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京大上海センターニュースレター
225号 200886
京都大学経済学研究科上海センター

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目次

○上海センター主催セミナーのお知らせ

OMA インド・ネパール視察研修交流の旅へのご案内

     中国・上海ニュース 7.28-8.3

     長征と貴州省暴動(つづき)

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上海センター主催セミナーのお知らせ

 

タイトル
『アジアの防災・減災にたちはだかるラスト・マイルと重層的なimplementation
〜分かっていても実践されない社会のボトルネックとその克服への挑戦課題〜』
(京都大学防災研究所 巨大災害研究センター 岡田憲夫教授) 

 

日時:812日(火)14301630

場所:京都大学吉田キャンパス本部構内 法経済学部東館 8F リフレッシュルーム

 

概要:

都市・地域や近隣コミュニティにおいて、後悔や後知恵ではなく、転ばぬ先の杖としての減災や災害リスクのマ

ネジメントが極めて重要である。しかしながら、そのことは、ごく簡単そうなことでも、事前の実行にはなかなか

結びつかないことがむしろ普通である。これは、防災の分野では、「ラスト・マイル問題」と呼ばれる。さらに重層

的な実践障害の問題も含めたimplementation problemが根幹にあるともいえる。

災害が多いアジアは、地域の持続的発展を進めていく上で、この問題にどのような解決の糸口を見つけていくかが、とりわけ切実な問題となっている。阪神淡路大震災の教訓も、そのような問題の存在と、その克服の必要性をしめしている。

本講演では、このような問題に焦点を当てるとともに、それが、新潟中越沖地震などの我が国の震災や最近起こった中国・四川における大震災にも当てはまる可能性と、その地域的・政治経済的文脈が及ぼす影響についても推察する。

 

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当上海センター協力会の法人会員である(社)大阪能率協会 アジア・中国事業支援室より、恒例の海外視察旅行のご案内が来ていますので、掲載させて頂きます。当協力会の大森經コ副会長が団長でもあり、ご希望の方は8月25日迄にお申込み下さい。(申込先:大阪能率協会 事務局 

E-mail:oma@crux.ocn.ne.jp  またはTEL: 0669412709FAX: 0669474369)

 

 

            OMA インド・ネパール視察研修交流の旅へのご案内

企画運営:(社)大阪能率協会 アジア・中国事業支援室

 

私たちの()大阪能率協会(OMA)中国事業支援室は、これまで6回、沿岸部から内陸部まで中国の主要な工業地帯の視察を終え、昨年は念願の青海省、チベット視察旅行も行いました。

 これを契機にアジア共同体の議論も活発化している昨今の情勢を反映させるべく、今年41日より「アジア・中国事業支援室」と名称変更をしました。この新名称による最初の視察旅行となる本年は、近年目覚しい経済成長を遂げつつある一方で悠久の文明が今も佇むアジアの大国インドとヒマラヤの大自然の恵みに満ちたネパールの二カ国の視察を企画しました。

 インドの首都デリーでは日本大使館、JETRO及び現地企業を訪問し、ソフトウエア産業を始めとする各分野の急成長の秘密や日本企業の進出状況について動向を探り、又現地の有力弁護士の家庭訪問を通じ社会生活の一端にも触れます。

 ムガール帝国の繁栄を今に伝える世界歴史遺産の街アグラでのタージマハール観光、ヒンドゥー教の聖地ベナレスでの聖なる川ガンジスでの沐浴と4000年以上の歴史を誇り豊かな自然と多種多様な民族・言語・文化が共存する国インドでの観光も充分お楽しみ頂けます。

 ネパールでは首都カトマンズで日本大使館を訪問するほか、市内の視察観光とヒマラヤの展望台ナガルコットに1泊し、雄大なヒマラヤの山々をお楽しみ頂きます。

 是非、この機会に多数の皆様のご参加をお誘いいたします。

 

日程: 2008928()106() 89日 参加費:258,000(ホテル:四つ星〜五つ星)(二人部屋)

     一人部屋追加料金53,000円。 その他:空港税、燃料サーチャージ等必要。

 

訪問先:

 928()       関空からタイ国際航空、インディアン航空をバンコク乗り継ぎでデリーへ

     29()       市内視察、クトゥブ塔(世界遺産)等、午後 日本大使館、JETRO訪問

                    夕食 現地有力弁護士宅でホームパーティ参加、デリー郊外泊

     30()       デリー市郊外工業団地内2社訪問后アグラへ アグラ泊

10 1()       アグラ視察、タージマハール(世界遺産)、アグラ城(世界遺産)訪問后 聖地ベナレス     

                    (寝台車泊、2等・エアコン付)

      2()       サルナート視察、仏塔、寺院、考古学博物館、シルク工場など     ベナレス泊

      3()       早朝、ガンジス川での沐浴場見学后カトマンズ(ネパール)

                    日本大使館訪問后ヒマラヤ展望台のナガルコットへ        ナガルコット泊

      4()      カトマンズへ、途中カトマンズの谷(世界遺産)見学后、

カトマンズ市内視察、寺院、王宮ほか                       カトマンズ泊

    5()      バンコク経由タイ国際航空にて帰国へ

    6()      午前6:10 関空着、解散

                                                                                    

 

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中国・上海ニュース 7.288.3

ヘッドライン

■ 中国:1−6月社会消費財小売総額21.4%増

■ 新疆:武装警察隊に襲撃、16人死亡16人負傷

■ 中国: 1−6月農村の社会消費財小売額20%増の1兆6224億元

■ 中国:発電ユニット総容量が7億キロワットを突破

■ 四川:ガス田、埋蔵量で中国最大か 

■ 自動車:1−6月奇瑞汽車の輸出57%増 台数は国内メーカートップ

■ 自動車:1−6月 自動車生産・販売台数の伸びが緩やかに低下

■ 上海: 造幣局工場火災

■ 上海: 若い夫婦の約60%、毎日のわが子との触れ合い3時間未満

■ 北京:一人当たりのGDP、今年8000米ドル超へ

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長征と貴州省暴動(つづき)

                                          04.AUG.08

                                         香港:美朋有限公司 董事長 小島正憲

 

2.“遵義会議”と“四渡赤水”

@通説:長征における“遵義会議”と“四渡赤水”

1934年10月、中央根拠地を出て長征の途についた第1方面軍(10万人)は、1か月後の湘江の封鎖線突破にあたって、莫大な被害を受け、兵力を3万人ほどに減らしてしまった。この戦いが終わると、党中央の軍事指導に対する兵士の不満は急速に強まった。このとき毛沢東は指導部メンバーから外されていたが、貴州省に近い通道で開かれた軍事委員会で、「湖南省北西部へ向かい賀竜の率いる第2方面軍に合流する計画を放棄し、貴州省の遵義方面へ向う方針」を提起した。朱徳を始めとする軍の指揮官はこの提案を呑んで、貴州省の遵義を目指した。

1935年1月、遵義において拡大政治局会議(いわゆる“遵義会議”)が開かれた。会議ではまず、共産党書記の博古がそれまでの軍事路線の誤りを認める発言を行なった。ついで周恩来が戦法の誤りを認め、素直に自己批判した。3人目の発言者は毛沢東で、博古と李徳のこれまでの軍事方針を、「防御では保守主義、攻撃では冒険主義、退却では戦闘主義」と激しく批判した。4人目は王稼祥で、今後は毛沢東が紅軍総指揮の任に当たるべきだと発言した。さらに朱徳などの幹部が毛沢東支持の発言を行った。3日間の討議の末、毛沢東を主席とする中央軍事委員会が統一指導を行なうことになった。この“遵義会議”以降、中国共産党内における毛沢東の指導権が確立したのである。

その後、毛沢東は張国Z率いる第4方面軍と合流することを目指し、遵義を出発し四川省東南部を目指した。貴州省と四川省の境界には赤水河が流れており、紅軍の行く手を阻んでいた。さらに蒋介石は合流を阻止するために、四川省東南部や湖南省南部に大兵力を展開し、紅軍を迎撃する態勢を整えていた。毛沢東は土城鎮の近くで赤水河を渡り、四川省に入り、予定通り北上する構えを見せておき、再度、太平鎮と二郎鎮の近くで赤水河を渡り、蒋介石の兵力の手薄になっていた遵義へ戻る戦術を取った。慌てた蒋介石は地方軍閥に遵義から出て、婁山関で紅軍を食い止めるように指示したが、彭徳懐率いる紅軍部隊に蹴散らされた。こうして紅軍はふたたび遵義に戻った。

2月、蒋介石は遵義に居座っている紅軍を、貴州省や雲南省の軍閥を貴陽に集め、南方から攻撃させた。毛沢東は四川省東南部へ向けると見せて、茅台鎮で、三度、赤水河を渡った。そのとき貴陽にいた蒋介石と宋美齢は、これで四川省東南部と湖南省南部に展開している軍閥部隊や国民党正規軍と、貴州省・雲南省から攻め上げる部隊で、紅軍を包囲殲滅できると喜んだ。それらの兵員数は50万とも75万とも言われており、水も漏らさぬ包囲網となっていた。ところが毛沢東は反転して、二郎鎮と太平鎮で、4度、赤水河を渡り、急行軍で遵義の横をすり抜け、蒋介石と宋美齢が陣取っている貴陽を直撃する方針を取った。

そのとき貴陽の蒋介石の手元には、部隊がほとんど出払ってしまっており、手薄であった。蒋介石は毛沢東のこの奇想天外な作戦に驚愕し、貴陽を脱出しようとしたが、すでに飛行場は紅軍に押さえられていたため、逃げ出すために馬とカゴを手配したほどであった。さらに毛沢東は貴陽を攻めると見せかけて、南方をするりと通り抜け、雲南省東部へ入った。ここは軍閥が四川省東南部へ出撃してしまっており、ほとんど抵抗がなかったので、そのまま昆明近くまで進撃し、直前で右旋回し、四川省との境界である金沙江を目指した。このように毛沢東の卓越した“四渡赤水”戦法により、紅軍:第1方面軍は国民党軍を翻弄し、窮地を脱した。

A私の見た“四渡赤水”戦術        ※冒頭の地図の赤水河のところを参照のこと。

毛沢東の“四渡赤水”戦術は、蒋介石を驚愕させ、翻弄した。これは日本の関ヶ原合戦のとき、徳川家康を驚愕させた「島津義弘の敵中突破」を思い起させる。これがまさに軍事の天才:毛沢東の名前を、天下に響き渡らせた名作戦である。これは「孫子の兵法の中の示形戦法」を、縦横無尽に駆使したお手本のようなものである。牛若丸と弁慶のように、蒋介石は毛沢東が西へ行くと思って待ち伏せていると、毛沢東は反対に東にあらわれ、敵を引き回し、各個撃破し、撃滅戦に出て、兵員と武器弾薬を補充し、味方の損害を最小限に食い止め、包囲網を抜け出し、しかも敵の本陣に肉薄した。この作戦は激賞に値する。

私は遵義で現地の観光ガイド(日本語通訳兼任)を頼んで、運転手付きレンタカーを借りて赤水河ヘ向った。車中でガイドさんと行程の打ち合わせを行なったが、“四渡赤水”の話がどうしても噛みあわなかった。彼は「すべての渡河点を見たい」という私の望みについて、「毛沢東が渡ったのは1か所だから、それを見ればよいのではないか」と主張するのである。彼は遵義生まれであり、重慶の大学で日本語を学んだという若者で、流暢な日本語を話し利発そうな男であった。その彼が、前の晩に“四渡赤水”のことをインターネットで調べ上げた結果だと言って、「紅軍の3万超の大軍が、土城鎮付近で、4度に分けて赤水河を渡ったこと」を“四渡赤水”というのだと力説する。もちろん地元の観光ガイドの彼も、現場には行ったことがないという。私は論争をあきらめて、とにかく土城鎮の“四渡赤水記念館”に案内してもらうことにした。

悪路を走ること6時間、へとへとになって土城鎮についた。立派な記念館だったが、オフシーズンだということで見学者はだれもおらず、照明がすべて消されていた。それでも記念館の案内人が照明を点け、丁寧に説明してくれた。“四渡赤水”の戦闘経過が非常によくわかる掲示がしてあり、同行したガイドの彼も目を丸くして見入っていた。そして私に深く頭を下げ、自分の誤りを認めた。私は彼とのやりとりの中で、地元の観光ガイドでも“四渡赤水”を知らないぐらいに、中国人の間では長征が風化してしまっているのだと思った。

記念館を出て、土城鎮、二郎鎮、太平鎮とそれぞれの渡河地点を見て回った。それぞれが車で20分ぐらいの位置にあった。赤水河は8年前に見た金沙江や先月見た大渡河と比べると、穏やかな河であった。川幅も狭いところでは50mぐらいで、うまく浅瀬をたどれば渡河はそんなに難しくないような気がした。ただしその名の通り、赤濁した河であった。

茅台鎮は遵義の方へ、3時間ほど戻った上流にあった。有名な貴州茅台酒の産地で、街中に甘い酒の香りがただよっていた。長征途中の紅軍兵士がここを通ったとき、酒の飲める兵士はたらふく飲み、飲めない兵士は疲れた足を酒で湿布したという。街の真ん中に、渡河記念碑があった。そこは少し川幅が広くなっており、船でないと渡るのは無理なようであった。現在でも、この赤水河には橋が少なく、渡し舟が活躍しているという。途中の川べりには、ところどころにエンジンのついた船や手漕ぎの船が係留してあった。

翌日、婁山関に出かけた。確かに「一夫関に当たれば、万夫も開くなし」とうたわれた“函谷関”に匹敵する要害だった。以前私は、上海の婁山関路という住所に住んでいたので、この場所がなんとなく身近に感じられた。長征当時は湖南省側から遵義へ入るには、この難所を通る以外に道がなかったという。彭徳懐が銃を据えつけて激戦を展開したという山頂には記念碑が立っていた。共産党関係の人たちが、革命歌をうたいながら次々と昇ってきて、そこで記念写真を撮っていた。

B通説“遵義会議”の見直し

通説では、華麗なる“四渡赤水”作戦で、遵義会議で決定した毛沢東の指導権が名実共に確定したと言われていた。ところが最近の研究では、その裏側で彭徳懐と劉伯承をトップに据えようとした動きなどがあったと伝えられている。そして毛沢東が完全に指揮権を掌握したのは、金沙江を渡り、四川省の会理会議であったという説が有力となっている。

・ 林彪は、“四渡赤水”から四川省の会理までの間で、彭徳懐と劉伯承をトップに据えようという画策を行なった。“遵義会議”以後、教条主義者たちは毛沢東の指導に納得できなかったので、ひそかに毛沢東をトップの地位から引きずりおろそうと考えた。ことに林彪は聶栄瑧に、毛沢東の“四渡赤水”作戦を批判し、「四川省の南部に向うのは、太平天国の石達開がかの地で全滅した例があるように、たいへん危険である。この際、トップを変えるべきである」と告げたという。さらに聶栄瑧・左権・羅瑞卿などの前で、彭徳懐に電話をかけ、「毛沢東の指導はよくない。貴方がトップに立ってください。このまま毛沢東の指導に従っていけば

失敗することは目に見えている。我々は貴方の指示に従い、貴方といっしょにやりたい」と話したという。しかしそのとき、彭徳懐は断ったという。その後、林彪は共産党中央の洛甫宛てに上記の内容の手紙を書き、聶栄瑧に合意サインを求めた。しかし断られたので、単独で手紙を出したという。

出典 「大長征」:李慶山(中国人民解放軍軍事科学戦争戦略研究員)著

・ 彭徳懐の「自述」によれば、劉少奇は楊尚昆と連名で、会理会議前に中央軍事委員会に電報を打ったという。その内容は具体的にはわからないが、劉少奇は彭徳懐に、「現在、兵士は戦いで死ぬことは恐れていないが、負傷するのを恐れている。急行軍や夜行軍は恐れていないが、病気で落伍することを恐れている。これは革命根拠地を持っていないことへの恐れである。“遵義会議”で四川省に根拠地を作ると決定したとき、それを兵士たちに告げるとたいそう喜んでいた。しかし今はその希望が消えてしまった」と話し、中央宛の電報に賛意を求めたが、彭徳懐は断ったという。

・ 毛沢東と周恩来が金沙江渡河を指揮しているとき、洛甫から林彪の手紙が転送されてきた。事態を重く見た毛沢東は、全軍を渡河させてから、行軍中に周恩来、王家祥、朱徳、博古、李徳などと意見交換した後、会理県城で政治局拡大会議を開いた。会議の席上、毛沢東は林彪の挑発的な手紙に対して、「貴方は子供でなにもわかってはいない。今の時期、直接敵と戦うのはよくない。回り道の作戦こそが最適なのである」と軽く一蹴し、再度、指導部全員の意志を結束させた。

                                                                (終わり)