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京大上海センターニュースレター
156号 2007412
京都大学経済学研究科上海センター

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目次

      中国・上海ニュース 4.2-4.8

上海の経済発展と日本帝国

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中国・上海ニュース 4.2−4.8

ヘッドライン

■ 中国人民銀行:預金準備率を0.5%引き上げ

■ 中国:3月貿易黒字38%減、輸入14.5%増

■ 中国:電力不足が解消へ

■ 中国:法人化後の外資系銀行、税収面の特恵を享受

■ 農業部:食用バナナの安全性を強調

■ 自動車:3月乗用車販売ベスト4発表、奇瑞トップ

■ 山東:国内初のバイオマス発電所稼動状況良好

■ 北京:金融業の平均年収21万元

■ 黒龍江:毒混入で203人食中毒、1人死亡

■ 上海:1−3月GDP成長率は12.5%

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上海の経済発展と日本帝国

経済学研究科教授 堀和生

 本報告は、近代中国経済およびその工業の中心であった上海の発展を、日本およびその植民地を含めた日本帝国との関係のなかで検討しようとするものである。主な論点は次の通りである。

 第一に、日本経済の膨張と中国との関わりである。20世紀前半に日本貿易は世界的に例のないほどに急速に膨張したが、その過程は常に中国が大きく関わっていた。第一次大戦前には中国は植民地(朝鮮台湾)とともに、日本が機械工業製品(綿糸・綿織物)で外貨を稼ぐことができる唯一の地域であった。1920年代は、日本は直接投資によって在華紡を創設拡大することによって、 中国内に巨大な工業施設を作り出した。1930年代になると「満州国」を建国して東北部を中国関内から切り離したのみ成らず、「華北分離工作」により華北沿岸部にも日本の経済勢力を植え付けていった。

 第二に、上記のような日本経済の膨張過程は、中国および上海の経済発展を直接に大きく規定していった。上海の貿易構成を分析すると、第一次大戦期から工業製品輸入の比率が傾向的に低下し、それとは逆に一次産品輸入が増加していく。それらの趨勢は1937年まで一貫しており、端的に上海における工業発展を示しているといえる。ところが、興味深いことに、上海の輸出面にはそれに見合う変化は起きていない。つまり、上海の「黄金時代」には工業製品輸出がまったく増えておらず、1930年代前期にのみ工業製品の輸出が若干伸びているだけである。そして、上海輸出額は1931年より大きく縮小するので、工業製品輸出も31年をピークに大きく減少する。

 第三に、上海と日本との直接的貿易は、上海全体の輸出入一般と大きく異なる点はない。上海の対日輸出品の8割は一次産品であり、工業製品は1割ほどにすぎない。1930年代初頭の3年だけ工業製品輸出が増えるが、これは在華紡による特殊綿製品の対日供給である。逆に、上海の対日輸入品の6〜7割が工業製品で、一次産品が2割である。上海の対日一次産品輸入比率が他の地域に比べてやや高いのは、日本から大量の石炭を輸入しているからである。上海の対日輸入は29年のピークから32年にかけて1/4近くまで激減した。これは、国民政府の関税引き上げと日本製品ボイコットのためである。その後、対日輸入は次第に回復するが、36年でもピーク時の2/3にしかもどらなかった。機械、石炭が日本から輸入されていたことに見られるように、日本からの輸入が上海工業の発展に結びついていたことは明らかである。しかし、上海からの対日輸出品の中には在華紡製品を除いて上海工業の製品は殆どみられない。

 第四に、日本は満州を中国から切り離すことによって、上海工業の重要な市場を奪った。さらに、「華北分離工作」によって、日本が華北を満州および日本と結びつけたために、華北と華中の経済的結びつきはしだいに弱くなった。このことも、上海工業の発展基盤を脆弱にしていった。逆に、日本は満州に資本財を大量投入することにより重工業地帯を建設し、日本資本主義の基盤を拡大した。華北地域も、次第に日本帝国圏に組み込まれていった。このようにして、日本帝国は領域的経済的に中国を蚕食し、そこを資本主義に再編成することによって、日本自体を高度な資本主義に発展させていった。

 第五に、上海の輸出構造には上海工業発展の成果は殆ど現れていない。1930年代に上海の輸出が大きく収縮する過程で、とりわけアジア地域での貿易減退が著しかった。その事例として、東南アジア地域を取りあげてみると、上海の輸出減少をもたらした最も大きな要因は、日本製品の当該地域への輸出増であった。すなわち、東南アジアの工業製品や日用雑貨品市場においては、日本製品が中国製品や印度製品を急速に代替していった。このように、上海製品は国際市場において常に日本製品の圧倒的な競争力によって圧迫され駆逐された。

 結論 第一次大戦以後上海工業は「黄金期」といわれるような大発展をとげた。しかし、規模的には小さくないその上海の工業は、対外的には工業化に一歩も二歩も先行する隣国日本によって、圧倒的に規定される条件の下におかれた。それは、一方で日本が満州から華北にかけて次第に主権を侵害しながら、中国国内市場を奪っていったことである。他方で、先行する日本資本主義の高度化で、日本が常に中国製品より競争力にまさる工業製品を輸出することによって、上海の国外市場を奪うか、ないしは将来における市場開拓の可能性さえつぶしていった。このような国際的条件のもとで、上海工業は、国内市場とりわけ揚子江沿岸部の諸省、すなわち国民政府が統合統治している地域を対象とした国内向きの発展の道を進むことを余儀なくされたのである。日本資本主義の東アジアを基盤とした高度発展と、歪められた形での中国工業の国内向け発展は、同じコインの裏表の関係にあるといえよう。