近代上海史像の再検討

 日時  2007年1月21日(日)

 会場  京大会館

 司会  堀 和生(京都大学経済学研究科教授)

 報告者


張忠民   (上海社会科学院

陳計堯   (東海大学

堀和生   (京都大学)

李培徳   (香港大学

蕭文嫻   (大阪経済大学

小瀬一   (龍谷大学

木越義則  (京都大学

 
 講演概要
近代上海の都市発展と都市総合競争力

上海社会科学院経済研究所 張忠民

 近代上海は、開港直後の江南の一県城から、20世紀前半に近代中国最大の商工業都市、近代中国経済の中心にまで成長した。その要因は、上海が近代中国のその他の都市よりも強い総合競争力をそなえていたからである。

 近代上海の都市総合競争力は、大きく4つの側面から考察と分析を加えることができる。第1に地理的要因である。これは近代上海の都市総合競争力の最も基本的な出発点である。上海がゆえに上海となったのであり、上海がゆえに中国のその他地方と都市は取って代わることができなかった。つまり上海の地理的位置の非代替性が最も重要であり、もしこの点を踏まえなければ、我々のすべての議論は最も基礎的な前提条件を失ってしまう。第2に制度環境・社会人文環境である。周知のように、近代中国は戦争と内乱が頻発して、政治は混迷していた。一都市、一地域が外界から各種の「要素」を吸収する能力をそなえるためには、相対的に安定した制度環境と、その制度環境に対応する社会人文環境が必要である。これは近代上海の都市総合競争力のなかでも重要な「ソフト面の実力」であった。第3に地理的要因と制度環境・社会人文環境を基礎にして要素と資源が集中することである。これによって産業発展が形成され大きな経済力を持つようになる。19世紀半ばに西洋諸国に対して正式に開港されると、貿易に主導された近代都市経済の形成過程がみられたが、とりわけ上海は貿易が集中しその効果が放射状に波及する顕著な優位性がみられ、内外貿易を一体化した貿易競争力を形成して、当代並ぶもののない商業貿易の中心となった。次に、近代製造業が出現すると、上海の地理的位置は製造業にとっても必要な資源と要素を集中させる働きをして、強大な工業競争力を形成し、近代中国製造業の中心となった。この基礎の上に、上海は巨大な金融資源を集中させて、近代中国の最も重要な金融の中心と経済の中心になったのである。このような段階を経て形成された経済実力と経済競争力が近代上海の都市総合競争力の核心部分を構成した。第4に、先述した3点を基礎に、大量の人口流入を誘発し、この流入人口が上海という空間と範囲内に集中して、経済、社会、文化の各種事業に従事した。これによって都市行政と都市サービスに対する需要が生み出され、都市管理、そして都市サービスの競争力も培われた。

 この他に、近代上海の都市総合競争力研究において、国際競争力も重要な研究課題の一つである。近代上海の都市国際競争力については、開放性ある国際観念、租界の外国人人口、外国貿易依存度、外国資本の集中度、対外金融の活発性、上海産品の国際競争力、国際活動場所としての重要度といった側面から分析ができよう。本報告は、香港などその他の中国の都市と比較することで、この問題について検討した。当然ながら、上海の都市国際競争力は、歴史学の学術的課題であるだけでなく、現実の社会経済をめぐる問題でもある。中国という範囲内において、上海は絶対的な総合優位性と総合競争力をそなえていたという点は、検討した歴史時期においておそらく大きく改変されることはないであろう。しかし、上海の都市競争力にとって、国際競争力の問題は重要な課題である。この問題については、国際間の比較研究、共同研究が有効である。

 最後に、近代上海の都市総合競争力が中国の社会経済に及ぼした影響と意義は、正負両面があった。上海の都市吸引力と都市競争力は上海に持続的な資源の流入と都市の繁栄をもたらした。上海のような商工業の中心となる東洋の大都市が中国に生み出されたという点は、総体としてみれば、中国の社会経済に貢献したと言える。上海の発展は内地の社会経済にも波及効果があった。しかし、上海の都市総合競争力の上昇は、内地の人材、資金、そして資源を上海に集中させ、内地にとって発展のための資源が「出血」しているという事態も避けられず、近代中国の経済発展構造にみられる開港場と内地の「二元化現象」を一定程度強めた。ただし、近代の上海だからこそ近代中国の中で絶対的な競争優位がもたらされたのである。根本的に、中国は巨大な後発国であったと言え、その社会経済の発展過程の中では、必然的に発展速度と発展水準の不均衡が発生する。そして、このような不均衡発展の過程の中では、最も経済立地と制度上の優位性を持つ地域が必然的に優先的な発展と主導的な立場に置かれることになる。そのため経済資源の配置は自然とこのような地域に集中し、社会経済全体の中で突出した指導的中心が生まれるのは、理にかなっている。ただし長期的に持続可能な発展という観点からみると、上海の場合、上海は自身が都市的に発展しさえすればよかったのではなく、上海以外のその他内地の都市や地域が質量ともに持続的に発展する必要があった。そうでなければ、上海の発展は持続的に支えとなり頼りとなる拠り所を失っていたであろう。

(以上は本年1月21日に開催された上海センター・シンポジウムの報告を報告者に要約いただいたものです。来週以降も同シンポジウム報告の要約を掲載します。 事務局)

近代上海の穀物市場の変遷

−米穀と小麦粉の比較研究、1900−1936−

陳計堯(台湾・東海大学歴史学系)

 周知のように、近代上海は開港以来、中国と世界貿易の架け橋としての役割を果たしてきた。上海は、19世紀半ばから外国産品の輸入を毎年増加させ、他方で対外輸出も日増しに成長した。上海を経由した外国産品は中国内地、特に長江流域で販売された。中国内地の産品も上海に集められ、荷造りされ、発注を待ち、海外に運送される準備をした。同時に、上海は国内貿易の再輸出港としても重要な役割を果たし、中国の重要な港間、特に長江流域の港の間に上海を結節点とする巨大な貿易ネットワークを形成していた。

 しかし、このような近代上海の大局的な環境の中で、それぞれの産業が「上海ネットワーク」の優位性を同じように享受していたのだろうか、異なる発展形態はみられなかったのだろうか?もし異なる形態が存在するならば、我々が理解する中国経済における近代上海の役割について、どのような示唆があるのだろうか?このような問題に答えるためには、上海の環境を大局的にみるのではなく、個別事例の研究によって解決されるべきである。このような理由から、本報告は中国の穀物の中で最も重要な二つの物品−米穀と小麦粉−を研究対象として取り上げ、近代上海の穀物市場の変遷、特に市場構造上の変化を検討し、近代上海が中国経済において占める多重な関係についての我々の理解を一歩進めようとするものである。米穀と小麦粉、この二つの物品を研究対象として利用するのは、それらが中国民間の基本食糧であるという理由だけでなく、近代以前から長期的にかつ遠距離間で貿易されていた歴史があり、また近代に入り新たな変遷があり、さらに「工業化」の過程まで進入しているという理由がある。上海地域は、人口密集地域であり、食糧貿易はとりわけ重要であった。もし米穀と小麦粉の間で発展・変遷に差異があるならば、その差異について、我々はよりいっそう注意深く検討する価値がある。

 本報告は近代(1900−1936年)上海の食糧市場における米穀と小麦粉の二物品の変遷を検討するが、単にその量の顕著な成長だけでなく、米穀と小麦粉の間で構造的に異なる発展形態がみられたことを論じる。この期間、上海の食糧市場は二つの異なる発展過程が存在した。第1に米穀貿易には企業内部の垂直的統合の欠如がみられた。第2に、小麦粉貿易には大企業による垂直的に統合された制度の採用がみられた。精米工場と米商人は、上海あるいはその他都市、地域の「連号」を利用して米を購入することができた。そしてこの商業ネットワークはさらに生産地まで延びていた。しかし、この商号あるいは公司の間には、一つの垂直的に統合された制度がまったくなかった。それに対して、製粉工業の発展は、垂直的に統合された制度を生み出し、原料の購買から製品の製造、そして販売業務まで包括する経営拡大がみられた。本報告は上海以外の地域にも視野を広げてみたが、特に小麦粉を主食とする天津と米を主食とする広州は、それぞれ現地で米穀と小麦粉の市場発展がみられ、いずれも上海の事例と類似性がある。米穀貿易では、市場組織の持続が交易達成の重要な要素であったのに対し、小麦粉貿易では垂直的統合が一種の新しい経営発展の趨勢となっていた。

 以上の事実は、我々が理解する近代中国経済における上海の役割に対して、どのような示唆があるのだろうか?上海が近代中国経済史上に占めた位置についてはいささかの疑問もない。過去の分析を通じて、上海は近代中国における政治的地位(租界と治外法権)、地理的位置(長江三角州の出口)、商業ネットワークの進展、そして金融上の地位が、上海にある公司、行号に対して、その他地域の同業者よりも経営上大きな優位性を付与していたと言われている。しかし、米穀と小麦粉はいずれも同じ中国民間主食の重要な産品でありながら、上海市場における変遷はまったく異なる発展方式がみられた。これが意味するところは、上海食糧市場の発展に与えた要因には、上記以外の要因が存在しているか、過去の上海経済に対する一般的認識を再評価する必要性があることを示唆している。

 他の要因として重要なのは、近代上海の民族企業の発展が市場構造全体の変遷と持続に及ぼした影響である。製粉業の企業家たちは(無論、栄家あるいは孫家)、垂直的統合制度を創出したが、米穀貿易においては、商人たちは工業化以前の在来的な商業組織に依拠して、米穀を上海まで運送・販売し、そして上海市内あるいは他の港に再販売した。このように経営者たちの間で経営戦略の分岐が出現した。さらに、製粉業の中で垂直的統合制度を確立した企業は、その規模も全国性の企業であった。このような大企業経営は、従来の経営と生産コスト構造を改変して、生産量を拡大したばかりか、市場価格そのものを支配して、上海と中国のその他の地域間にソフトな連鎖を生み出した。また、この連鎖は過去の商人ネットワークのように個人関係で結ばれるのではなく、一種の確立された制度形態として出現した。大企業の出現の意義について、近年多くの研究成果が出されているが、製粉業の事例のように都市、港湾、地域などを跨いだ活動が近代中国経済の変遷に及ぼした影響については、探求されるべき課題の一つとなりうる。

 もちろん、各地域の飲食習慣そのものが産業構造に対して大きな影響を与えている可能性もあろう。上海あるいは中国のその他地域では、米の食用方法は基本的に米粒を炊くという昔ながらの方法であったのに対し、小麦粉は製粉して粉状し、それをこねて丸めて、麺状にしたり団子状の食品にしたりなど方法が多様である。前者の米穀は、食用の時点で、そもそもの形状と大きさを保っている。後者の穀物(小麦)は徹底的に別の形態に変形さされてから、食として供することができる。このような食用方法の相違は、製粉業を精米業とは別の発展条件、すなわち「標準化」(Standardization)と大規模生産を優位とする条件に置いた。米穀の場合、食用時に味わい、歯ざわりなど穀物の外在的形態が問題とされるため、市場では生産地別に米種について専門知識が必要なり、このように専門的な分類業務に従事する商人あるいは市場組織の必要性が高い。ただし、習慣は不変であることはありえない。価格、品質、人口移動、政府の政策など、一つの地方の食習慣と食物の分類方法を変える要素は多い。同様に、新しい農業技術、包装技術、そして販売方法が20世紀後半に出現した時、旧来の分類知識と「習慣」は改変、再構成され、従来の米屋、米問屋も市場ネットワークの中で消失した。このような動態的な企業、市場、そして消費文化の関係は、今後も研究を重ねる必要があろう。

 以上に述べた点をまとめると、近代上海食糧市場の変遷は、上海の大局的な環境の中で理解することはできない。なぜなら同じ環境の中で米穀と小麦粉市場では、異なる商業構造が生まれたからである。大企業の出現は、地理概念を中心とする「上海経済」について、よりいっそう多元的に制度面での考察を加えるべき点を示している。企業組織は地方市場の構造と変遷に影響を与える重要な制度である。そして、習慣そのものも商業活動に影響を与える。我々はこのような制度と社会各方面の発展についてよりいっそう分析を重ねることで、近代中国経済における上海の地位と意義について新しい知見が得られるであろう。

 

両大戦間期上海における貿易物価構造

木越義則(京都大学経済学研究科博士課程後期)

周知のように、第一次大戦を契機として、上海で近代工業の本格的な発展がみられるようになる。これまでの研究によると、その生産力は、世界恐慌、アメリカの銀政策といった世界経済の大変動の影響下でも減退することなく、日中戦争勃発まで維持されていたと評価されている。他方で、上海の外国貿易と国内貿易はともに、第一次大戦から満洲事変までは工業化と密接に関連した動向を示すが、1932年から両者とも貿易額が大幅に減少し、1920年代の水準を回復しないまま日中戦争に直面している。つまり、1930年代の上海は、工業生産力を継続的に伸ばしながら、それが貿易額に反映されていない。

 この問題を検証するために、本報告は上海の貿易物価指数を推計することで、貿易動向を価格と数量に分けて分析した。その結果、貿易数量は1930年代も継続して伸びている事実を確認できた。この貿易数量の継続的増加を実証することが本報告の第一の課題である。

 本報告の第二の課題は、近代上海貿易のピークを確定することである。貿易数量が伸びているという事実だけでは、1930年代も上海の貿易は活力があったとは言えない。同様に、貿易額、貿易収支も、貿易活動を一つの側面から捉える指標なので、必ずしも一国・一地域の経済力上昇を反映しているわけでもない。本報告は、貿易活動を総合的に評価する指標として「所得交易条件」を基準にする。所得交易条件とは、純交易条件と輸出数量指数を掛け合わせることで求められる数値である。それは、一国・一地域が輸出でまかないうる輸入の数量、すなわち輸入力の増減を示す指標である。純交易条件でみる価格の有利度、そして輸出数量指数でみる供給力を総合的に示す指標であると言えよう。

 両大戦間期上海の貿易数量は二つの特徴が確認できる。第1に1932年以降、著しく貿易規模を縮小させたはずの純国内輸出は、1933年まで数量を伸ばし、1936年までほぼピーク時の水準を維持している。第2にその他の貿易動向は、1920年代でも数量の増加は非常に限定されていて、むしろ20世紀初頭の水準からほぼ横ばいであるという評価が妥当である。このように貿易数量からみた場合、両大戦間期上海の貿易は、国内貿易の輸出だけが突出して発展したという評価になる。

 商品類別に貿易数量の内容を分析すると、1930年代上海の貿易動向は、第一次大戦以降にみられる特徴がよりいっそう強まっている。つまり工業製品を国内に輸出して、資本財を外国から輸入するという特徴がより顕著になっている。ただし、1930年代に国内輸出数量を牽引した品目は、それ以前と異なるという点も重要である。綿糸から綿布へ、小麦粉から米へ、そして雑貨類の成長がみられる。

 この貿易数量の推移に交易条件の変化を組み合わせると、上海の貿易は1930年代がピークであったとは言えない。

まず交易条件には、第1に輸出と輸入の価格の相対変化をみる純交易条件、第2に輸出と輸入の数量の相対変化をみる総交易条件があり、そして第3に冒頭で述べた所得交易条件がある。純交易条件と総交易条件を外国貿易、国内貿易にわけて検討すると、外国貿易は純交易条件が不利で、総交易条件は有利、国内貿易は純交易条件が有利で、総交易条件は有利とも不利とも言えないという結果がでた。つまり、外国貿易は、輸出数量が輸入数量よりも成長率が高かったのにもかかわらず、価格がいっそう不利であった。そのため外国貿易収支は赤字幅が毎年累積していった。一方、国内貿易は、輸出数量と輸入数量の成長率は同程度であったのに対し、価格面で常に有利な地位にあっと言える。その結果、国内貿易収支は黒字幅が毎年累積していった。

 外国貿易の場合、為替レートの変化が純交易条件に及ぼす影響を無視することはできないが、本報告はむしろ産業構造のほうが、上海の交易条件の基本前提になっている点を強調したい。上海の外国貿易は原材料を輸出して工業製品と機械を輸入する比率が高く、他方で国内貿易は工業製品を輸出して原材料を輸入する比率が高いという特徴がある。このように上海の国内外貿易は、農工間分業の比重が高い。したがって、交易条件の変化は、農工間の比価の変動から受ける影響が非常に大きいことが明瞭である。

 この農工間の比価の変動を検証するために、商品類別の純交易条件に対する寄与度を求めた。純国内輸出についてみると、純交易条件の有利化に寄与しているのは、飲料・たばこ類、そして工業製品類であり、特に紙巻たばこを主要品目とする飲料・たばこ類の寄与度が突出して大きい。次に純国内輸入についてみると、食料・動物類、原材料類の価格が相対的に低いという結果がでた。外国貿易については今後の課題とするが、以上の分析から、上海の国内貿易黒字の拡大は、相対価格が高い工業加工製品の輸出を伸ばしたことに依拠している点が明らかである。

 最後に所得交易条件を確認すると、全貿易で1928年がピークとなる。国内貿易は1930年がピークであるが、1931年には584から527へと大きくポイントを下げている。1932年以降、国内輸出は確かに大きく伸びたが、純交易条件はいっそう悪化しているので、1928年がピークであるという評価は変わらない。

1928年がピークであるという評価は、上海の貿易史上どのような意義があるのだろうか?これまで1930年代の上海について、世界恐慌の波及にもかかわらず生産力は落ちなかった、あるいは幣制改革の影響により回復がみられたという評価は、少なくとも貿易については該当しないと言える。なぜならたとえ生産力の減退がなかったとしても、純交易条件の悪化により貿易を通じた利益の縮小は逃れられなかったはずだからである。この事実も別の見方をすれば、純交易条件さえ回復すれば、供給能力を維持している限り、所得交易条件を伸ばすことができたことも示していると言えよう。

 

上海の経済発展と日本帝国

経済学研究科教授 堀和生

 本報告は、近代中国経済およびその工業の中心であった上海の発展を、日本およびその植民地を含めた日本帝国との関係のなかで検討しようとするものである。主な論点は次の通りである。

 第一に、日本経済の膨張と中国との関わりである。20世紀前半に日本貿易は世界的に例のないほどに急速に膨張したが、その過程は常に中国が大きく関わっていた。第一次大戦前には中国は植民地(朝鮮台湾)とともに、日本が機械工業製品(綿糸・綿織物)で外貨を稼ぐことができる唯一の地域であった。1920年代は、日本は直接投資によって在華紡を創設拡大することによって、 中国内に巨大な工業施設を作り出した。1930年代になると「満州国」を建国して東北部を中国関内から切り離したのみ成らず、「華北分離工作」により華北沿岸部にも日本の経済勢力を植え付けていった。

 第二に、上記のような日本経済の膨張過程は、中国および上海の経済発展を直接に大きく規定していった。上海の貿易構成を分析すると、第一次大戦期から工業製品輸入の比率が傾向的に低下し、それとは逆に一次産品輸入が増加していく。それらの趨勢は1937年まで一貫しており、端的に上海における工業発展を示しているといえる。ところが、興味深いことに、上海の輸出面にはそれに見合う変化は起きていない。つまり、上海の「黄金時代」には工業製品輸出がまったく増えておらず、1930年代前期にのみ工業製品の輸出が若干伸びているだけである。そして、上海輸出額は1931年より大きく縮小するので、工業製品輸出も31年をピークに大きく減少する。

 第三に、上海と日本との直接的貿易は、上海全体の輸出入一般と大きく異なる点はない。上海の対日輸出品の8割は一次産品であり、工業製品は1割ほどにすぎない。1930年代初頭の3年だけ工業製品輸出が増えるが、これは在華紡による特殊綿製品の対日供給である。逆に、上海の対日輸入品の6〜7割が工業製品で、一次産品が2割である。上海の対日一次産品輸入比率が他の地域に比べてやや高いのは、日本から大量の石炭を輸入しているからである。上海の対日輸入は29年のピークから32年にかけて1/4近くまで激減した。これは、国民政府の関税引き上げと日本製品ボイコットのためである。その後、対日輸入は次第に回復するが、36年でもピーク時の2/3にしかもどらなかった。機械、石炭が日本から輸入されていたことに見られるように、日本からの輸入が上海工業の発展に結びついていたことは明らかである。しかし、上海からの対日輸出品の中には在華紡製品を除いて上海工業の製品は殆どみられない。

 第四に、日本は満州を中国から切り離すことによって、上海工業の重要な市場を奪った。さらに、「華北分離工作」によって、日本が華北を満州および日本と結びつけたために、華北と華中の経済的結びつきはしだいに弱くなった。このことも、上海工業の発展基盤を脆弱にしていった。逆に、日本は満州に資本財を大量投入することにより重工業地帯を建設し、日本資本主義の基盤を拡大した。華北地域も、次第に日本帝国圏に組み込まれていった。このようにして、日本帝国は領域的経済的に中国を蚕食し、そこを資本主義に再編成することによって、日本自体を高度な資本主義に発展させていった。

 第五に、上海の輸出構造には上海工業発展の成果は殆ど現れていない。1930年代に上海の輸出が大きく収縮する過程で、とりわけアジア地域での貿易減退が著しかった。その事例として、東南アジア地域を取りあげてみると、上海の輸出減少をもたらした最も大きな要因は、日本製品の当該地域への輸出増であった。すなわち、東南アジアの工業製品や日用雑貨品市場においては、日本製品が中国製品や印度製品を急速に代替していった。このように、上海製品は国際市場において常に日本製品の圧倒的な競争力によって圧迫され駆逐された。

  結論 第一次大戦以後上海工業は「黄金期」といわれるような大発展をとげた。しかし、規模的には小さくないその上海の工業は、対外的には工業化に一歩も二歩も先行する隣国日本によって、圧倒的に規定される条件の下におかれた。それは、一方で日本が満州から華北にかけて次第に主権を侵害しながら、中国国内市場を奪っていったことである。他方で、先行する日本資本主義の高度化で、日本が常に中国製品より競争力にまさる工業製品を輸出することによって、上海の国外市場を奪うか、ないしは将来における市場開拓の可能性さえつぶしていった。このような国際的条件のもとで、上海工業は、国内市場とりわけ揚子江沿岸部の諸省、すなわち国民政府が統合統治している地域を対象とした国内向きの発展の道を進むことを余儀なくされたのである。日本資本主義の東アジアを基盤とした高度発展と、歪められた形での中国工業の国内向け発展は、同じコインの裏表の関係にあるといえよう。      

 

中国幣制改革と外国銀行

大阪経済大学非常勤講師蕭 文嫻

1934年の米国銀購買政策により、大量の銀が中国から流出し、通貨の収縮により、金融恐慌が引き起こされた。それを契機に、南京政府は銀本位制から管理通貨体制に移行した。だが幣制改革は、中国の最も重要な通貨改革であると同時に、最も重要な金融改革でもある。  

本報告の課題は、当時為替市場に多くの利害を持つ中国上海に進出している諸英米系外国銀行の目を通して、幣制改革に至るまでの過程を彼らがどのように捉え、また彼ら自身がその改革に至るまでどのように関わり、さらに幣制改革により、諸外国銀行の経営がいかなる影響を受けたかについて検討するものである。それを通して、中国の金融分野における外国銀行の位置づけを再検討すると同時に、中国金融市場の独特な性格を導き出したいと考えている。

外国銀行の位置づけに関して、最近の研究では中国系銀行からの競争により、外国銀行の影響が1920年代以降に低下したという指摘があったが、しかしこれは外国銀行が主に活動している為替市場において、中国系諸銀行がいかなる位置を占めているかを検討しなければ実態を理解することができないであろう。本報告ではこれまで使われることのなかった外国系諸銀行の上海支店の内部資料(香港上海銀行の資料はロンドンにあるHSBCArchives、チャータード銀行及び花旗銀行の資料は上海社会科学院経済研究所中国企業史資料研究中心に所蔵されている。

)を利用して、上記の課題に取り組みたいと思う。

1936年に上海に進出している外国銀行は全部で30行であるが、そのうちの20行は為替業務を行っている。為替業務を行う諸外国銀行のうち、最も優位に立っているのは香港に本店を持ち、在華貿易商人によって作られた香港上海銀行である。

為替分野において中国系諸銀行と香港上海銀行を中心とした外国諸銀行がどのように展開されているであろうか。中国の諸近代銀行の為替分野への参入は1917年前後であるとされている。しかし、為替市場への進出に大きな進展をもたらしたのは、1928年10月において中国銀行が国際為替銀行として政府の特許を受けたことであった。中国銀行は政府対外借款の元利返済に関わる為替業務を委託されたが、1932年以降の中国中央銀行の外国為替業務の参入に伴い、中国銀行は完全に民間経済に関わる為替業務への転換を図るようになった。他方、1928年に設立された中国中央銀行は、1930年の「海関金単位」の創設をきっかけに、金をもって輸入税を徴収することになった。海関税の金建てに改変することをきっかけに、為替市場における中央銀行の役割が大きくなった。さらに、1929年2月より、関税自主権を獲得した南京政府はこれまで香港上海銀行によって保管された海関関税を1932年までに次第に中国中央銀行によって保管するようにした。1932年8月になると、これまで中国銀行によって取り扱われていた関税や政府に委託された外債償還業務は中国中央銀行によって行われるようになり、同行は関税金為替部を為替局として組織変革し、外国為替業務に参入した。同行の為替市場における地位は、1933年の中央銀行以外の金融機関の金輸出禁止及び1934年10月における銀輸出税の引き上げ・平衡均税の設定、標金取引の管理規制によって大きく引き上げられた。 

1934年10月に香港上海銀行上海支店からロンドン店への書簡の中で、次のように書かれている。「ここでは外国銀行及びその他の外国人を無能な状態にするという考えが続々と証明されてきた。過去数年間においてはこの方向に向かってあらゆる措置が取られてきたと信じる。」

香港上海銀行を中心とした諸外国銀行の間で特に反発を呼んだのは1934年10月の銀元輸出税の問題である。同年7月以降の大量の銀輸出によって、金融状況がますます悪化した中国は対策として、銀輸出税・平衡均税を設定した。銀輸出税の引上げに対して、在上海の諸英系銀行が英外務省に銀輸出税に関して中国政府に抗議するように要求した。だが、英大蔵省は在上海の諸英系銀行の主張が外交陳情の対象ではないと判断した。この時期において英政府と在華外国銀行の利害に大きな相違が見られた。

香港上海銀行はこうした一連の為替市場における中央銀行の支配を強化する措置が、すべて米国人アドバイザーの「謀略」によるものと見ていた。同行が指した米国人アドバイザーとは、1929年に米国から中国へ派遣され、中国に「漸進的な金本位制」を提案したケメラー教授によって率いられた委員会のメンバーたちのことである。同行の推測は的中した。というのは財政顧問であるヤングが著作の中で中国の金融通貨における自らの役割を認めた。

本来なら、中央銀行は潤沢な外貨準備を獲得しているはずであるが、大きな財政赤字により、中央銀行が保有する準備は貧弱であり、幣制改革が実施されるまでは為替市場を統制するほどの影響力がなかったのである。

 これまでの研究において、幣制改革に至るまでの過程に見られるイギリスとの関係は、主に英大蔵省の借款提案や、リース・ロースLeith Rossの中国訪問を中心に検討されてきた(例えば、Endicott 1975、野沢編1981、秋田2003)。1934年10月から1935年3月初頭まで香港上海銀行は上海の中国系銀行、宋子文を中心とした南京政権当局との間にいくつかの銀流出対策を検討した。

(1)外国銀行による民間借款引受。この民間借款は主に担保の問題と英政府の保証を受けられなくなるというの問題点があるので、結局実現できなかった。

(2)外国銀行による2000万ポンドの公債引き受け

1934年11月、香港上海銀行が英政府による2000万ポンドの信用保証による公債発行を提案した。同行は、銀平衡税を取り消し、銀を市場価格で取引できるような自由な銀本位制に戻るため、中国の国際収支赤字を是正するための借款を宋子文へ提案し、英政府に提出した。宋子文が同行に依頼した理由は、「中国政府は担保品がない」ことである。しかし、この借款案は最初からいろいろな障害があった。中国政府との間で借款の保管をめぐる問題や、英政府大蔵省の反対及び香港上海銀行自身の中国政府への不信などによって借款は、結局幣制改革が行われる11月まで成立しなかった。

(3) 中国銀行家が香港で銀ドルを買い上げ、上海へ運送する計画。同提案の効果が疑わしく大変高価な緩和策であることので、中国系諸銀行が預金流出など緊迫な状況に陥っていることを如実に示している。

では、幣制改革が在上海の諸外国銀行の経営にどのような影響を与えたであろうか。1934年11月から37年7月までの間に中国政府は米国に対して2億6百万オンスの銀を売却して、その対価として9,500万米ドルを受け取った。その結果、諸中国政府系銀行はかつてない潤沢な外貨を保有することになった。元来上海には中央銀行がなく割引市場もなく、銀行間のコール制度がないため、各銀行は手元逼迫をきたした場合にもまた反対に遊休資金の巨額に苦しむ場合にも、為替取引によって資金吸収・遊休資金の利用を行う。幣制改革後政府の統制が強くなったと言われる上海為替市場においてもそれは変化しなかった。ただ対外為替を管理する中央銀行と政府貿易の為替業務を担う中国銀行は、豊富な外貨を持つことによって為替市場において重要なプレイヤーとして登場するようになり、外国銀行との間に対等的な対立競争関係を展開し、コストを無視するような価格競争によってこれまで外国銀行によって支配してきた市場の主導権を奪い返して行く。

 その結果、在華外国銀行は新たな活路を見出すことが必要となるが、そこで幣制改革以前にすでに拡大した香港上海銀行は現地業務を維持しながら、幣制改革によって政治基盤が安定した南京政府への政治借款の引受業務を再開させたのである。

またチャータード銀行は為替銀行から一般中国商業銀行へと大きな戦略転換を図ろうとしたが、日中戦争によってこれを実現することができなかったであろう。しかし、英国系諸銀行と違って日中問題など上海に明るい見通しを持っていないからか、米国系花旗銀行は現地貸付業務を縮小させた。諸外国銀行における対応の違いは当時中国の将来を予測する難しさを示しているのではなかろうか。

1920年代から1930年代までの上海商業儲蓄銀行の横領問題

李培コ(香港大学)

1920年代と1930年代は、上海の銀行業にとって、極めて重要であり、また複雑に錯綜していた年代であったと言える。第1に、この二つの年代に銀行業は急速に成長し、繁栄のピークに到達した。第2に、国民政府はこの期間に金融改革と経済統制政策を積極的に推進した。第3に、中国の内憂外患は、政府の銀行業との合作をいっそう容易にし、政府にとって有利に各種政策が推進された。第4に、世界経済の発展が中国に影響し、特にアメリカの銀政策は直接的に中国通貨の安定性に影響を与えた。このような流動的環境は、銀行の経営者と従業員に対して、どのような影響を及ぼしたのであろうか? 第5に、上海の銀行業は1920年代から1930年代にかけて発展すると同時に、いまだ完全に銭荘を駆逐しておらず、まだ成熟した段階に到達していなかった。中国の金融機構は、現代化への移行過程に邁進していたけれども、伝統的な要素の影響を払拭することは非常に困難であった。銀行員の横領問題は伝統的商業習慣とどのような関係にあったのだろうか?

 上海商業儲蓄銀行(以下「上海銀行」と略称)は1915年に開業した。開業当初は小規模の銀行で、資本金は10万元に満たなかった。しかし、10年後には上海はおろか全国でも屈指の民間銀行にまで一躍成長する。これまで学界は、上海銀行の成功は創始者である陳光甫の思想と経営戦略と密接な関係があると論じている。陳光甫は、銀行を健全に経営するためには「不履行なし、横領なし、取り付けなし」が原則であると認識して、企業内部の管理を重要視した。本報告執筆の目的は、第1に陳光甫の原則は絶対的には成功していな点を指摘することである。第2に、銀行の幹部の動向だけを注視するのではなく、中下層の従業員にも分析を広げることである。彼らは「行員」と呼ばれており、「銀行家」と同列の地位にはなかった。これまでの研究は銀行家と非行員(官僚・政治家など)に多くの注意を払っているため、行員が銀行業務の執行に対して与えた影響について分析の余地が残されている。第3に、行員による横領が発生した原因と経過、そしてそれに対する銀行の対策について検討することである。

 銀行家は作業効率を高め、コストを削減し、業務上の横領などのリスクを回避するために、行員に対してさまざまな措置を実施していた。例えば、職業訓練、福利厚生制度、賞罰規律の厳正さを重視した評価制度など。しかし銀行家が最も有効であると信じていた方法は、行員の思想と行動の統制であり、それによって行員と銀行をいかに協調させるかであった。そのために、「サービス社会」、「銀行は我、我は銀行」といった観念を大々的に称揚し、銀行を大きな家庭にみたて、思想教育を通じて行員を銀行の中に融合させ、彼らが全力で銀行業務に邁進するようにしむけたのである。しかし、規律厳正な人事管理方法と完全中央集権的な総経理制度は、相反する効果を生み出す可能性があった。

 陳光甫を含めた多くの近代中国の銀行家たちは、海外留学経験があり、新しい思想を背景にして、伝統と因習に対して批判的であった。しかし行員養成の面においては、まさに学者たちが指摘している通り、いたる所でさまざまな伝統文化を織り交ぜた表現がみられ、ひたすら団体(銀行)を強調し、そこには個人のかけらも認められない。それに対して、指導者層の指揮を唯々諾々と受け入れない行員が出現するという反作用がみられた。1930年代に発生した横領事件は双方の矛盾の氷山の一角が表面化したにすぎなかった。1937年に日中全面戦争が勃発すると、上海金融市場は空前の動乱にみまわれ、銀行職員の投機と横領問題が日増しに厳重さを増すようになった。下級職員の上級職員に対する不満は、職権の乱用から公私混同に留まらず、その政治立場にまで表面化するようになった。それに中国共産党の地下工作が浸透し、第二次大戦終結後の行員問題はいっそう複雑さを増したのである。

  本報告は、上海市档案館所蔵の上海銀行の一次資料、そしてすでに出版されている各種関係資料を利用して、上海銀行が1920年代から1930年代にかけて直面した企業管理問題と上海金融市場の急激な変動との関係について検討する。また先述した横領問題が、1929年から1934年にかけて陳光甫が実行した総経理制、分区管理制、管轄行制、各部門・各支店の監察強化といった銀行の企業組織改革をどのようにして引き起こしたのかを検討する。