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京大上海センターニュースレター
216号 200865
京都大学経済学研究科上海センター

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目次

○上海センター・シンポジウムのご案内

      中国・上海ニュース 5.28-6.1

人民裁判と裁判員制度の共通項

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上海センター・シンポジウムのご案内

アジア共同体を京都から構想する」

 20021月、シンガポールで当時の小泉首相が「東アジア共同体」を提唱して以来、日本でも「東アジア共同体」の枠組みに関する議論が日本国内で、また多国間で交わされています。「ASEAN+日中韓」なのか、さらにインド、オーストラリア、ニュージーランドを含めた「ASEAN+6」なのか、などが論点となっています。今回は、これらの論点に加え、共同体の必要性、条件、現実性などの問題について、中国、韓国の関係部門の研究者に論じていただきます。日本側からも、この分野の研究書を最近出版された坂東慧国際経済労働研究所会長、また本上海センター設立に貢献された本山美彦京都大学名誉教授・大阪産業大学教授のご報告をいただきます。

 なお、本シンポジウムに先立ち、13:00-13:45には上海センター協力会総会を経済学部大会議室で開催、シンポジウム終了後には、再び当会場にて懇親会を開催します。合わせご参加いただければ幸いです。

日時 2008630() 午後2:00-5:45

会場 京都大学時計台記念館2階国際交流ホール

総合司会 山本裕美 京都大学経済学研究科上海センター長

討論司会 大西 広 京都大学経済学研究科上海センター副センター長

報告者

@張 燕生 中国国務院発展改革委員会対外経済研究所所長「東アジア共同体-中国の視点-

A安 乗直 ソウル大学名誉教授「東アジア共同体-韓国の視点-

B板東 慧 国際経済労働研究所会長「東アジア共同体かアジア共同体か」

C本山美彦 京都大学名誉教授、大阪産業大学教授「日本は米国の軛から逃れることができるか」

 

共催    京都大学上海センター協力会  後援 北東アジア・アカデミック・フォーラム

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中国・上海ニュース 5.26−6.1

ヘッドライン

■ 四川大地震続報:救助ヘリ墜落、地震ダム湖崩壊の危機

■ 中国:燃料用石炭不足、発電機35ユニット運転停止

■ 中国:ビニール袋制限措置、デパートやスーパーで実施

■ 中国:繊維・アパレル製品の輸出税還付率が引き上げか 

■ 中国:南部地域今夏の電力不足量は800万キロワットか

■ 四川:地震で豚365万頭被害、精肉相場に影響

■ 上海:長興島で中国で最大の造船基地が誕生

■ 上海:07年の黄浦江の水質 5年ぶりの好転

■ 北京:五輪期間中、兵馬俑が無料公開へ 

■ 黒龍江:大型ガス田発見

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人民裁判と裁判員制度の共通項

                                     21.APR.08

 香港:美朋有限公司 董事長 小島正憲

人民裁判と裁判員制度の共通項は、「法律の素人が人を裁く危険」である。

かつて中国には人民裁判というものがあった。それは国共内戦や抗日戦争の時に、共産党支配地域において、主に地主や資本家そしてその手先などの敵対的階級に属するものに対して、被抑圧階級である人民大衆が行った裁判である。多くの場合、それはその地の中心部の広場などを利用し、多くの人民大衆の面前で行われた。そこには当然のことながら、法廷らしきものはなく、裁判官もいなかったし、準拠すべき法律もなかった。罪人とされた者は壇上に立たされ、出身階級や過去の経歴を読み上げられた。そして人民大衆の怒号と罵声の中で、刑を宣告され、多くはそのまま公開で処刑されていった。

建国後もその流れは続き、反右派闘争や文化大革命などで、今度は多くの知識人や政治家などが公開で裁かれていった。ことに1960年代後半から始まった文革の中では、多くの著名人やそれまで革命に貢献してきた人たちが三角帽をかぶせられ、氏名と罪状を書いた看板を首からつるされ、ジェット機というスタイルをさせられ、紅衛兵という名の青臭い連中の手で裁かれていった。当時、国家主席であった劉少奇も、紅衛兵たちに取り巻かれ、人民裁判で実権派という汚名を着せられて、投獄され命を奪われた。人民大衆は文化大革命という熱病におかされ、踊り狂い、人民裁判で40万人という人間を死に追いやり、1億人に被害を与えた。

数年前、私はある中国人から、なまなましい文化大革命中の実状を聞いた。彼はそのとき、まだ小学生で紅小兵であった。文革初期のある日、医者であった自分の父とそれを献身的に支えていた母に対する人民裁判が、小学校の校庭で開かれた。彼は友達や紅衛兵といっしょになって、熱病に浮かされたように父母を大声で罵倒したという。その結果、数日後、父は自殺し、母は発狂した。それでも当時、彼は自分を責めなかったという。人民大衆の狂気が彼にも乗り移っていたからである。しかしながら彼が成長するに連れて、政治体制が改革解放に向って進み、社会は落ち着きを取り戻した。そこで正気に返った彼は、自分の過去を悔やみ、一時期、自殺を真剣に考えたこともあったという。彼は私に冷たい顔で、あの時期が狂気の時代であり、自分もそれに呑み込まれていたと語った。

今や、中国人の中でも人民裁判が正しいという人はいないし、文化大革命が正しかったという人も少ない。しかし当時は、人民大衆はそれを熱烈に支持していたのである。このような人民大衆の一時的な熱狂現象は、中国人に限ったことではない。戦前の日本人も、ナチスに率いられたドイツ人も、同様の誤りを犯してきた。人民大衆は誤りを犯すことが多いのである。だから宗教ではそれを戒め、人民大衆を指して、仏教では衆愚であるといっているし、キリスト教では迷える子羊と表現しているのではなかろうか。歴史的に見ても、人民裁判だけでなく、欧州の魔女裁判、米国の西部開拓時代の裁判、日本の入札裁判など、人民大衆の狂気の沙汰の裁判は多い。したがって人を裁くということは、人民大衆の狂気から離れたところで行うことがのぞましいと考える。ましてや法律の素人が人を裁くという愚行は避けるべきである。

ともかく日本でも、来年から裁判員制度が始まる。それは法律の素人である市民が人を裁くという危険をはらんで出発する。(現代の日本人には人民大衆という表現はなじみが薄く、違和感があると思うので、以後、市民という言葉を、同じ意味を表す語として使う)。「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」によれば、法廷では、裁判官3人と裁判員6人の構成のもとで裁判が行われ、判決は9人の多数決である。だから判決に、素人である市民の狂気が入り込む余地を排除できない。つまり裁判員制度は人民裁判と同じ危険をはらんでいるのである。

一般に日本人は、確固とした自分の意志を持つ人は少なく、他人の意見に同調しやすい。したがって法廷でも声が大きく、自分の意見を強く主張する裁判員に左右されやすいだろう。またマスコミなどの報道や、左右両翼からの雑音なども大きな影響を与える。さらに日本育ちではなく、外国育ちで日本的常識からかけ離れた思想を持った人たちが裁判員に選ばれてくることもある。概して外国育ちの人は自己主張が強い。おそらく日本育ちの人はこれらの人に軽く言い負け、その意見に同調せざるを得なくなるだろう。中にはしっかりしたディベートができる日本育ちの日本人がいるかもしれないが、そのとき法廷ではまさに異文化の激突が起きるだろう。

10年前、私は不当解雇で訴えられたことがある。そのとき被告として一年半、法廷で闘った。その経験から、法律に無知な素人が裁判に参加し、正しい判断を下すことは、たいへん難しいということがよくわかっている。真実を第3者に明白にわかるように立証することはきわめて困難である。逆に相手側の証拠を、真実ではないと反証することは意外に簡単である。したがって法廷では、一つの事実について、相反する論が整然と展開される。さらに証言台に進んで立ってくれる証人はなかなかいないので、それらの意見を参考にする機会も少ない。だから素人は混乱して判断ができない。そのような中で、今回、裁判員には、事実の認定・法令の適用・刑の量定などのほか、刑の執行猶予・保護観察・未決拘留日数算入・罰金の換刑処分・没収と追徴などの判断業務が課せられている。これらのことが、法律の素人に判断できるとはとても思えない。

この裁判員制度では、裁判員の日常の職業のことを考慮して、集中審議を行うという。いわば即決裁判である。ちなみに中国では2審制で、それぞれが3か月間ぐらいで結論が出る。だから死刑になるのも早いし、民事裁判などでは、金を取るのも取られるのも早いので便利である。私の中国の会社でも、このようなことがすでに数回起きている。しかし刑事裁判など人命や人権にかかわる事件では、冷静な判断が必要だから、ある程度の期間が必要だと思う。時間の経過とともに、それぞれの関係者が冷静さを取り戻すからである。実際に上述の私の裁判のときには、開始後一年半で、相手側の熱が冷め和解という終結を迎えた。

また市民は、できることなら刑事事件にはかかわりたくないと思っている。その善良で小心者の市民が、今回の制度では、国民の義務として強制的に、修羅場に借り出されるのである。その結果、ある日突然、まったく関係のない贈収賄や脅迫事件などに巻き込まれる可能性が出てくる。さらに判決は多数決であるから、たとえ自分がそれに反対であった場合でも、賛成であったかのように思われる。その承服できかねる結果について、ネットで悪口雑言を浴びせられたり、お礼参りをされたりしたらたまったものではない。それに正当な抗弁すらできないからである。なぜなら裁判員には守秘義務があるので、いっさいの情報開示ができないからである。申し開きのため、自分の意見を公開した場合であっても、6か月以下の懲役または50万円以下の罰金に処せられる。したがってたたかれ損になる可能性がある。

さらにこの守秘義務は、裁判員に大きなストレスになると思われる。「王様の耳はロバの耳」という寓話があるぐらい、人間はだれかに自分の特異な経験を話したいものである。それをこらえるということはたいへんなことであり、終生守らなければならないとなるとなおさらである。せめて5〜10年ぐらいの時効を考えたらどうだろうか。また殺人事件などの場合、現場の状況を詳細に聞かなければならず、気の弱い人の場合、大きなトラウマを抱える可能性も出てくる。

私は、裁判というものは現行の専門家集団に任せておけばよいと思う。たしかにいろいろ改善すべき点はあるだろうが、だからといってわざわざ人民裁判に逆行する必要はないと考えるからである。現在日本では、罪刑法定主義が貫かれており、その法律を決めるのは市民に選ばれた国会議員であるから、間接民主主義が機能している。司法分野にだけ、直接民主主義を取り入れる必要はないのではないか。私は、人民裁判と同じ危険をはらんでいる裁判員制度は実施しない方がよいと思う。またこの裁判員制度は国民の義務とされており、出頭しなければ10万円の過料を課せられる。これは国家権力の横暴ではないだろうか。なにやら赤紙の復活さえ予測させるものである。