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京大上海センターニュースレター
157号 2007418
京都大学経済学研究科上海センター

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目次

      中国・上海ニュース 4.9-4.15

○中国幣制改革と外国銀行

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中国・上海ニュース 4.9−4.15

ヘッドライン

■ 中国:06年下半期輸出額、米抜き世界2位に

■ 中国:第6次鉄道在来線スピードアップ実施

■ 中国:加工貿易さらに締めつけ

■ 中国:3月の住宅価格6%近く上昇、伸び幅は拡大傾向

■ 福建:自動車輸出が好調、最大輸入国はイラン

■ 大連:アジア最大の医療産業展覧会開催

■ 北京:住宅購入の外国人制限、不動産市場に影響

■ 北京:都市部住民 住居費が6年間で約2倍に

■ 上海:金融スペシャリスト不足状況が深刻

■ 上海:ABB社、産業用ロボット生産を開始

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中国幣制改革と外国銀行

大阪経済大学非常勤講師 蕭 文嫻

1934年の米国銀購買政策により、大量の銀が中国から流出し、通貨の収縮により、金融恐慌が引き起こされた。それを契機に、南京政府は銀本位制から管理通貨体制に移行した。だが幣制改革は、中国の最も重要な通貨改革であると同時に、最も重要な金融改革でもある。  

本報告の課題は、当時為替市場に多くの利害を持つ中国上海に進出している諸英米系外国銀行の目を通して、幣制改革に至るまでの過程を彼らがどのように捉え、また彼ら自身がその改革に至るまでどのように関わり、さらに幣制改革により、諸外国銀行の経営がいかなる影響を受けたかについて検討するものである。それを通して、中国の金融分野における外国銀行の位置づけを再検討すると同時に、中国金融市場の独特な性格を導き出したいと考えている。

外国銀行の位置づけに関して、最近の研究では中国系銀行からの競争により、外国銀行の影響が1920年代以降に低下したという指摘があったが、しかしこれは外国銀行が主に活動している為替市場において、中国系諸銀行がいかなる位置を占めているかを検討しなければ実態を理解することができないであろう。本報告ではこれまで使われることのなかった外国系諸銀行の上海支店の内部資料(香港上海銀行の資料はロンドンにあるHSBC Archives、チャータード銀行及び花旗銀行の資料は上海社会科学院経済研究所中国企業史資料研究中心に所蔵されている。

)を利用して、上記の課題に取り組みたいと思う。

1936年に上海に進出している外国銀行は全部で30行であるが、そのうちの20行は為替業務を行っている。為替業務を行う諸外国銀行のうち、最も優位に立っているのは香港に本店を持ち、在華貿易商人によって作られた香港上海銀行である。

 為替分野において中国系諸銀行と香港上海銀行を中心とした外国諸銀行がどのように展開されているであろうか。中国の諸近代銀行の為替分野への参入は1917年前後であるとされている。しかし、為替市場への進出に大きな進展をもたらしたのは、192810月において中国銀行が国際為替銀行として政府の特許を受けたことであった。中国銀行は政府対外借款の元利返済に関わる為替業務を委託されたが、1932年以降の中国中央銀行の外国為替業務の参入に伴い、中国銀行は完全に民間経済に関わる為替業務への転換を図るようになった。他方、1928年に設立された中国中央銀行は、1930年の「海関金単位」の創設をきっかけに、金をもって輸入税を徴収することになった。海関税の金建てに改変することをきっかけに、為替市場における中央銀行の役割が大きくなった。さらに、19292月より、関税自主権を獲得した南京政府はこれまで香港上海銀行によって保管された海関関税を1932年までに次第に中国中央銀行によって保管するようにした。1932年8月になると、これまで中国銀行によって取り扱われていた関税や政府に委託された外債償還業務は中国中央銀行によって行われるようになり、同行は関税金為替部を為替局として組織変革し、外国為替業務に参入した。同行の為替市場における地位は、1933年の中央銀行以外の金融機関の金輸出禁止及び193410月における銀輸出税の引き上げ・平衡均税の設定、標金取引の管理規制によって大きく引き上げられた。 

 193410月に香港上海銀行上海支店からロンドン店への書簡の中で、次のように書かれている。「ここでは外国銀行及びその他の外国人を無能な状態にするという考えが続々と証明されてきた。過去数年間においてはこの方向に向かってあらゆる措置が取られてきたと信じる。」

香港上海銀行を中心とした諸外国銀行の間で特に反発を呼んだのは193410月の銀元輸出税の問題である。同年7月以降の大量の銀輸出によって、金融状況がますます悪化した中国は対策として、銀輸出税・平衡均税を設定した。銀輸出税の引上げに対して、在上海の諸英系銀行が英外務省に銀輸出税に関して中国政府に抗議するように要求した。だが、英大蔵省は在上海の諸英系銀行の主張が外交陳情の対象ではないと判断した。この時期において英政府と在華外国銀行の利害に大きな相違が見られた。

香港上海銀行はこうした一連の為替市場における中央銀行の支配を強化する措置が、すべて米国人アドバイザーの「謀略」によるものと見ていた。同行が指した米国人アドバイザーとは、1929年に米国から中国へ派遣され、中国に「漸進的な金本位制」を提案したケメラー教授によって率いられた委員会のメンバーたちのことである。同行の推測は的中した。というのは財政顧問であるヤングが著作の中で中国の金融通貨における自らの役割を認めた。

本来なら、中央銀行は潤沢な外貨準備を獲得しているはずであるが、大きな財政赤字により、中央銀行が保有する準備は貧弱であり、幣制改革が実施されるまでは為替市場を統制するほどの影響力がなかったのである。

 これまでの研究において、幣制改革に至るまでの過程に見られるイギリスとの関係は、主に英大蔵省の借款提案や、リース・ロースLeith Rossの中国訪問を中心に検討されてきた(例えば、Endicott 1975、野沢編1981、秋田2003)193410月から19353月初頭まで香港上海銀行は上海の中国系銀行、宋子文を中心とした南京政権当局との間にいくつかの銀流出対策を検討した。

 (1)外国銀行による民間借款引受。この民間借款は主に担保の問題と英政府の保証を受けられなくなるというの問題点があるので、結局実現できなかった。

()外国銀行による2000万ポンドの公債引き受け

 193411月、香港上海銀行が英政府による2000万ポンドの信用保証による公債発行を提案した。同行は、銀平衡税を取り消し、銀を市場価格で取引できるような自由な銀本位制に戻るため、中国の国際収支赤字を是正するための借款を宋子文へ提案し、英政府に提出した。宋子文が同行に依頼した理由は、「中国政府は担保品がない」ことである。しかし、この借款案は最初からいろいろな障害があった。中国政府との間で借款の保管をめぐる問題や、英政府大蔵省の反対及び香港上海銀行自身の中国政府への不信などによって借款は、結局幣制改革が行われる11月まで成立しなかった。

 (3) 中国銀行家が香港で銀ドルを買い上げ、上海へ運送する計画。同提案の効果が疑わしく大変高価な緩和策であることので、中国系諸銀行が預金流出など緊迫な状況に陥っていることを如実に示している。

では、幣制改革が在上海の諸外国銀行の経営にどのような影響を与えたであろうか。193411月から377月までの間に中国政府は米国に対して26百万オンスの銀を売却して、その対価として9,500万米ドルを受け取った。その結果、諸中国政府系銀行はかつてない潤沢な外貨を保有することになった。元来上海には中央銀行がなく割引市場もなく、銀行間のコール制度がないため、各銀行は手元逼迫をきたした場合にもまた反対に遊休資金の巨額に苦しむ場合にも、為替取引によって資金吸収・遊休資金の利用を行う。幣制改革後政府の統制が強くなったと言われる上海為替市場においてもそれは変化しなかった。ただ対外為替を管理する中央銀行と政府貿易の為替業務を担う中国銀行は、豊富な外貨を持つことによって為替市場において重要なプレイヤーとして登場するようになり、外国銀行との間に対等的な対立競争関係を展開し、コストを無視するような価格競争によってこれまで外国銀行によって支配してきた市場の主導権を奪い返して行く。

 その結果、在華外国銀行は新たな活路を見出すことが必要となるが、そこで幣制改革以前にすでに拡大した香港上海銀行は現地業務を維持しながら、幣制改革によって政治基盤が安定した南京政府への政治借款の引受業務を再開させたのである。

またチャータード銀行は為替銀行から一般中国商業銀行へと大きな戦略転換を図ろうとしたが、日中戦争によってこれを実現することができなかったであろう。しかし、英国系諸銀行と違って日中問題など上海に明るい見通しを持っていないからか、米国系花旗銀行は現地貸付業務を縮小させた。諸外国銀行における対応の違いは当時中国の将来を予測する難しさを示しているのではなかろうか。