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京大上海センターニュースレター
111号 2006年6月1
京都大学経済学研究科上海センター

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目次

○国際セミナー「中国の産学連携について」のご案内

○シンポジウム「中国東北振興と日本海両岸交流」のご案内

   中国・上海ニュース 5.22-5.28

○中朝貿易から見た北朝鮮経済の現状について

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京都大学上海センター・国際セミナー

「中国の産学連携について」の御案内

中国の大学は「校弁企業」という大学発の多数のベンチャー企業を育成しており、これらの企業の中には既に株式市場に上場を果たしている企業も出現している。今回のセミナーでは中国の産学連携の動向及び復旦大学発の企業として全国的に著名な上海復旦復華科技股份有限公司について報告する。

日時 2006621日(水)14001700

場所 経済学研究科総合研究棟2F大会議室

コーディネーター 山本裕美 京都大学上海センター長

報告者 胡建績  復旦大学管理学院教授

王可炯  上海復旦復華科技股份有限公司総経理

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京都大学上海センター・シンポジウム

「中国東北振興と日本海両岸交流」のご案内

 中国経済は今年13月期も10%を超える経済成長を果たし、この流れは沿海部のみならず、中国東北の内陸地方にも広まりつつある。問題はこの経済発展をいかに我々日本や関西経済に結びつけるかであるが、@中露関係の改善・発展はこの中国東北部からロシア経由で日本と繋がる可能性を広め、さらにA中国吉林省企業による羅津港経由の物流の可能性も開けつつある。この可能性を見極め、現実に活用するために以下のような四名の報告者を立て、集中的な議論を行う。

開催日時 200673()14:00-17:00 会場 時計台記念館2F国際交流ホール

主  催 京都大学経済学研究科上海センター

共  催 舞鶴港振興会、京都大学上海センター協力会

後  援 北東アジア・アカデミック・フォーラム

あいさつ 森棟公夫 京都大学経済学研究科長

     麻生 純 京都府副知事(舞鶴港振興会を代表して

コーディネーター 山本裕美 京都大学経済学研究科上海センター長

報告者 1)金 振吉  中国延辺自治州州長

2)小河内敏朗 元在瀋陽日本国総領事

3)伊達俊行   舞鶴港振興会常務理事

4)小島正憲    小島衣料株式会社社長

(報告者は変更になる可能性があります。シンポ直後には経済学研究科大会議室で懇親会を予定しています。また、シンポ直前13:00-13:45には同大会議室で上海センター協力会総会を予定しています。協力会会員の参加を是非お願いいたします)

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中国・上海ニュース .22−5.28

ヘッドライン

           中国:住宅転売に課税強化、住宅ローン頭金調整

           中国商務部:日本の残留値規制強化で「農業貿易への影響大」   

     石油:中国−カザフ石油パイプライン、25日から正式開通

     日中:日本での「中国文化センター」設立で合意

     中国:06年粗鋼生産量、3.9億トン、鋼材、4.4億トンの見込み

     中国人民銀行:2005年国民貯蓄額の伸びが18%に達す

     自動車:第一汽車、電気自動車58台をアメリカに輸出

     上海:日本電気硝子・住商・上海広電、液晶用板ガラス合弁事業

     上海:人口密度は全国一

     甘粛:石化工場が爆発、水質汚染が懸念 

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中朝貿易から見た北朝鮮経済の現状について

--中朝国境3ヶ所を訪問して--

京都大学教授 大西 広

 この4月下旬に中朝国境南半分にあるふたつの税関都市丹東と集安、および丹東の北方20kmの地点にある虎山という地点を訪問し、北朝鮮の経済状況を垣間見る機会を得た。中朝の国境貿易としてはこれら以外に、中国吉林省延辺自治州から北朝鮮の羅津・先峰地区に入るルートが重要であるが、この最新状況の調査はまた別の機会に譲り、以上の三ヶ所を今回は訪問したものである。丹東へはこの426日から北京からの空のアクセスも可能となったということで比較的簡単に行けるが、集安は非常にアクセスが悪く研究者の訪問は非常に限られている。この場を借りて簡単に報告したい。

                   

やはり苦しい経済状況

 本稿の基本的な主張点は北朝鮮経済が20027月の経済改善措置以降回復に向かっているというものであるが、それでもその到達点の低さは否定できない。そのひとつの事例は、私が今回最初に訪問した集安の中朝国境鴨緑江にかかる鉄道橋での話である。訪問する人少なしとはいえ、ここでは中国側税関に20元を払うと橋の中間地点まで歩いて行くことができ、実は少しは北朝鮮側に足を踏み入れることができる。また、ガイドブックに書かれていたのとは違って写真を撮るのも自由であった。その橋の中間地点には数名の中国軍兵士が常時待機しているが、北朝鮮側の人影はない。両国間に緊張関係のないことがわかる。

 しかし、それでも、ここでの両国間の経済交流は非常に限られたものであった。一日一度北朝鮮側から貨物列車が入り、木材を持ってくるが中国側から向こうに運ぶものがなく空車で帰っているという。現地の人の説明によると「北朝鮮はお金がないから」モノを売れないのらしい。丹東や図們のように川の対岸に北朝鮮側の町が広がっているようなことはないが、一応一山越えれば満浦市となっており、かつ中朝を直接つなぐ鉄道路線としては4つしかないポイントのひとつである。それが、このような状況であるからやはり北朝鮮経済の限界を感じる。

 さらにもう一箇所、鴨緑江沿いに丹東を約20キロ上がった名所虎山からもかなり詳しく北朝鮮の農村を観察することができた。この虎山は明代長城の東端にあたり、その頂上付近から中州に広がる広大な北朝鮮農村を詳細に観察できる。私はこの頂上付近に約一時間陣取ってずっと眼下の農村を観察し、かつまたボートで数メートルの地点まで接近して観察することもできた。眼下の農村はひとつの集団農場となっており、平屋ではあっても大きな集合住宅のようなものが並ぶ。そして、問題は「各農家が個別に自留地を持って自由に耕作できるようになった」との情報に関わらず、その「自留地」なるものを明確に確認することができなかったことである。東京大学の深川由紀子教授は2002年の経済改善措置以降に北朝鮮を訪問した際、あぜ道まで農作物が植えられるように変化していて驚いたと私に語ったことがあるが、少なくともこの農村ではそれを確認できなかった。遠方から見たこと、時期が4月下旬で作付けが始まっていなかったことが原因かも知れないが、である。この一村にはトラクターが一台しかなく、この一台に作付け準備のためのすべての面積の土起こしが頼られているように見えたことも、集団農場が根強く残っていること(逆に言うと農業改革が遅れていること)を印象付けたと思われる。ただし、あるひとりが牛を放牧していた。これはやはり集団農場での役回りとしてなされていたのだろうか。また、これは対外的な「宣伝」のためになされていた可能性もあるが、川岸(といってもその数メートル先までボートで行った)の整備のために最新型のショベルカーが動かされていたのも印象に残っている。

 最後に、もう一箇所今回の訪問した地点であるところの丹東の対岸もまた活気を感じることができなかった。多くの貨物船がただ横付けされたままになっており、クレーンの多くも止まっている。これは仕事がないためか、それとも燃料がないためかと想像を掻き立てられる。関連で言うと、この丹東の「平壌市場」と呼ばれる輸出入業者の集積地でヒアリングしたところ、多くの繊維製品が中国から輸出されるのには北朝鮮の繊維工業に電気の供給が制限されているからだという。機械もあり人手もあるが電気が不足しているというのは、全般的なエネルギー不足がまだ解消しておらず、さらに軽工業への軽視がある可能性もある。ともかく、北朝鮮の経済がまだ「活況」というにほど遠いことを知らねばならない。

 

しかし、貿易は「活況」

 しかし、こうした経済の停滞イメージも多少は大目に見なければならないということもある。というのは、北朝鮮も改革を開始してまだ4年目でしかないことを考えれば、これは中国にしてみれば1982年のこととなる。私自身はその頃の中国農村部を私は見たことがないが、少なくとも1980年代末の上海でさえ相当に貧乏であったことは知っている。そして、それを基準に考えたとき、改革開始四年目の農村としてはこのようなものと考えてよいのではないかと思う。中国については、ケ小平が死んだ1997年頃まではこの死によってすぐにでも成長が止まるかのような議論が言論界の主流を占めていた。こうした見方の誤りを北朝鮮に対しても繰り返すことはできない。現在の北朝鮮経済では都市部での貧富の格差の拡大が広く伝えられるところとなっているが、この「格差」自身、実は成長の指標である。

 したがって、ここでは状況をなるべく客観的に見るために統計数字を指標として北朝鮮経済の全局を評価する手段としたい。とすると、まずは何といっても実質GDP成長率が問題となり、それは以下のように1999年から連続して六年間の成長を持続させており、さらには2002年の経済改善措置以降とにかく2%程度の成長をできるようになったということが重要である。これは中国が1978年以降、11.7%, 7.6%, 7.8%と当初からもっと高い成長を行なったのに比べた時、見劣りがするが、それ以前の長いマイナス成長に比べればその変化は質的である。

 ただし、このGDP統計は北朝鮮の発表でなく韓国側の推計でしかなく、やはりあるレベルでの信頼性の問題が残る。そして、そのため「推計」ではなく確定数字として公表されている中朝貿易額の数字を中国側資料によって追うということをしてみたい。北朝鮮にとって中国は対外貿易のほぼ4割を占める国であって、その動向は北朝鮮経済を映す鏡として客観的に存在する。そして、その中でも、中朝貿易の8割が通過をすると言われている丹東での状況および統計数字も使ってここ10年の中朝貿易の推移をまとめると次の表のようになる。なお、各数字の出所は表の下に示したのでそれを参照されたい。

 そこでこの表を見てみると、まずは丹東の数字が3割しか占めていないのは、この数字が辺境貿易のみのものであることに注意しなければならない。中国の貿易は担ぎ屋を含む小さな民間業者が個別に行なう辺境貿易以外に国家間の契約によって行なわれる国家貿易があり、両国にとっての戦略物資である石油や石炭などはこの国家貿易に含まれている。したがって、丹東の総中朝貿易額が全中国のそれの8割を占めるということは、丹東経由の国家貿易が総額の5割を占めるということを意味する。実際、手元の資料でも2004年の丹東経由の国家貿易総額は6.801億ドルで、これは中朝貿易総額13.85億ドルの49%であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

丹東と全中国の対北朝鮮貿易額の推移(万ドル)

丹東の辺境貿易額

中朝間の貿易総額

中→朝輸出額

朝→中輸出額

1995

10196

54900

48600

6300

1996

10810

56600

49700

6700

1997

15041

65600

53500

12100

1998

17039

41300

35500

5800

1999

17915

37000

32900

4100

2000

 

48804

45082

3721

2001

 

73786

57313

16673

2002

 

73800

46600

27100

2003

30000

102300

62500

39500

2004

34000

138521

79950

58570

2005

 

156000

 

 

)「丹東の辺境貿易額」1995-1999年のものは対北朝鮮以外のものも含む。ただし、それは1995年の場合全体の3.7%にすぎず、その殆どが対北朝鮮貿易である。

出所)丹東の辺境貿易額は1995-1999年は趙伝君主編『東北経済振興与東北亜経貿合作』社会科学文献出版社、2006年より。2004年は「黒竜江新聞」20041218日付けの041-10月期の数字を12/10倍したもの。03年はその対前年増加率から逆算。中国全体の数字は、2000-2004年が金哲他編著『朝鮮投資指南』大連出版社、2005,pp.67-8より。1999年以前は大韓貿易投資振興会社『朝鮮対外貿易動向』、2005年は『日本経済新聞』06510日づけより。

 

  その上で、さらにこの表から知られることは、この国家貿易の伸びの方が辺境貿易の伸びよりも大きいと予想されることである。たとえば、1999年から2004年までの丹東経由の辺境貿易の伸び率が1.90倍であるのに対して、全中国の対朝貿易総額の伸び率は3.74倍であった。辺境貿易には丹東経由でないものも含まれるが、前述のとおりたとえば集安経由の貿易には辺境貿易が含まれない(ここで鉄道で運ばれている木材は全て国家貿易に含まれている)から丹東の辺境貿易が中朝間の辺境貿易の圧倒的部分を占めていることは間違いない。北朝鮮にとっても前述のような石油不足を補うには中国からの国家貿易の増大が緊急に望まれるが、そうした方面での貿易の伸びがより大きいことが予想される。

 もうひとつ、中朝貿易がボトムを打った1999年以降に関する限り朝→中の輸出の伸びの方が大きく、北朝鮮の対中貿易赤字が縮小傾向にあることが伺われる。これは中国経済の発展による資源需要が北朝鮮からの輸入を急増させているものと思われる。上質の無煙炭が北朝鮮からの輸入の重要品目となっており、丹東対岸で動いていた数少ないクレーンもこれを扱っていた。これら以外にも鉄鉱石なども輸入の重要物資となっている。これは直接には北朝鮮経済の改善を示す指標というより、中国経済の急速発展を示す指標というべきであるが、とはいえ、この結果として北朝鮮に大量の外貨が入っており、韓国銀行金融経済研究院によるとこれは2000年以降の五年間で北朝鮮に毎年3.5%程度の経済効果をもたらしたという。エネルギー関連など地下資源価格の上昇も追い風になっているとの話も聞いた。隣国中国の経済発展が北朝鮮経済の好転に大きな影響を与えていることを伺わせる。

 したがって、貿易量を鏡として北朝鮮経済を見るとき、北朝鮮経済が順調に回復していることは間違いない。前述の経済改善措置実施の2002年には中→朝輸出が減少するという後退が一時的に見られたがその後の貿易額の増加率はかなり急速である。特にこれが20027月の経済改善措置以降のことであることに注目しておきたい。

 

中朝貿易で活躍する「無国籍」商人たち

 実は、以上で見た中朝貿易の最近の動向はこうした統計数字以外でも知ることができる。先に述べた丹東の「平壌市場」では主に対朝輸出に携わる多くの業者を見学することができ、何が今中国から北朝鮮に輸出されているか、どのようにその量が増大中であるかについてのイメージを膨らますことができた。

丹東の駅前を通るメインストリートと鴨緑江沿いに走る道路の交差点近く、税関の隣りに位置するここには数十の民間の貿易業者が集積し、船舶や自動車などの大型貨物を除く殆どの工業製品が扱われている。たとえば、各種の家電製品(中国で生産された日本企業製品も多い)は言うに及ばず、ボート用の発動機、塗料、建材、加工食品、薬品などあらゆるものを扱っている。特に前述のように布地や朝鮮服には驚いた。

このくらいは自国で作れるようにならなければ問題であるが、向こうでは飛ぶように売れるというから、より高級な衣料品を買おうとする階層が急速に育っていることを伺わせる。これらは「国家貿易」ではないから担ぎ屋が鉄道を利用しない限りトラックに頼らざるを得ないが、この丹東の地で中朝をつなぐ「中朝友誼橋」は鉄道以外にも自動車も利用できるようになっており、現在50台の8-10トン級トラックが毎日行き来しているという。インターネットで拾った手元の「黒竜江新聞」041218日付けによると、2004年末時点ではこの台数が20台であったというから、一年半たらずに2.5倍に取引量が増えたことになる。上記の表では2004年までの数字しか表出できなかったが、その後の伸びの方がより高いことになる。

ところで、この「平壌市場」で活躍しているのは、韓国から船で丹東に物資を運び、ここから鉄道やトラックで北朝鮮に輸出する韓国人商人、それに北朝鮮との出入りができる中国朝鮮族商人や北朝鮮商人が主と言われており、私なども必ず韓国人と間違われる。また、実際私がここで話をしたのも中国朝鮮族商人であったが、さらに東京生まれの在日朝鮮人にも会った。これは昨年、中露国境調査の際に経験したことでもあるが、中国の東北地区で辺境貿易に携わる業者には朝鮮族や以前日本にいた商人が目立つ。中露国境で見た以前には日本で仕事をしていたという中国人商人は、バブル後、日本での仕事は急減し、こちらの方がもうかると移動してきたと言っていた。北東アジアで民間貿易に携わろうとするとき、目ざとく時代の趨勢を読み解く必要があるようである。

なお、この「目ざとく時代の趨勢を読む」という点で目だっているのにマカオ商人がある。平壌や羅津のホテルで外国人専用のカジノを開き、派手に動いており、それがアメリカがマカオの銀行にある北朝鮮系の口座を凍結したことと深く関わっている。実は、私自身も一昨年広州のエアポート・バスに乗った際、広州を拠点に北朝鮮ビジネスを展開し、新義州に家具工場を計画中とのマカオ商人と隣り合わせになった。マカオ商人は次のフロンティアは北朝鮮と大挙して動いているとのことであったが、マカオ人の多くは実はもともとポルトガル人である。この人物も言葉こそ中国語がぺらぺらであったが、完全にポルトガル人の顔をしていた。1999年までは「中国人」でなかったそんな人物が、今や「中国人」であるばかりか、「中国共産党員」にもなってそれを手段に北朝鮮に入り込んでいるという。1999年以降にいきなり「愛国者」となったとは思えないから、彼らにとっては「国籍」とは利用するために使われるものとなっているようである。私が丹東で見た多くの「無国籍」商人もまた、各人の利益のためにその形式的「国籍」を最大限に利用している商人たちのように思われた。