 州、日本を競争させようとしている。日本を必要としている。北朝鮮の場合、このままいけば、中国と韓国の企業に独占されてしまうのは明白。将来・日本企業が入ってきてこそ、こうした独占を防ぎバランスがとれる。

ホ.リビアは自らがアフリカ大陸への正式な玄関だと言っており、先般の小泉 総理のアフリカ諸国訪問に際しても裏口から入られては困ると述べていた。私は日本にとってやはり、中国東北地区への正式な玄関は北朝鮮。

へ.北朝鮮も徐々に、しかし着実に開放政策をとっている。EU諸国との関係を大幅に改善しているリビアの例は参考になる。

視点3.歴史は両面をもっている

現在のリビアに相当する地域は、かつては湿潤で肥沃な大地だったと言われている。紀元前10世紀まではフェニキア人が定期的にリビアの海岸に現れるようになり、紀元前7世紀頃に貿易の必要から現在のトリポリとその東西に2つのコロニーを作り、やがて紀元前6世紀、強大となったカルタゴがこの地を支配下に置いた。

しかし、カルタゴはローマとの3回にわたる戦争に敗れ、紀元前1世紀にはこの地はローマ帝国の属州の1つに組み込まれた。約300年間の平和と繁栄期を迎えたが、その後、紀元5世紀(449年)にヴアングル人による昧珊があり、7世紀(643年)にはアラブ人によって征服され、文化・言語上のアラビゼーションがあり、中世では16世紀前半(1510年)にはスペインのカール5世(ハブスブルク家)によってトリポリが占領され、さらに(領土を信託された)マルタ騎士団の進入があり、海購王(レッドビアド)による征服があり、16世紀半ば頃(1551年)には残酷な統治で知られるオスマントルコ帝国の支配下に入り、長いトルコの支配が続くが、1911年(9月)、トルコが革命とバルカン戦争に忙殺されているのに乗じて、今度はイタリアがトリポリを攻略、イタリアの植民地となり、あの戦争に際しては、独のロンメル将軍によるトボロクでの大激戦が有名になったが、この地は列強が争う戦場となり、1943年に連合軍がドイツ・イタリア軍を撃退し、英・()軍が代わってリビアを占領してその軍政下に置くという歴史を辿っている。今も、駐リビア英国大使はかつてのイタリア軍の司令官(本部)の使用していた建物をそのまま使用している。

よって、リビア人達は、ヨーロッパの国々は侵略者だと認識し、日本と協力したいと言っている。日本はリビアの敵と戦った好ましい国というのが基本認識。しかし、同時に、リビア人が誰かを定義することは困難であるが、リビアがアラブ・イスラムの国であるとすれば、そのアラブ人たちも恐らく土着のべルベル人をも伴ってスペインを500年以上にわたって征服している。逆の面があった。東北アジアにおいて日本人がその歴史を考えるとき、そして、中国・韓国・北朝鮮の人たちがその歴史を考えるとき、謙虚な気持ちで歴史には両面があるとの認識が必要ではないかと考える。つまり、東北アジアから見ると黒でも中東から見れば白。さらに歴史は様々な視点から考えることができる。ということで、人類の歴史の論議にはルールが必要。

2.瀋陽からの報告

○ 世界を騒がせたあの瀋陽事件(’0256日)から3ケ月後に着任

○ 当時注目度ナンバー1、その間の出来事を日・東北関係の緊密化、相互理解の深まりという観点から、つまり、東北地区がどの方向に顔を向けているかという観点から報告。

中国東北3年半在勤の結論

イ.東北住民(省長さんから農民・小学校の生徒まで)日本との経済・文化交流の意欲が強い。

ロ.日本との東北地区との関係は大いに改善された。

ハ.中国の中でも東北地区はプラスに差別化して対応すべし。

ニ.東北地区との協力の効果・効率は中国の他の何処の地域より大きい。

ホ.051118日の播陽地下鉄1号線起工式からは東北の人たちの意気込みが感じられた。

1)大幅に改善された我が国と中国東北との関係

(イ)帰朝に際し、省長と書記、各々との離任会見、かつてなかったこと。中国側の感情表現、日本重視の姿勢、会見自体に意義。李克強書記、超多忙、積極的かつ柔軟な対日姿勢。025月、涛陽は日中間外交の対決の焦点。いろんなことが良い方向に向かいつつある。対照的。また、夏徳仁大連市長が日帰りで大連からかけつける。陳政高瀋陽市書記も心のこもった送別晩餐会を主催。

(ロ)昨年4月の対日デモ、在瀋陽総は窓ガラス1枚の損傷なし。日本料理店、在留邦人、日系企業等、→切被害なし。日中関係全体が硬直。地方はより柔軟。上記、夏市長及び陳市長の対日姿勢。(陳市長の回顧談)

(ハ)対日デモの約1ケ月後、第5回目中経済協力会議(於瀋陽)。対日デモ後の最初の大型経済会議前年の第4回目中経済協力会議(於仙台)、実は日中関係史上画期的な出来事。

東北3省の省長全員+内蒙古自治州の副州長、さらに大連、瀋陽、長春の3有力市長、東北・北陸7県(青森、岩手、秋田、宮城、山形、福島、新潟)の7県知事全員と仙台市長、合計1700人参加。本年06年の第6回目中経済協力会議(於長春)も成功裏に開催。

(ニ)同じく昨年8月、藩陽国際観光祭、花車のパレード、五里河公園での盆踊り、このパフォーマンスは痛快な出来事。歴史背景、どの都市よりも難しい土地柄。日本の伝統文化・盆踊りの実演は初めて。中年のおばさん、10代の娘さん達、お年寄りの日本語の歌。石などは飛んでこなかった。終了後も撮影会が延々と続く。日中友好の典型的な絵。潅陽は安全。対日重視の都市。

2)邦人保護への対応(2つの例)
不測事態発生の際、安心感を与えることの重要性

(イ)SARS発生:その典型例。長春では感染者37名。住民の不安がピークに達した時点に訪問(2回)。激励、連携、勇気ある行動と感謝される。長春市名誉市民。

(ロ)引き続く災難。黒竜江チチハルでの毒ガス事故発生(0384日)。反日の嵐か?在留邦人を震撼、重苦しい不安。被害者増大44名。ついに1人死亡。新聞は1面トップ。チチハル行きの夜行列車(所要時間約13時間)、チチハル行きを懸念する向き。しかし、心からの歓迎。テレビには約7分間放映。“チチハル市長、小河内総領事歓迎”、“小河内総領事、早期回復を祈る”。帰瀋陽後、在留邦人に報告。自信を持って“心配はない”と言えた。大きな安心感となる。

3)中国理解への努力

(イ)中国語の勉強:ゼロから2年後、5大学(大連外国語学院、東北財経大学、瀋陽薬科大学、東北大学、中国医科大学)で中国語で講演。中国に対する関心と親切心と受け止められる。今はアラビア語。

(ロ)918歴史博物館との交流。井暁光館長等と心の通う状況。日本がいかに東北の住民・農民を助けてきたかについての資料。同博物館の日本語解説文(すべてメモ)の修正表作成、等を提供。全て自分で作成。同歴史博物館の正式資料となっている。

4)特別の協力関係

陳政高瀋陽市長(現書記)と仲の良い総領事。日本に対する認識を良好にする効果。瀋陽市の親切な相談役。邦人保護のための目に見えないセーフティネット。関係構築の瀋陽ジャパンタウン構築の提示。ホテルニューオオタニで上映。CDにて瀋陽市側の資料。市の職員達はしばしば本館執務室を訪問。瀋陽世界園芸博覧会に対する間接支援。市と共に支援要請の手紙作成送付。

5)注目される自民党幹事長一行の瀋陽訪問

昨年11月下旬、角田義一参院副議長、岡田克也前民主党代表、武部自民党幹事長一行がほぼ同時に瀋陽訪問。遼寧省に来れば対中政策について何かヒントが得られる。(つまり、瀋陽在勤中、日中関係打開は中国東北からのメッセージを送り続けていた。)

李克強省委書記と会見:極めて和やかな雰囲気。省委秘書長との晩餐会の席上、“幸せなら手を叩こう”を歌う。因みに、武部幹事長一行の918歴史博物館訪問について、井館長は、“一行の中に総領事の姿を見て、古い友人達が訪ねてきたような気持ちになってしまって、それでつい握手をしてしまった”と述懐。握手までは考えていなかったということ。

6)モデル公館への努力

ハードウェアとして昨年5月に新館完成。任期中に完成させた異例のケース。大変な苦労。事務所面積35倍。世界で一番汚い総領事館から現代的な美しい外観への変化。ソフトウェアとしてバックアップ体制の格段の強化。

7)結び

一番大切なのは人間。広い視野、緻密な計算、知的勇気の実行。結果として友好の使者。心の通う状況を作ることが日中関係改善の条件。日本をより頼りにさせる努力が必要。束北の人たちの頭の中にいつも自然に日本があるような状態にしていかなければならない。存在感のある日本、頼りになる日本にならなければならない。東北に借港出海ルートの他、ジャパンタウン、日中友好スポーツ交流センター、有機農業訓練センター等が実現されることを期待したい。

3.日本海ルート開発に関するコメント

(1)ようやく中国東北と日本が地理的に本当に近いという当たり前のことが日中両国民に認識されてきたことは喜ばしい。こうした認識がさらに普及していくことを期待。

(2)次に、この計画(大豆満江地域開発と合わせて)は10年以上前から論議は数多くあったが、具体的にはなかなか進展しないという面があった。それが、今、具体的目標を持ち具体的行動計画の下に前進し始めているのは、やはり国策としての束北振興の効果。日本海ルートの開発には今後も東北振興が成果を上げていくことが重要。そもそも中国東北の主要都市間を結ぶ高速道路が整備されておらず、吉林省に高速道路が1本もなかったような状態では“借港出海”を必要とする強いエネルギーが生まれてこないのは当然。

3)現在、延辺の澤春市では、紡績、アパレル、木材、海産物、その他の加工業、エネルギー工業、国際物流の分野で産業の振興が図られている。日本海ルート開発にとって良い兆候。今後、日本海ルートの開発と結びつけた更なる新商品の開発が望まれる。

(渾春市では、日本人が好きな色の墓石までが日本に輸出されている。この石のお世話になりたくないが、有望商品ではないか)

4)但し、日本海ルートの開発・発展には今後も地道な努力が必要。一つは東北地区の発展速度が、中国の他の地域と比べ相対的にスローダウンしていること。全国に占めるGDPの割合が低下してきている。不良資産額がなかなか減らないといった問題もある。もう一つは、大豆満江地域開発に当たっての中国側の狙いと日本側の狙いは同一ではないということ。中国側の狙いは、基本的に中朝あるいは中露間の、あるいはそれにモンゴルを加えた地域協力の拡大であり、また、日本海ルート開発と言っても中国側は琿春市に物を集めて日本海ルートで経済力のある中国の南の地域に流通させるとのスタンス。日本海ルートを通じての中国の日本との経済交流はまさにこれからといったところである。

5)最後に北朝鮮ルートとロシアルートとの問題についてコメントしたい。ロシアルートが重要であることは言うまでもないが、ロシアルートには技術的な問題以外にモスクワとの距離、ロシアの政策が予見困難等といった問題がある。北朝鮮ルートにも似た問題はあるが、同じような考えをしている東洋人同士の方が考え方も似ていて無理が効くとか柔軟性を発揮できる余地が大きい点で、より無難ではないか。もとより、北朝鮮とロシアの双方のルートが活用できる状態が理想である。

4.日本の役割

20世紀の70年代までは中国の中では東北地区が発展地域であり、上海・北京・天津地区は遅れた地域だった。また、現在の上海等の発展地域は長期には人口増加、人件費高騰、土地の不足、水・エネルギー等の不足によってやがて高成長は打ち止めとなり停滞期に入る。遅かれ早かれ東北地区は着実に成長・発展していく。そしてその発展が日本国の国益と合致し地域の安定に資することは言うまでもない。

よって、第1に、日本は中国北東地区との共同発展を積極的に目指すべきであり、そのためにも文化・教育・スポーツ等の面で中国北東地区をプラスになるように差別化した支援政策を立てる必要がある。かかる観点から、延辺大学との学術交流は重要。

2に、経済交流が発展していくためには地域の安定が不可欠だが、この地域(東北アジア)は必ずしも十分に安定した地域ではなく危険もある。近隣諸国間のナショナリズムの問題は常に指摘されている。さらに、自然災害の問題もある。という状況の中で日本が果たすべき役割は安定力となること。この地域が右や左に大きく振れようとするとき、真中に引き戻す安定力が必要。それができるのは日本だけ。

3に、このセミナーに参加するに当たり資料に目を通していたところ、中国側、とりわけ吉林省、延辺自治州、そして琿春市のリーダーの発表の中に、しばしば“新しい時代”、“歴史の使命”、“歴史的構想”といった表現が出てくる。新しい時代を開くという歴史的な事業に関わっているとの気持ちでこの間題に取り組んでいる姿勢は素晴らしい。しかし、東北アジア地域とりわけ朝鮮半島と中国東北地区と日本との歴史背景を考えるとき、この地域に“新しい時代”を開くという目標こそ、まさに日本が取り組むべき21世紀前半の最大の課題。

これまで戦争の歴史は別の新たな戦争によってしか改まることのなかった人類の歴史を、戦争以外の生産的な方法によって諸民族の融合と繁栄の未来を実現することこそ日本の使命ではないか。そして、公平・平等・親切・正直・勤勉・節約・和といった日本の価値を諸民族と分かち合い、日本の本然の姿をしつかり国際社会にアピールしていかなければならないと考える。

(本稿は73日の上海センター・シンポジウムにおいて在リビア日本国大使、前在瀋陽日本国総領事小河内敏朗氏が報告されたものの報告原稿を本人の了解をとって掲載したものです)

(権哲男)  

1.延辺地域のGDP推移

(1)GDP規模   

  2004年、約185億元(約22.6億ドル)。うち、1次産業約28億元、2次産業約83億元、サービス産業約74億元。一人当たりGDP: 8,503

 

(2)GDP成長率 

199194年平均成長率:GDP8.6%、1次産業5.6%、2次産業6.7%(鉱工業5.7%、建設業21%)、サービス業17%と特に高い。 中国経済の過熱化の影響

199598年平均成長率:GDP5.2%に低下、1次産業2%に低下、2次産業6.1%(鉱工業7.5%、建設業−5%)、サービス業5.5%と著しい減少

19992004年平均成長率:GDP9.5%に上昇、1次産業8.1%に上昇、2次産業11.3%に上昇(鉱工業11.1%、建設業13.3%)、サービス業7.9%に上昇、再び高い成長率を維持

 

(3)産業構造  

産業構造:20041次産業約15%、二次産業約45%、サービス産業約40

      1次産業の割合は低下、2次産業の割合は増加、サービス産業の割合は横ばい

2.延辺地域の対外貿易   

(1)輸出入額の推移

199293:著しい増加

輸出入額:19911.45億ドル、19934.68億ドルに急増−中国経済過熱による建設素材需要の増加、1992年からの辺境貿易規制緩和、対ロシア、朝鮮の貿易の増加

199495:減少、特に1995年著しい減少

輸出入額:19951.55億ドルに激減、中国政府の緊縮政策の影響

19962001:緩やかな増加

  輸出入額:2001年の3.07億ドル

2002から再び急速に増加:2005年の7.2億ドル−主に輸出の増加によるもの

(2)国別輸出入額と増加率 

199294:対朝鮮、ロシア貿易が中心、延辺地域の貿易額の90%前後、特に対朝鮮貿易

が半分以上を占める。

19952001年:1995年対朝鮮とロシア貿易激減、その後回復の兆しがみられない

      対韓国貿易(通貨危機の影響をのぞければ)とその他国の貿易が増加、対日本貿易の増加は非常に緩慢

200205年:対朝鮮貿易が再び急増、その他国の貿易も大きく増加、2004年から対ロシア貿易が急増、対韓国と日本の貿易増加は非常に緩慢

 

 

(3)主な貿易相手国別輸出入額   

  対朝鮮は輸出入ともに増加、対露及びその他の国は輸出が大幅増、輸入は横ばい

  対韓および対日は輸入の微増

 

(4)輸出入商品構造  

 輸出商品構成:木及びその製品27%、農産物15%、織物原料及びその製品14%、靴・帽子類13%、四品目合わせて約70

 輸入商品構成:鉱産物32%、海産品25%、両品目合わせて約57

        鉱産物は主に北朝鮮の鉄鉱砂の輸入、鉱産物輸入額の約75

 

3.延辺地域の直接投資
(1)直接投資の推移  
19921996年急増:19920.04億ドル、961.34億ドル、図們江地域開発のブーム
 19972000年減少:20000.29億ドル−韓国の通貨危機、延辺地域の投資環境        
 2001から緩やかに増加:20050.52億ドル
(2)主な投資国  
2003年末までの累計投資額: 韓国2.96億ドル(63%)、香港0.62億ドル(13%)、日本0.42億ドル(9%)、
4.図們江地域物流ルートの現状
1995年、琿春―圏河―羅津(北朝鮮)―釜山(韓国)のコンテナ陸海輸送ルートを開通
2000年、琿春―ザルビノ―束草の貨客陸海輸送ルートを開通
(1)琿春―圏河―羅津―釜山のコンテナ輸送ルート(週一回)
   琿春―圏河(42km)、圏河−羅津港(51km) 
?圏河道路口岸:969月開放、貨物通過能力60t/年、旅客通過能力60万人次/年
A圏河口岸貨物通過量:19982000年急増、200103年微減、04年から再び増加
     19962.4万トン、984.1万トン、200016万トン、0517.1万トン
B圏河口岸旅客通過量:199699年増加、2000年からは緩やかな増加傾向
19961.2万人、9914.3万人、2000218.2万人、0425.4万人
(2)琿春―ザルビノ―束草の貨客輸送ルート(週三回)
琿春―ザルビノ港(約63km、車で1時間30分)
@琿春道路口岸:19934月、国際客貨輸送口岸として認可をえる
貨物通過能力60万トン/年、旅客通過能力60万人次/年、
A琿春鉄道口岸:19995月から試運転開始、200110月正式に対外開放
        貨物積み替え能力80万トン/年、旅客輸送能力50万人次/年、 
B琿春口岸貨物通過量:緩やかに増加  
  19960.7万トン、981.5万トン、20015万トン、059万トン
C琿春口岸旅客通過量:19992001急増、02年からは増減が交差  
19960.4万人、994.1万人、2001年21.6万人、0417.1万人
(3)その他対朝通商口
 図們鉄道口岸:貨物輸送能力250万トン/年、1954年から国際輸送開始
図們道路口岸:貨物通過能力25万トン/年、旅客通過能力10万人次/年
 三合道路口岸:龍井−三合(47km)、三合―清津港(87km
        貨物通過能力15万トン/年、旅客通過能力15万人次/年
5.図們江地域物流ルートの問題点
(1)通商口の設計能力と実際輸送量との大きなギャップ
琿春口岸(道路、鉄道):貨物通過能力:140万トン/年、実際輸送量:20059万トン
圏河口岸:貨物通過能力:60万トン/年、実際輸送量:200517万トン
2)輸送コストが高い
  20英尺コンテナ:大連―釜山 280340ドル
          琿春―束草 800ドル前後 
          羅津―釜山 850ドル前後 
    国内運賃、その他費用を含めると、大連ルートより1000人民元前後高い
    韓国の経済中心:主に西海岸都市に集中、韓国国内輸送が必要、コストの増加
(3)朝鮮とロシアの通関インフラ整備の遅れ
 @圏河−(元汀里口岸)羅津道路:未整備、
  「路港区」一体化プロジェク:朝鮮政策の不確実性−リスクが大きい、最近のアメリカの金融制裁、融資も困難
 A鉄道:露側の検査施設・通信施設の不完全、水道・暖房施設未整備、照明施設の欠如     
B旅客通過   
琿春口岸:中国側−8個の通関通路、1時間に1000人通過可能、
        ロシア側(クラスキノ口岸)―2個の通関通路
   圏河口岸:中国側−6個の通関通路、北朝鮮側(元汀里口岸)―1個の通関通路
Cロシア側(クラスキノ口岸):手続き繁雑、通過時間が長く、費用も高い、ロシア領内の貨物輸送はロシア会社が独占
6.図們江地域物流ルートの展望

 

(本稿は73日の上海センター・シンポジウムにおいて中国延辺大学経済管理学院助教授 権哲男が報告されたものの報告原稿を本人の了解をとって掲載したものです)


( 伊達俊行

本日は京都府における唯一の国際貿易港である京都舞鶴港の現状および将来への展望につきまして対岸交流新時代という流れの中でご報告させていただきます。

まずは京都舞鶴港の港湾としての位置づけですが、近畿地方日本海側では国が指定した唯一の重要港湾となっています。また、その背後圏は現状のコンテナ貨物などにおきましては北近畿すなわち京都府北部・兵庫県北部・福井県西部など周囲50KM圏内にとどまっております。昔の国名で言えば丹後丹波但馬若狭というところでしょうか。ただし現在就航している北海道フェリー航路での貨物の背後圏は近畿以外に中四国含めた西日本全域に及んでおり、京都舞鶴港が今後日本海側での対岸貿易を膨らませ主要窓口港湾としてその機能役割を大きく発揮すると想定した場合には、その背後圏は近畿2府4県まで達するものと考えます。

 次に京都舞鶴港と関西主要都市とのアクセスですが車では京阪神それぞれ1時間半から2時間程度の時間距離にあります。神戸大阪方面には舞鶴若狭道、京都方面には京都縦貫道が走り渋滞の少ないスムースなアクセスとなっています。

 次に京都舞鶴港と北東アジア諸国との地理的関係ですが、日本海を挟んで南北逆さまの地図にしてみますと、対岸地域から見た京都舞鶴港の位置がよく分かります。そして、これらの国々との航路ですが、先ずコンテナ貨物につきましては韓国釜山との間に週二便の定期航路が開設されており、韓国ローカル貿易の他、釜山を中継港として中国・東南アジア・欧州方面との交易にも活用されております。コンテナ以外の在来貨物につきましてはロシアナホトカとの定期船の他、北東アジア対岸各港とを結ぶ不定期船が往来しております。

 中国の主要港である上海、青島、大連とは1300KMから1600KMの距離となり航海日数も通常の貨物船で3日近くかかります。しかし釜山であれば1日以内、ロシアや北朝鮮の港でも1日から1日半程度で到達できる極めて近い距離にあります。京都舞鶴港がいかにこれら対岸諸国特にロシア沿海州、朝鮮半島東岸に対して近いかがご理解いただけると思います。

ここで本日の主題に上げられた中国東北部その中でも吉林省とりわけ延辺自治州と近隣の港の関係について若干のご説明をいたします。中国東北部は日本海に近いながらも海に面しておりません。現在例えば琿春地域の貿易貨物の輸出入を行うためには1300KM離れた大連港まで運ぶしかないのが実状です。この地域からですと将来的には100KM以内の距離にあるロシアのザルビノ港か北朝鮮の羅津港に出る方がより経済的ではないかといわれています。中国東北部からは今後他国の港を借りて海に出るいわゆる借港出海策が打ち出されるものと思われます。

次に北東アジア対岸諸国との貿易実績であります。2005年度の京都舞鶴港での輸出入総額は620億円でありました。そのうち北東アジア4カ国で287億円約46%を占めており、

そのうち中国が116億円、ロシアが84億円、北朝鮮46億円、韓国41億円となっております。2004年度は中国151億円、ロシア74億円、北朝鮮58億円、韓国43億円北東アジア4カ国合計326億円その他合わせた総額は510億円でした。これらの地域諸国の貿易総額に占めるシェアは2005年度は中国19%、ロシア13.5%、北朝鮮7.4%、韓国6.6%4カ国合計では46.5%となっております。ちなみに2004年度は合計で63%でした。いずれにしても貿易額の半分近くないしはそれ以上を4カ国で占めております。これらの数字によりまして、いかに京都舞鶴港と日本海対岸諸国との交易比率が高いかをご理解いただけたことと思います。

 次に京都舞鶴港の説明にまいります。京都舞鶴港は湾口が日本海に向かい幅700Mから2KMにおよぶ水路が東西南北複雑に屈折しています。東西2方向に分かれて港が作られており水深は10MTRから20MTRと深く、リアス式海岸を利用した、まさに天然の良港であります。

 舞鶴西港には海上保安庁第八管本部が利用している以外は、主として国際貿易港としての役割があります。在来貨物船・コンテナ貨物船などが接岸可能な埠頭を4つ合計12バース持ち、さらに和田地区に新たに多目的ターミナル埠頭を建設中であります。これが2010年代初頭に供用開始されますと、埠頭総面積12ha、水深14MTRで5万トン級の船舶が接岸可能となり、コンテナ・在来貨物いずれもが取り扱い可能な多目的ターミナルとなります。現在は、中古車積み込み、右はガラス原料である珪砂の陸揚げなどがされていますが、税関や植物防疫所、検疫所、入国管理局など貿易に必要な公的機関が隣接して設置されております。また貨物の荷役や通関を担う港湾物流関連企業も西港を拠点に営業活動しております。なお、1992年には輸入拡大を狙ってFAZ(フォリンアクセスゾーン)法が制定され1995年当地にも株式会社舞鶴21が設立されました。1997年には写真のようなFAZオフィスビルと倉庫が舞鶴西港区域に建設されました。現在も京都舞鶴港における貿易関連インフラとしてその役割と機能を発揮させていただいております。

 舞鶴東港は戦前から軍港としての役割がありました。現在も海上自衛隊舞鶴地方隊が設置されています。さらにユニバーサル造船がある他、北海道小樽と京都舞鶴を毎日20時間で結ぶ新日本海フェリーが就航しています。また内航貨物船は東港を利用しております。

さて今まで京都舞鶴港の現状を見ていただきましたが、京都舞鶴港はその役割と展望について今後どうあるべきでしょうか?

その地理的優位性やこれまでの実績から環日本海時代すなわち対岸交流新時代に対応した港湾インフラを整備するとともに新規航路・新規荷主の開拓と振興にあると言えます。

 港湾インフラ整備の目玉は数年先に供用が予定される和田埠頭であります。また日本海新時代のニーズに合った供用体制であります。また新規航路・新規荷主の開拓とはすなわち従来の航路では対応できなかった物流航路インフラの構築であります。現実的な問題としては政治経済情勢など日本海をめぐる外的環境が今後より良い方向に向かって行く前提での話にもなりますが、たとえばロシア・韓国・北朝鮮等の日本海対岸地域から日本海を横断し京都舞鶴港に直航する航路の開設など荷主企業のニーズに応じた物流インフラや、将来的には貨物とともに旅客も運ぶフェリー船の就航なども考えられるのではないかと思われます。

そのように京都舞鶴港が日本海交易通商においてその真価を発揮できるならば、近畿圏北部のみならず関西背後圏全体に大きな経済効果をもたらすものと信じております。

 最後に今回の報告の中では中国吉林省琿春市HPおよび京都府港湾課、国土交通省舞鶴港湾事務所からの資料を一部転用させていただきました。

 

(小島正憲)

1990年以来世界各地に工場進出し、現在2工場4000人を動かしている。去年4月からは琿春でも事業を開始し、10月からは工場も動いている。この工場はまだ赤字であるが、従業員数は今年末には1000人となり、三年後には帳尻があうのではないか。 ここに進出した理由は、華南・華中では人手不足となっていることが大きい。労働集約型産業に働きに来る若い女性の優秀なワーカーがいなくなった。もうひとつの工場は武漢周辺に持っているが、そんな内陸でもいなくなっている。もっと内陸に、との考えはあるだろうが、内陸部は輸送コストと輸送日数で問題が多く、それを選択できない。それで、「内陸でなく、かつ人手が余っている」地域と考えたら琿春に辿りついた。琿春は人手だけでなく、電力や水などの資源の制約もなく、このシンポのテーマである「中国東北振興」もこの文脈で考えるべきだと思う。 実際、琿春にきてみたら「第二次琿春ブーム」というのがよくわかる。実は2002年にもこの地を訪れ、対アメリカ向けのクォーターをすり抜けるひとつの方策としてここへの進出を検討したことがある。当時進出せず失敗したと思うのは、当時は琿春市長が広大な土地をタダで差し上げると言われたのが、今回はそうはいかなかったことだ。「第二次琿春ブーム」が韓国企業などによって起こされており、そのために多くの土地がすでにそうした企業によって取得されてしまっている。この地は中国の資源外交の結果、ロシアの石油、北朝鮮の鉄、石炭、レアメタルの輸入ルートとして重要で、西部大開発と同じ優遇政策がとられ、かつ朝鮮族自治州として少数民族の優遇政策もとられている。人材も豊富で日本語のできる人が多いのも我々にとって有利な進出先となっている。 日本海横断ルート開発については、ここからザルビノへも羅津へもともに三時間という距離にあるのが大きい。新潟、敦賀、舞鶴には最短ルートとなる。参考になるのは、ザルビノと韓国の間で通っているフェリーであるが、ここでは韓国からロシアへの中古バスの輸出が重要貨物となっている。左ハンドルのロシアには日本の中古バスは輸出できない。そこにうまく韓国が入ってきている。 「借港出海」という言葉があるが、その前に考えたいことがある。それは、豆満江を以前は船が通れたのを通れなくしたのは旧日本軍だという話である。この話を長い間理解できずにいたが、どうもチョウホコウ事件の際に、ロシア軍が川を上ってくるのを避けるために杭を打って川を浅くしたというのである。これが事実であれば、もう一度日中露で航行可能な河川とし、その暁にはこの旧日本軍の行為を書いた壁新聞などを消してもらえはしないだろうか。そんなことを考えている。 本日は歯切れの悪い話で申し訳ない。

(本稿は73日の上海センター・シンポジウムにおいて株式会社小島衣料小島社長が報告されたものを事務局の責任で文章化したものです)