「3つの厄介な歴程(Three Troubling Trajectories)

 主催  京都大学経済学研究科上海センター

 日時  2007年11月10日(土) 10:00〜12:00

 会場  経済学研究科2F 大会議室

 講師  ジョージ・クー Deloitte & Touche USA LLP         

 講演概要
   紳士淑女の皆さん、私は世界的に有名な京都大学に招かれ皆さんの前でお話できて光栄です。またここにこられたことは個人的にもうれしいことだと思っています。私は京都へ来たことが何度もありますが、1回目の訪問をいつも心に銘記しています。それは1975年10月、32年とちょっと前のことです。私はSRIインターナショナル(正式にはスタンフォード研究所)の出張で来まして、当時の同僚であり、今私の親友でもある高岡さんが、時間を取って京都を見せてくれたのです。当時彼はSRIのアジアオフィスの事務局長で、明らかに京都、そして京都大学の卒業生であることを誇りに思っておられ、その誇りは私の旅をより忘れ難いものにしてくれました。

 私は本当に、世界中の旅行を楽しんでいます。毎回の旅と訪問先は、歴史、文化と、世界中に住んでいる人の多様性を学ぶたくさんの機会を与えてくれます。たとえば、妻と私はこの前、シチリアを初めて訪れ、十日間を過ごしてきました。この旅行をしてから、私はシチリアがおそらく民族の多様性の最古の受益者の1つであることを知りました。ご存知のように、シチリアは活火山によって定期的に加えられる豊かな土壌、豊かな日差しと暖かい気候を持っています―地中海のカリフォルニア州といえます。多くの人があそこに来て定住しました─フェニキア人、ギリシア人、ローマ人、ビザンティン人、ムーア人、ノルマン人と、そして現在でも若い中国人が来て観光地でお土産を売っています。それぞれが自らの文化や価値観を持ちこみ、シチリアを豊かにし、その豊かな遺産を増やしました。

 

 また後ほどシチリアに関する話に戻って来たいと思いますが、今日は中国、日本、米国に関することをお話するために来ました。私は、中国で小学校を出た以外は、米国で教育を受け、育ってきました。私は1978年以来、ビジネスコンサルティングの仕事で、定期的に中国を訪問してきています。またときどき問題を抱えた米中両国の関係について論評を執筆しており、両国のことをかなりよく知っていると思います。日本はそれほど頻繁に来たことがないので、日本の専門家とは言えません。だから、もし、私の今日のプレゼンテーションがバランスを失しているように聞こえましたら、ご容赦願います。

 

 この場をお借りして、いくつかの個人的な見解を述べていただきたいです。これらの見解が率直すぎて反感をもたれるかもしれませんが、もし私の発言に配慮を欠くところがあればお許しください。米国で育てられた背景が私に“率直に言う”ことを求めます。丁寧であいまいな言葉で私の見解をあいまいにすることを通して、一流の聴衆といくつかの非常に重大な関心について意見を交換するチャンスを逃すわけには行きません。私の発言が攻撃的なものではなく、刺激的なものであることをお分かりいただけると望んでいます。

  中国、日本と米国が世界中における3つの主要な大国であるかどうかについては議論があるかもしれませんが、 アジア太平洋地域におけるもっとも重要な大国であることについては、疑問の余地がないと思います。いずれの国も多くの共通の利益を持っていますが、価値観と優先事項において重要な違いもあります。いずれの国もいまから皆さんと議論したい、不吉な問題の予兆に直面していると思います。アジア太平洋地域の平和と安定は 3カ国がいかにうまく、健全に付き合っていくかにかかっています。

 まず、中国について話しましょう。最初に出張で中国に行ったときに、 70年代後半から1980年代初めには、アポイント取り付けのため電話をかけることだけでさえフラストレーションのたまる経験でした。あの時期北京には電話回線数があまりに少なく、番号を回し終わらないうちから通話中の信号が聞こえることすらありました。現在、中国には500万人の携帯電話のユーザーがあり、交換台にはボトルネックはありません。

 1985年には、クライアントの一つである自動車部品メーカが中国における合弁会社の設立を祝っていました。その同じ年に、ドイツのフォルクスワーゲンの合弁会社が上海での生産を開始しました。当時中国の自動車の年間総生産量が50万台未満であり、そのうちの多くはトラックやバスで、セダンは 5000台しか生産されていませんでした。21年後の2006年には、中国の自動車生産量は700万台を超え、そのうち約450万台が乗用車でした。この期間中に自動車の生産が14倍以上に増加し、乗用車は900倍と驚異的に増加しました。現在中国は、日本と米国に続いて世界3番目の自動車生産大国になっています。

  中国経済が過去の約30年間に7年ごとに倍増してきたことを今日誰もが知っています。長い間、懐疑論者にはこのような前例のない成長が可能とは思われず、公式統計を疑問視していました。かれらは、報告書を提出する29省の内、28省が、全国平均値より高いGDP年成長率を提出する―明らかに数学的に不可能なことを指摘しています。しかし、後に、中央政府による全国平均の計算が低すぎ、地方のレポートより正確でなかったことが判明しました。

 

 中国は、どのようにしてこうした驚異的な成長を達成したのでしょうか?完全な説明は、私がここで述べることができるよりはるかに複雑ですが、鍵となると思われるいくつかの点をハイライトし、概要をご説明したいと思います。

 1980年代の初めに、中国の農業部門における人民公社体制が解体されました。農家は基本的に自由に自分の作りたい作物を作れ、ほかの生活方式を追求できるようになりました。多くの人、特に長江以南に住んでいる人々が裕福になり、さらには小規模な事業を始める時間とエネルギーをも持っていました。これは、中国の経済改革の早期に重要な役割を果たした郷鎮企業の前身でした。

  その後まもなく、中国が試験的な一歩を踏み出し始め、いくつかの経済特区を設立しました。そのうち最も目立っていたのは香港のすぐ隣にある深センでした。香港の企業がすかさず有利な条件を利用して、コストの競争優位を維持するために、工場を香港から隣に移動しました。北米自由貿易協定調印時のロスペローの米国に関する悲観的な予測は、実は、香港で的中したといえましょう。多くの高層型の工場が空になりました。

  香港企業の次に来たのは、台湾、東南アジアからの経営者たちでした。ほぼすべて華人であるかれらは、中国内に製造業の立地を始めました。この間北京では、計画経済モデルを残したい陣営と経済を大きく開放したい陣営との間にまだ多くの内部論争がありました。 そのうちの一人は、長老的指導者だった陳雲でしたが、彼は“鳥籠”経済という言葉を作り出しましたのは有名です。この国の経済は、陳によると、籠の中に入れられていなければなりません。籠はゆるかったりきつく締め付けたりすることはありますが、経済は籠から逃げ出してはいけないのです。

 1992年、トウ小平氏が自由市場の賛成者を支持するために、この論争を中止させようと決断しました。彼は今、よく知られているように深センに赴き、“富裕になることは栄光である” (南巡講話)と宣言しました。こうして、中国の門戸が広く開かれ、外国からの直接投資を誘致し始め、その増加は最初の1年間で300億ドル、そして400億ドル、 500億ドル現在では年間600億ドル以上に達するというように急速なものでした。今日、中国は世界で最もオープンな市場経済になり、外国直接投資の最も魅力的な磁石になっています。

  経済政策の点では、趙紫陽から朱鎔基、さらに温家宝までの間、中国のアプローチは慎重で、一歩一歩と試行錯誤するものでした。 “石を手探りしながら、川を渡る”と言うトウ小平氏のもうひとつの名言がこのアプローチを説明しています。 これらの政策立案者たちは、ソ連がコントロールをせずに迅速に西欧資本主義を採択したときに、起こったことと、そして崩壊してしまったことを見ました。北京がシンガポールを発展のテンプレート(手本)として、経済発展につれてコントロールを次第に緩めました。

 1980年の初めに、中国が開発融資のため、世界銀行に近づいていました。第3世界の多くの国とは違って、中国は、ただお金を欲しがっているだけでなく、世界銀行とこれらの開発融資に際し課される様々な条件について共に取り組んでいくことをも望んでいました。これらの条件は、北京が内部統制のためのルールを確立すると金融規律を教え込む必要な学習プロセスだと看做したわけです。完全な計画経済から市場経済への移行には、中国はルール、金融プロセスとコントロールの実施に関する外からの指導が必要であり、しかもこの必要を認識して外部ソースから学ぶのを喜んでいます。興味深い歴史的な脚注のひとつは、世界銀行と一緒に取り組んだ中国チームを主導した人物が朱鎔基だったことです。

  その後、朱鎔基首相がかなりの内部からの反対を抑えて、中国をWTOに引きずりこみました。彼はWTO加盟国に課せられた規律が中国にとって利益になるもの、中国の競争力を引き上げるものと信じました。中国は、世界的競争に対応しなければならないため、中国は製造業の質を高め、非効率な工場を廃止しようとしていました。この移行が痛みを伴うものを予想され、約30万人以上の労働者が不完全な雇用状態、あるいは失業の状態に陥っていました。しかし、中国を正しく評価すると、中国が長期的な利益のため、短期的な痛みを喜んで引き受けてきました。

  今日、中国は世界第3位の経済大国にすでになって、あるいは間もなくなるでしょう。蓄積する外貨準備は1兆ドルをはるかに上回り、数千百万人を貧困ラインから脱出させ、しかも、ソフトパワーの行使や、アフリカ、南米やもちろん他のアジア諸国にそのプレゼンスを感じさせるのにも長けてきました。残念ながら、これは全体像ではありませんが、中国台頭に伴う暗黒面を議論する前に、中国が行った正しいことを簡潔に要約したいと思っています。

 1978年改革が開始された時、中国はすでに30年近く世界の他の地域から切り離されていました。政策の変更への、漸進的、試行錯誤的なアプローチは正しかったと私は信じています。北京政府が漸進的に対処しなかった側面のひとつはインフラ投資の重要性を早めに認識していたことです。インフラに投入した資金が世界銀行の融資だけでなく、北京政府が港湾施設の改善、発電所の増加、複線鉄道と高速道路網の建設のために、赤字財政支出を投入しました。このように経済成長にコミットするほかの国はありません。もちろんインドもそうではありません。

 中国は、大陸以外の地域(台湾を含む)に住んでいる60万人以上の華僑の恩恵を受けています。これらの華僑の多くは、たとえ中国以外に生まれても、彼らのアイデンティティと母国との文化的つながりが決して失っていません。台湾と北京政府がともにこのような帰属感覚と、先祖との同族関係を奨励するため努力しています。また、香港に住んでいる人を含める華僑が中国で投資した最初の人です。1992年トウ小平氏の南巡以前の中国改革の初期段階には、華僑による投資が中国の海外直接投資の主なソースでした。台湾の投資は、台湾政府によって正式に承認されているかどうかにもかかわらず、雇用創出だけでなく、継続的に良質な製品を製造する必要な方法とアプローチを大陸に導入するのにも主要な役割を演じました。 (中国からの欠陥商品が最近頻発することはどうなんだと皆さんの中に誰かが思っているかもしれません。残念なことに、抜け道を探す傾向(上に政策あれば、下に?策あり)は、中国人の性格の一部です。私はこの問題に対し部分的な解決案を持っています。もし興味があれば、Q&Aのところでお話できると思います。 )

 

 過去10年間、外国直接投資が日本、韓国、米国、欧州など世界中の国から来ました。それ以前には、これは主に海外の華僑からのものでした。イスラエルを除いて、このように離散民を利用する国はほかにありません。これは、外国投資を導入する門戸を広く開くために、「何匹かの西洋の蝿」を飛び込ませる危険を冒して、北京の取った周到な政策でした。また、このように門戸を広く開き、成功を収めてきたのは他の国にはありません。

  残念なことに、中国は、欧米の経済発展モデルを変更せずに追随し、先に発展した国々が払った対価というものを学びませんでした。すなわち、それは環境影響を考慮しない経済成長でした。工場が汚染物質を排出し、社会がこの費用を負担し、普通の人が病気や寿命短縮という代価を払いました。中国国土の大きさと急速な経済成長率により、望ましくない副作用は、残念ながら拡大しています。現世代の指導者はこの深刻な結果がわかり始めましたが、この問題に対処する効果的な方法が見つけていません。中国の経済が拡大すればするほど、空はもっと暗くなり、土地がもっと汚染され、川と渓流がもっとより有毒になります。中国には、砂漠化面積が12年間で60 %増加しています。 1994年には、 17.6 %の中国が砂漠でしたが、現在では27.5 %です。新鮮な空気、青い空、きれいな水と緑の公園を享受することができる幸運な私たちから見れば、これは非常に憂鬱な状況です。

  これが北京にとってこのような困難な問題になっているその理由は、巨大な人口を養うために、政府が経済を引き続き拡大し、雇用を創出しなければならないということです。中央政府が、人的資本への投資として大幅に大学入学者を増加する計画的な政策を立案しましたが、今彼らは、経済の全領域におけるいろいろな新規雇用とともに、自分のトレーニングや願望に合う仕事を探す必要に直面しています。経済成長率を維持する原動力はほとんど、制御不能になっています。地元の当局者は、依然として、どのように迅速にGDPを成長させることによって駆動されています。北京政府は報告されたGDPから環境被害と改善やコストを引いた“グリーン”GDPを測定しようとしてきましたが、今のところ、怒涛のような経済成長に伴う弊害を計算する方法を見つけることができていないし、環境保護に平等に注意を払うように地元の当局者を納得させることもできていません。

  今日、中国への訪問者は誰でも、別にそして環境科学者でなくとも、この問題の恐ろしさと挑戦がわかります。そこには西洋の技術が中国に導入され、バランスを取り戻すに役立つ本当の機会があります。発電所であれ、自動車であれ、中国は、多くのエネルギーを無駄にし、多すぎる汚染物質を排出しています。中国には水が極めて不足し、一人当たりの水保有量が世界の平均の4分の1しかありません。しかもこの問題は悪化しています。これらは外国の技術が現状を改善できるほんのいくつかの分野です。中国の環境劣化の改善を支援するのは、利益を生むだけではなく、私たち自分の利益にもなります。結局のところ、汚染というものは国境など尊重してくれません。

  中国の問題の一部は、もちろん、中国がまだルールにより統治された国ではないという点です。権威に依存しているとき、多すぎる自由裁量と不整合が生じています。腐敗行為の発生する機会が多すぎます。中国の胡錦涛国家主席が最近の人民代表大会で再び制度的な汚職の取り締まりを宣言しました。彼がどれくらい成功を収めるのかは予断を許しません。私は、中国があまりにも広すぎるため、中央当局が統一的に効果的に反腐敗行為を実施することはできないと思っています。

  インターネットや携帯電話は確かに有用だと私は思います。中国が両方とも重要なコミュニケーションツールとして認識し、その利用をコントロールしようとしている一方、その成長を奨励しています。情報の流れは、それを監視し、制限しようとする当局の努力を追い越していくと信じています。コントロールの代わりに、私は、北京がウェブページ、ブログ、メールやショートメッセージを開けばよいと願っています。そうすることで、より多くの透明性を国に与え、全国民が腐敗官僚と不正行為者に注目を浴びせるようになるでしょう。たとえ、中央政府がこのような方策を奨励しなくても、これらのツールの利用が必然的に増加し、国民の声が大きくなり、国民が利益を得るでしょう。

 

 米国の一般的な考え方とは違って、民主主義の政府が必ずしも中国の解決方策であると私はそう思っていません。確かに現在米国で実行している民主主義は解決方策ではないでしょう。アメリカでは、民主主義がドルによる信号で測定されています。政治候補者の成功の可能性が彼/彼女の立候補を支持する金額にかかっています。たとえ地元の野犬捕獲手に立候補するような場合であっても、まずしなければならないことは、資金を集めることです。もし候補者が成功すれば、選出された後、最初にすべきことはもっと多いお金を集めることです。これは現職として次の選挙で厳しい挑戦に直面しないようにするためです。

  アメリカでは、民主的なプロセスのすべての側面がお金で勝ち取られます。候補者自身がテレビ広告を掲載するために巨大な運用資金を有しなければなりませんが、彼らが技術的に自分で集められる金額に制約されています。したがって、特別利益団体が、当人の敵対する候補者と、不賛成の問題につき批判する、攻撃的な内容の広告を掲載するため、無制限の金額を集めて、補填します。これらの攻撃的広告は、真実や真理を含むことはなく、中傷的な当てつけと真っ赤な嘘を扱っています。匿名団体と店頭組織の陰に隠れているので、罰を受けずに逃げることができるのです。

  このような環境では、本来ならば取るに足りない詐欺師が大きな政治献金者を装うことにより、巨額の資金を作る可能性があります。現在アメリカでは、ある事件が起きています。ノーマン・スウという人物は、合法的な投資を行なう代わりに、投資家の資金を、お金を渇望している候補者に提供することにより、尊敬を勝ち得る立場に立つことができ、結果として他の人から更に多くのお金を集めることも容易になることを発見しました。ペテン師はいつの世にももいますが、アメリカの現在の環境がこのようなことを大きくさせる舞台を提供しています─違法なわけですけれども。要するに、アメリカの民主主義は、元の理想からあまりにも遠く離れてきています。もし建国者たちが今のこの国を見たとしても、自分たちが作った国だとはわからないでしょう。

  中米両国の関係の現状は、米国の国内政治のレールに乗っているジェットコースターのようです。中国は、野心のある政治家にとって定期的に使うのに便利なスケープゴートになっています。彼ら政治家はそうした行為がよくないと知っていますが、米国の国内問題を中国のせいにする誘惑に抵抗することができません。貿易赤字はほんの一例です。1997年には、中国はアメリカの貿易赤字の27 %を占めているのに対して、日本を含むほかの東アジア各国は47 %を占め、合計74 %で、米国の赤字全体のほぼ3/4を占めていました。 2006年には、中国は全体の28 %、他の東アジア各国は僅か17 %を占め、合わせて全体の45 %しか占めていませんでした。合理的かつ客観的な観察者は、東アジアからの多くの製造業が、中国に移ってきて、膨れ上がる貿易赤字が略奪を企図した行為によるものなどではなく、ワシントンの政策のためであると、言うでしょう。しかし、米国の収入を越える支出性向、ドル安、輸出面での障壁および他の国内原因は政治家には難しくて解決できません。これに対して、演壇に立って、すべての問題を中国のせいにした方がはるかに簡単です。

  ワシントンが(そして東京も)中国の軍事支出を脅威と感じるのはさらにばかげたことです。ラムズフェルド前国防長官がばかなことをしました。比喩的に言えば、彼は、中国の海岸の沖合で、米国の航空母艦のデッキに立ちながら、外洋航行能力を有する海軍を発展する中国の積極的な大胆な意図を非難していたようなものです。中国の軍事能力が日本の技術に匹敵できるようになるまでには数年はかかるでしょうし、アメリカに匹敵できるようになるまでにはもっと長い時間はかかるでしょう。中国は国内の議題にはしなければならないことがあまりにも多いため、アメリカとの対抗を考慮に入れていません。しかし、中国が、確かな報復攻撃能力を確保することにより、 妨害されずに中国国内の議題を引き続き行いたいという願望をもつのは理解できます。私はこれをヤマアラシ防衛と呼びたいです。

  私は9月11日の世界貿易センターの攻撃が世界史的なコースを変更したと絶対に確信しています。その年の4月に、中国のジェット機が海南島の近海でアメリカン航空偵察機に衝突した偵察機事件で世界中が愕然としました。ワシントン政権を引き継いできた新保守派のおかげで、中国と米国の衝突は必至でした。 しかし、9-11事件の後、ワシントンが本当の敵を見つけました。中国がアメリカの極上の敵対国ではなく、テロとの戦いにおける関係の希薄な同盟国になりました。

  ビンラディン氏は、破綻しつつあったアメリカにおいて、9-11事件が成功するとは夢にも思っていなかったと私は信じています。アフガニスタンでの軍事任務を片付けることの代わりに、ブッシュ政権がビンラディンの脱出を容認し、イラクで戦争を起こし、最も呆れるほど無能なやり方で戦争に大失敗してしまいました。グアンタナモとアブグレイブのおかげで、人権問題のことになると、米国はすべての道徳上の理由を失ってしまいました。ブッシュ政権がジュネーブ条約を回避するために“敵性戦闘員”という新たな用語を発明し、―戦争の捕虜ではなく、この理屈は彼らの人権と尊厳を奪っても結構だということを意味しています。アメリカのメッセージはすでに“私のするようにではなく、言うようにしなさい”というものになりました。アメリカの世界における威信は史上最低となっています。世界最強の軍事大国さえ、銃や爆弾に頼って一方的に、簡単に世界の問題を解決することはできないことがワシントンはだんだんわかっています。次期政権が、有能で、洞察力のある、非イデオロギー的な、イラクの被害を元に戻す意思がある人物によって担当されない限り、ブッシュ大統領の9-11事件への反応、9-11事件自体ではなく、ブッシュの反応こそがアメリカの衰退の「滑りやすい坂道」になることを、歴史が証明するだろうと、私はそう思っています。すべての歴程の中で、これは最も厄介なことであると思えます。

 

 シチリアのシラクサへの訪問中に、興味深い歴史の教訓を学びました。シラクサはギリシャ時代に一つの強力な都市国家でした。紀元前413年に、アテナイの侵略海軍がシラクサ守備軍によって全滅され、アテネの衰退とシラクサの相対的に平和な時期がもたらされました。しばしの間、シラクサは民主主義を実験したが、その後にカルタゴ人がシチリアに侵攻しました。シラクサ人はすばやくカルタゴ人との戦争を指導する専制君主としてディオニュシオスを選出しました。それ以来、戦争の時代には、人が独裁的指導者への依存に慰めを見出しています。ブッシュのアドバイザー達は、ブッシュ大統領が対テロ戦争を宣言した心理についてわかっていると思います。唯一の違いはディオニュシオスが素晴らしいかつ能力のあるリーダーだということです。

  ブッシュ政権の「自傷行為」により傷を負ったせいで、アメリカの将来には翳りがさしていますが、それにもかかわらず、アメリカだけが保有し、他の国は羨むしかないいくつかの固有の強みがあります。質の高い教育を提供し続けている大学システムのおかげで、アメリカが世界中における最優秀の人材にとっては依然として最も憧れる目的地であり続けています。目下、私たちは移民に対する若干の反発というものも経験していますが、総じて言えば、アメリカは世界中の最も優秀な人材を歓迎してきました。これはアメリカの将来にとって非常に重要です。アメリカの学校制度は大学より下のレベルでは失敗しつつあるからです。アメリカで生まれた子供たちの余りにも多くが、ハイテクとグローバル化の将来に対応できる適切な訓練を受けていません。その代わりに、彼らは生物学と進化論と等しい量の創造説や知的設計(注:知性ある設計者によって生命宇宙の精妙なシステムが設計されたとする説)のような「疑似科学」の教育を受けています。

 

 シリコンバレーが依然としてアメリカの強さを象徴する希望の光です。シリコンバレーが技術革新の中心としての地位を確保している原因は世界で最も起業家精神と才能のある人を引き続き誘致していることです。ご存じでしょうが、 グークル(Google)の 2人の創業者は、ロシアからきました。 ヤフーの2人の創設者の1人は、台湾の生まれです。既に知名度の高いベンチャーキャピタリストになってきたサンマイクロシステムズの元の創設者の1人はインド人です。ベトナム、その後、香港で育った中国人が主要な半導体装置製造会社であるラムリサーチを設立しました。北京から南アメリカに移民した中国人が米国で教育を受け、設立の当時主要なプリンター会社であったQUMEを設立しました。シリコンバレーは、米国のすべての他の地域とは違っています。米国の人口の約2 %がシリコンバレーに居住していますが、ここで投資されるベンチャーキャピタルは毎年全米のベンチャーキャピタル投資の約30 %を占めています。なぜでしょうか?その理由は、ここが、良いアイディアがある人なら誰でもチームを形成し、資金調達を得るチャンスを有し、ベンチャー起業の失敗が容認され、貴重な経験としてカウントされるような場所であるからです。失敗に対する寛容は、この人たちが危険を冒し、型破りな考え方をすることを促しています。なぜなら、彼らにはもし失敗しても、それは世の終わりではないとわかっているからです。

 今までの私の発言が日本について述べたいこととどのようにつながるか、おわかりになるでしょうか?歴史的には、中国と日本は、複雑な関係があります。長い間、中国は教師、日本は学生でした。その後19世紀には、中国が学生になりました。中国は、さらなる教育をうけさせるために、数多くの優秀な人材を日本に派遣し、日本がどのようにそんなに速く西欧列強に追いつくことができたかを勉強し始めました。蒋介石を始める生徒の多くは、清(満州)王朝を転覆し、中国を共和国形態の政府に導いた革命の指導者になりました。

 

 その後、経済改革が始まったトウ小平氏の時代に、日本が再び、優遇的な条件の借款だけでなく、日本の経営スタイル、特にジャストインタイムと継続的な製造改善プロセスを学ぶチャンスにおいても、中国の重要なパートナーになっています。日本の商社は中国でオフィスを設立した最も早い会社の一つです。北京や上海だけでなく、中小都市にも急速に彼らの存在が広がっています。松下は、中国が経済特区を設立した前、既に北京で製造の合弁会社を設立しました。日産が当時、中国最大の自動車メーカーであった東風モーターと長い付き合いを始めてきて、最終的に50/50の合弁会社を形成しました。これらは、中国と日本の間に緊密な経済協力とビジネスのいくつかの例に過ぎず、日本企業の中国でのプレゼンスの確立は米国や西ヨーロッパよりも早いものでした。

  しかし、両国間の緊張関係、そして他のアジア諸国との緊張関係は、日本が第二次世界大戦中に起こったことに関する国ぐるみの「健忘症」から脱するまで、存続するでしょう。日本の人々は、残酷な侵略者としての帝国軍の役割については忘れてしまい、広島によって戦争の犠牲者だったことだけを思い出します。しかし、他の人、特にアジアの人々は戦争を忘れていないし、日本の自己イメージに同情しないでしょう。歴史に率直に直面するのが日本の国益になると私は確信しています。そのときこそ他の人々も許し、また忘れ始めるでしょう。そのときこそ日本の将来の世代が、世界中を旅行で回っても、密かな敵意に遭遇して困惑することもなくなるでしょう。日本は世界中で最も寛大な対外援助国であり、米国の武器や軍備への援助を計算しなければ、米国よりももっと寛大な国です。確かに日本は世界の指導的な国になり、安全保障理事会の議席を取るに値するでしょう。しかし、第二次世界大戦の現実を受け入れない限り、議席獲得が近々に達成できるかどうかについて、私は非常に悲観しています。

 

 人口をコントロールするための1人の子政策のせいで、中国は数十年後人口的な課題に直面するでしょう。そのとき、増加し続ける退職者人口の数を支える能力のある労働者がどんどん減少していくでしょう。日本が同様の、しかしより差し迫った問題に直面しています。日本の人口はすでに高齢化してきており、先進国で初めて人口が減少に転じています。私は経済学や人口学の専門家ではないので、この領域に関する専門知識を持っていませんが、この傾向を逆転させるに役立つ救済策があります。ただこの救済策は日本の国民性に対する抜本的な変革を必要とするため非常に困難です。以下が私の言いたいことです。

  何世紀にもわたって、日本の文化は孤立してきました、これを島国根性と呼びましょう。この島に住んでいる少数の人のみが日本人としての資格を得ます。例えば、日本のアイヌ、多くの世代にわたってここに生息してきた韓国人は資格を持っていません。日本の国民さえ、たとえば、貿易会社の幹部が海外で駐在させた数年後に、帰国するとき、彼の家族がよく近所の人と学友に外人として扱われています。日本では、外人になるのは非常に容易であるが、日本人として認められるのは非常に困難であると思われています。今日のような歴史の中での転機において、日本の経済には新しい血液と、新たなアイディアや新たな活力をもたらすことができる新しい人たちが必要です。日本はもっと開放し、日本で生活し、働いているほかの国の国民を歓迎する必要があり、外国人が歓迎されていると、外人ではないような気分になってもらう環境を作ることが必要です。中国は中国に戻る華僑を積極的に採用しています。しかも人種に問わず、中国で働き、教えるよう外国人の専門家を招待するプログラムができました。米国、特に、シリコンバレーにはいかなる組織化されたプログラムもなく、ただ、世界中のどこからの誰でも来られ、気持ちが楽になれる、魅力のある、多民族で多様な環境があります。私の拙い見解では、日本国民の態度の体系的な変更が可能であるかどうかを再検討するのは日本にとって最大の利益になるでしょう。日本が粗悪品を生産する国から、デミング賞で知られる、世界中で高品質、高精度の製品で有名である国に変身したのは、まだ記憶に新しいことなのです。あらたな劇的な変化の時が来ているのかも知れません。

  紳士淑女の皆さん、こんな風に勝手におしゃべりさせていただいたことをお詫びします。私は3つの厄介な歴程の幾つかの課題に触れましたが、悲しいかな、確実な解決案を提供していません。ただ、これらの歴程が、中国、日本と米国を、今後何年もの間動かして行くものであり、その間に新たな対立が作り出されることはないのではないかと、感じてはいます。発言の場をいただいたことに今一度感謝いたします。ご質問やご意見交換を楽しみに待っております。どうもありがとうございました。