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京大上海センターニュースレター
228号 2008825
京都大学経済学研究科上海センター

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目次

     中国・上海ニュース 8.18-8.24

         最近の北京から :オリンピック前の生活上の

         必読!「チベット暴動脱出記」()

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中国・上海ニュース 8.18−8.24

ヘッドライン

■ 中国:火力発電所からの電力購入価格を引き上げ

■ 北京:8月以降デモ申請77件で実施はゼロ

■ 中国:北京五輪閉幕、運営予算は約22億米ドルに達す

■ 中国:9月から自営業・自由市場などへの管理費徴収を廃止へ

■ 雲南:マグニチュード5の地震発生、3人死亡117人負傷

■ 北京:7月海外からの旅行者が減少、五輪前に入国制限

■ チベット:10億トン級の大型磁鉄鉱が発見

■ 浙江:上海―杭州リニア、2010年着工か

■ 上海:虹橋空港などで、7人が落雷で負傷

■ 四川:地震被災企業の93%が生産再開

 

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最近の北京から 

〜 オリンピック前の生活上の変化 〜

協力会会員 北京在住 小林治平

 

北京オリンピックが終わった。 各方面の担当者・責任者は無事に終わり、やれやれというところだろうと思う。街角のあちこちに揃いのTシャツを着て立っている治安維持のためのボランティア(「首都治安志願者」、その総数30万余)も疲れが見えるように感じる。しかし、中国にとっての「本番」、真価が問われるのはこれからであろう。

 

817日に、女子マラソンの応援のために走行コースの35km地点あたりに出かけた。外国人の「指定応援場所」となっていたからである。そこで、たまたま取材に来ていた日本の新聞社の人に、「オリンピックが行われる事で何か変わりましたか」と訊かれた。突然であったので頭に浮かんだ事をそのまま適当に答えたが、整理すると以下のような事を言った。

 

.街がきれいになった

 北京市はかなりの額を投じたはずである。私の住む二環路に沿った運河(堀といっても良い)の両岸には緑化措置として樹木・植栽物が1年位前から集中して計画的に植えられ、すっかり根付いてきれいな緑地帯になっている。

 舗道の敷石も多くの通りのそれが全面的に新しく良いものに換えられた。以前の「へたった」ような敷石はよくぐらついていて、雨上がりなどに、うっかりそれを踏むと石の下の雨水が噴出し靴やズボンを汚す、というような事がままあったが、今はそのような事もなくなり文字通り安心して歩く事ができる。道路そのものの整備も進んでよくなった通りが何本もある。

 私の住むアパートは二環路から良く見える。それでだろうと思うが、建物の外装壁の塗り替えや、エアコン室外機の全面付け替え等(設置位置を揃えるために付け替えをする)が約3ヶ月かけて行われた。その費用はアパートの所有権を持つ会社と北京市が折半で負担し、個人負担は一切なし。この機会に窓枠を従来の鉄製から密封度の高いアルミ製に換え、かなりの工事であった(個人スペースについては個人負担。既に内装換えを完了済の家庭も多くあり希望者のみに施工)。ほかの二環路から見える建物も、ほぼ例外なく「化粧直し」が施されたようで、外見はきれいになった。(大通りから引っ込んだ建物・アパートはこのような事はやっていない)

 

.バス・地下鉄がよくなった

 従来のバス(説明が難しいがご存知の方は多いと思う、即ち速度が遅く、

中は汚く、暗い)は姿を消し、どの路線もほぼ新型のきれいなバスとなった。 

速度も速い。ただ渋滞が多いので所要時間を読みづらいのは日本も同じ。また、全てではないがエアコン付バスもあり、環境の配慮から天然ガス車も走っている。料金は一元だがプリペードカード使用だと0.4元に割引になる。  

 地下鉄の車両も一新された。以前の小汚い(失礼な言い方だが)車両はなくなり気持ちが良い。新開通路線(三路線及び空港行路線が開催前に開通、供用を開始)は当然新車両で、発車時の加速がスムーズで走行中のゆれも少ない。案内放送は中国語と英語。値段はこの春に3元から2元に値下げし、距離に関係なく全路線同一料金となった。また、プリペードカードが使用できる非接触式の自動検札機導入による入場と出場が全駅で始まった。

 「整列乗車」を指導している事もあり、その習慣づけにかなり成功している。まず降りる人を待ち、その後に乗り込む、という自然な事が普通にできるようになりつつある。以前はそうではなかった。

 

.接遇態度の改善がみられる

 一般の商店もそうだが、銀行や郵便局の利用客に対する応対の態度が良くなった。銀行はフロアに案内係がおり、迷っている人に積極的に声をかけて案内をしている。銀行に入るとまず番号札発行機で番号を取り、順番を待つので窓口に押しかけ先を争う必要はない。郵便局はそこまで行っていないが接客態度は良くなった。手続き終了後、係員が「歡迎再來」と言うので驚く。 

 日本と違うのは銀行も郵便局も土日にも営業している事。平日と比較すると窓口や支店の数は減るが、土日は利用客が少なく空いているので公共料金の支払いなどには私はこの時間帯に行くようにしている。

 

その他:ボランティア活動

 街中でのオリンピックの期間中の案内ボランティアもよく活躍していた。ほとんどが大学生だったようである。王府井に買い物に行ったときに質問をしてみたが熱心な応対だった。

 電話による案内もあり、日本語対応があったので何度か電話をしてみた。こちらも大学生と自分で言っていたが、レベルはかなり高い。意思の疎通には全く問題がないと感じた。「調べてあとで電話します」という応対をした担当者もあった。問題を感じたのは私が使用した電話は固定電話だったが、着信側で当方の電話番号が判っている事。日本なら申請ベースの電話番号の表示機能がこちらではそうではない。下手な事は言えないと感じた。

08年8月25日記)

 

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必読!「チベット暴動脱出記」()

                                26.AUG.08

                                         香港:美朋有限公司 董事長 小島正憲

 

近日中に、かもがわ出版から、「チベット暴動脱出記」(大木崇著)が、刊行される予定である。是が非でもご一読いただき、より多くの人に推奨していただきたい。その理由は下記の如くである。

≪内容≫

1.チベット族おばさんへの感謝

2.私の見たチベット暴動の実態

3.暴力の拡大連鎖                                         

                                                                  

1.チベット族おばさんへの感謝

7月初旬、私は京都大学経済学部の大西広教授から、この本のゲラを見せていただいた。それはチベット暴動のまさにそのとき、つまり3月10日から15日に、ラサにいて、暴動に巻き込まれた青年の手記であった。私は血が沸き上がる思いで、一気にそれを読んだ。そこには現場に居合わせ者にしかわからない真実の一面が鮮烈に描かれていた。その内容は全世界のどのジャーナリストが報道したものよりも、はるかに核心に迫っていた。大西教授の話では9月下旬には出版される予定だと聞いたので、私はその刊行を心から望んでいた。多くの人にチベット暴動の真実の一面がわかっていただけると思ったからである。

そのゲラの中に、この青年つまり著者の大木崇さんが暴動に巻き込まれ、チベット族から激しい暴行を受け窮地に陥っていたとき、その危機を救ってくれたのが、チベット族のおばさんだったというくだりがあった。私はこれを読んだとき、胸が熱くなり涙が出て仕方がなかった。そして日本人の先輩として、是が非でもこのチベット族のおばさんに直接会って、心からのお礼を言わなければならないと思った。また泊まっていたホテルの従業員さん(ネパール人)たちにも、脱出の際にお世話になったということも書いてあった。この人たちにも、一言お礼が言いたいと思った。都合よく、大西先生が8/8〜下旬にかけて、青海省西寧から青蔵鉄道経由でラサに入り、民族問題の研究をされるということを聞いたので、無理を承知で同行させていただき、チベット族のおばさんやホテルの従業員さんたちに心からの感謝の意を伝えに行くことにした。

まず私は東京へ出向き大木さんと会い、チベット族のおばさんの店の位置の地図を書いてもらった。彼は「なにしろパニクっていたので」と言いながら、きちんとわかりやすい地図を書いてくれ、かくまわれた店が雑貨屋であったと教えてくれた。私は確認用に当時の彼の写真をもらった。また彼が泊まっていたホテルと、今回私たちが泊まるホテルが同じであることを確認した。その後、本を出版するにいたった経緯などを聞いた。彼は理路整然としかも情熱的に話をしてくれた。その話を聞いて、私は彼のような青年が今後の日本を背負って立って行ってくれるのならば、喜んでその踏み台になろうと思った。そして私はチベット族のおばさんやホテルの従業員さんたちへのお土産を用意し、準備を整え出発を待った。

8/08、私は大西教授に付いて、上海から青海省西寧へ行き、8/13、青蔵鉄道に乗ってラサに入った。

8/14、現地ガイドからは高山病対策のため、今日はあまり動き回らないようにとの指示があったが、私はチベット族のおばさんに会いたい一心で、朝食もそこそこに地図を片手に街中に飛び出し、その雑貨屋を探した。そこは意外に簡単にみつかったが、肝腎のおばさんの姿が見えず、20代後半とおぼしき娘さんしか居なかった。そこで娘さんに話かけてみると、そんな話は母から何も聞いていないという。その上、おばさんは3/18に故郷に帰ったという。故郷は甘粛省天水市で、彼女たちは漢族だという。私は一瞬、おばさんがチベット族だという大木さんの記憶が間違っていたかと思った。その後、私は必死にいろいろ聞きだそうとしたが、娘さんの警戒心が強く、話がそれ以上進まなかった。

私は店を間違えたかもしれないと思い、外に出て地図を頼りに、周辺を歩き回ってみた。ところが大木さんの記憶に該当するような店はやはりそこにしかなかった。私は、再度その雑貨屋に入って、頭を何度も下げ、私の気持ちを娘さんに伝え、大木さんの写真を見せながら、私がここに来ている事情を詳しく話した。すると娘さんはやっとその日の状況を話し始めた。当日はこの店の周辺もパニックになっていて、彼女は恐くて2階の小部屋へ上がり隠れていたという。風邪を引いていたので咳が出たのだが、他人に聞かれないようにと布団を頭からかぶってそれを押し殺していたという。その間に、チベット族の人たちがこの店に逃げ込んできたようだった。おそらくそのときにチベット族のおばさんが助けて連れ込んだのだろうという。3時間ぐらいして、静かになったので、彼女は階下に下りて、自分のマンションに一目散で逃げ帰ったという。すでにそのときにはチベット族のおばさんや大木さんはいなかったという。

私は彼女の話を聞いて、大木さんは漢族のこの店にチベット族のおばさんといっしょに逃げ込んで、一時的に難を逃れ、静かになってからおばさんの自宅に連れていかれたのだと判断した。しかし彼女の話から、そのおばさんを探し出すことは困難だった。残念ながら、チベット族おばさんとの劇的対面はできなかったし、心からの感謝を表すこともできなかった。それでもこの店に逃げ込んだことは間違いないと思い、娘さんに深く感謝の意を表し、持ってきた日本人形の壁掛けを渡そうとすると、自分が助けたのではないからと、絶対に受け取らなかった。仕方がないので、なんども頭をさげてその場を後にした。

チベット族のおばさんと対面できず、気落ちして、一度に高山病の症状が出てきて頭が痛くなってきたので、チベット族おばさん探しはそこまでにして、ホテルに帰ることにした。部屋で2時間ほど寝ていたら、症状が軽くなったので、ホテルのフロントへ行った。大木さんがお世話になったネパール人にはすぐ会えた。一人はビザの関係などで帰国中ということで、一人しか残っていなかったが、彼に大木さんの写真を見せると、なつかしそうにみつめ、彼が脱出の手伝いをしたこと話してくれた。彼に丁寧にお礼を言い、感謝の印としてタバコを2カートン渡し、仲間が戻ってきたら感謝の意を伝えてくださいと付け加えておいた。またその場に居あわせたというチベット族女性従業員にも、日本人形を渡し、丁重にお礼を言った。そこでしばらく雑談をしていると、彼らが「実のところは、脱出のだんどりはすべて総経理が行なった」と話してくれたので、その晩、総経理に時間をとってもらい、会うことにした。

総経理はチベット族で、当時の状況をいろいろ話してくれた。そしてそのとき、日本人の救出に尽力したというチベット族人民警察官を紹介してくれた。彼は大木さんのことはさだかに覚えていなかったが、日本人女性を二人、他のホテルから必死の思いで助け出してきたことを語ってくれた。私はこの警察官の手を取って心からお礼を言い、タバコを1カートン渡した。また総経理にも金箔入り日本酒を渡し、なんども頭を下げお礼を言った。これで私の感謝行脚は終わり、大木さんの叙述もおおむね正しいということが確認できたので、私は翌日から暴動の実態調査のために、早めの眠りにつくことにした。

8/15、私はチベット族現地ガイドや大西教授といっしょに、チベット暴動の実状調査のため、街中に繰り出した。ガイドの話によれば、暴動以後、彼が所属する旅行社で日本人を案内するのは、今回が初めてだという。おそらく他の旅行社でも日本人は扱っていないだろうという。それから3日間、私は暴動の実態を日本の人々にしっかり報道するために、高山病と戦いながら、目を皿のようにしてラサ市内を歩き回った。

                                              (つづき)