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京大上海センターニュースレター
第261号 2009年4月13日
京都大学経済学研究科上海センター
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目次
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「中国経済研究会」のお知らせ
○
中国・上海ニュース 2009.4.7-2009.4.13
○ ホーチミンと毛沢東
○
【中国経済最新統計】(試行版)
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「中国経済研究会」のお知らせ
世界的な金融危機が深刻さを増す中で、中国経済は今まで以上に注目されるようになりました。一方、激変する中国経済も我々に多くの新しい課題を提起してくれました。中国経済を研究し、そして、それに関心を持つ研究者や学生同士の交流を深めるために、京都大学経済学研究科上海センターでは、「中国経済研究会」をこの四月から立ち上げることにしました。
この研究会は中国経済に関する学術研究報告を中心として、必要に応じて経済情勢の報告や日本をはじめとする他の国に関する研究報告も行うことができます。また、研究会には何方でもご自由に参加できますので、幅広い方々のご参加を歓迎します。開催時期は原則として授業期間中の毎月第3火曜日としますが、2009年度では、以下の日程を予定しています。
前期:4月21日(火)、5月19日(火)、6月16日(火)、7月21日(火)
後期:10月20日(火)、11月17日(火)、12月15日(火)、1月19日(火)
現在予定されている研究報告は下記の通りですので、大勢の方のご参加をお待ちしております。
世話人:京都大学経済学研究科教授 劉 徳強
記
第一回報告:
時 間: 4月21日16:30−18:00
場 所: 京都大学吉田キャンパス・法経済学部東館108演習室
報告者: 岑智偉(京都産業大学教授)
テーマ: 「中国における地域間収束について(仮題)」
(なお、研究会終了後、有志による懇親会が予定されています。)
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中国・上海ニュース 4.6−4.12
ヘッドライン
■ 中国:上海と広東4都市で人民元建て貿易決済が試行
■ 中国:3月貿易額21%減、減少幅前月より縮小
■ 中国:08年の企業平均賃金17%増
■ 中国:3月までに大卒就職内定率33%に
■ 自動車:3月自動車販売台数前月比34.1%増の110.97万台
■ 中国:09年内に医療保険制度が都市部で適用
■ 中国:専門家、耕地面積がすでに18億畝より少ない
■ 天津:3月の住宅取引数前月比119%増
■ 上海:09上海モーターショー、各自動車大手を総動員
■ 上海:グリーンピース調査発表、生鮮食品に複数種類の残留農薬が検出
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ホーチミンと毛沢東
10.APR.09
小島正憲
≪目次: 1.ホーチミンへのあこがれ 2.ホーチミンと毛沢東の差異 3.ディエンビエンフーの戦い 4.ナポレオンのイエナの戦い≫
※革命後サイゴン市はホーチミン市と改名されたので個人としてのホーチミンと混同されやすい。したがって本稿ではホーチミン市については旧名のサイゴンを使用する。なお氏名も、「ホー・チ・ミン」とせず「ホーチミン」と表記する。なぜなら当の本人が中国語では「胡志明」と称しており、特別に「・」を入れる理由はないと考えるからである。
1.ホーチミンへのあこがれ
私は学生時代に文化大革命に遭遇し、それまで抱いていた毛沢東信仰がもろくも崩れたため、頭の中に社会主義に対する疑念が生じた時期があった。そのようなとき巷では、ちょうどベトナム人民の抗米救国闘争支援の反戦運動が燃え盛っており、私は反戦デモに熱中することによってその疑念を振り払った。そして次第に心の中にはホーチミンへのあこがれのようなものが広がっていった。当時、私はホーチミンについて下記のような好印象を持っていた。
「ホーチミンはディエンビエンフーでフランスを打ち負かし、北ベトナムを樹立し、新たな敵であるアメリカと戦い、ほぼ勝利に近づいたとき勇退し後進に道を譲った。そこには中国のような血なまぐさい権力闘争はなかったし、その後、彼に育てられた抗米救国の戦士は勇敢に戦い反米戦争に見事勝利した。また彼には夫人もなく子供もなく、民衆から質素な生活の“ホーおじさん”として愛され続けた」
社会人になってからも、まだ社会主義に対する幻想を持ち続けていた私を、友人の山田正平氏がベトナム経済視察旅行に誘ってくれた。私は大喜びでそれに参加した。ベトナム戦争終結直後の1976年のことで、ハノイの大通りは蛸壺だらけだったし、サイゴン周辺には焼け焦げた戦車が放置されているような状態であったが、ベトナムの人民大衆は戦争勝利後の熱気に覆われていた。もちろんハノイのホーチミン廟前には多くの参拝者が列をなしており、広場は“ホーおじさん”の熱狂的ファンで埋まっていた。
その後30年余を経て、ベトナムもドイモイ政策に変わり、日本企業などの進出も盛んになった。私も一時期、ベトナムへの企業進出を検討したことがあった。ベトナムの姿はずいぶん変わったが、それでも私の“ホーおじさん”へのあこがれは変わらなかった。今回、私は再び山田正平氏と二人でハノイとディエンビエンフーを訪ね、“ホーおじさん”の素顔を探り、青年時代からのあこがれを検証してみることにした。
2.ホーチミンと毛沢東の差異
@ホーチミンは自身の神格化に反対であった。
ホーチミンは1969年9月2日に死亡した。遺体は永久保存処理をされホーチミン廟に安置された。私が1976年にホーチミン廟を訪れたときは、まだ一般人は廟の中には入れなかった。廟の前には大勢のベトナム人民が参集してきていて、感謝の祈りをささげたり歓喜の声をあげたりしていた。そのとき私は廟の前で手を合わせながら、「“ホーおじさん”はこのベトナム人民の姿を見てさぞかし満足していることだろう」と思ったものである。
今回、私は廟の中に入って静かに眠っている“ホーおじさん”と対面したが、いささか複雑な心境で素直に手を合わせる気にはなれなかった。なぜなら1989年にはじめて公開されたホーチミンの遺書で、彼が「自らの死後は火葬をして、その灰をベトナムの北部・中部・南部に分けて埋葬してほしい」と望んでいたことを知っていたからである。後継のレズアン指導部はこの遺言を守らず、ソ連の援助によって遺体を永久保存処理して廟に安置したのである。つまりホーチミンは自らの意志に反した形で、死後その姿をさらすことになったのである。私は“ホーおじさん”に尊崇の念と親愛の情を抱きながら静かにその周囲を回った。しかし同時にきっと“ホーおじさん”はベトナム人民の心の中だけに生き続けたかったのだろうと思った。さらにきっとこの姿は不本意なのだろうと考えながら出際でそっと手を合わせた。
後継者レズアンはホーチミンの意志に反して、彼を神格化した。もちろんベトナム人民を団結させ、反米闘争を戦い抜くためにはホーチミンの遺徳が必要であったことは否定しない。しかし故人の意志に反してでも、後継者が故人の神格化・カリスマ化をすすめるのは、まさに後継者自身のためであるといえよう。前回も書いたように西郷隆盛を「軍事戦略の天才」と持ち上げ、カリスマ化したのはまさに軍国主義へと突き進む時代がそれを必要としたからである。西郷自身も神格化されることなど望んでおらず、おそらく銅像など建てて欲しくはなかっただろう。カリスマ化や神格化は、当人が生存中でも、当人が自分の目的を果たすために確立されるというよりは、周囲の人間がそれを利用し目的を達成しようとするための手法であるとも考えられる。ましてや当人の死後は、完全に後継者の必要性から生まれてくるものであり、そこに偉業の誇張や不都合な部分の削除などの作為が生まれてくるのである。毛沢東に関しても同様のことが言えるのではないだろうか。
ホーチミンの遺書は当人の死去後20年、そしてレズアン死去後3年を経た1989年秋に共産党の手で公表された。ベトナム人民はそのときはじめて、「“ホーおじさん”が火葬をのぞみ、その遺灰がベトナムの北・中・南部の大地に埋葬されることを願っていた」ということを知ったのである。後継のチュオンチン書記長を中心とする共産党指導部は、ホーチミン死去当時のレズアン指導部が、政治的配慮でこの遺書を公開せず、“ホーおじさん”の意志に反して遺体を永久保存したことや、死亡日を1日ずらした(建国日と重なったため)こと、遺書の中に「反米闘争勝利の暁には農業税を1年間免税にしてほしい」との提案もあったが、経済事情がゆるさず実施できなかったということを発表した。
この遺書が公開されてからすでに20年が経っているが、いまだに“ホーおじさん”は廟の中に眠っており、愛国主義教育の一環として利用され、毎日多くの小中学生などがたくさん訪れている。ただ遺体のメンテナンスは今でもロシアの技術に頼っており、質素倹約を旨とする“ホーおじさん”の意志に反して大金がロシアに支払われているという。
Aホーチミンは南部の武力開放に反対していた。
青年時代の私のあこがれに反して、ホーチミンからレズアンへの政権交代は禅譲ではなかった。ホーチミンは1954年ディビエンフーで仏軍を撃破し、ジュネーブ協定にこぎつけ、北ベトナムを独立させた。その後彼は強国アメリカとの全面的な戦いになることを恐れて、南のゴジンジェム政権との間で平和的な統一を模索した。今回、私たちのガイドをしてくれたのは歴史に詳しい青年で、その間の事情として、「ホーチミンは花束の中に平和的統一をしたためた親書を隠してゴジンジェムに渡した」ということを話してくれた。ホーチミンは対仏戦争よりも多大な損害をこうむることを予測して、南部では政治闘争のみを行うことを決定し武装闘争を禁じた。それに対してレズアンは南部の武力開放を主張、指導部内で深刻な対立があったのである。
ホーチミンは1911年に仏船の見習いコックとして祖国ベトナムを離れてから、41年に30年ぶりに帰国するまで広く国際活動を行った。彼はアフリカ各地、アメリカ、イギリスと旅を続け、17年にはフランスに入り、19年には仏社会党に入党、20年にレーニンの民族問題のテーゼを読み感銘を受け、21年に仏共産党大会に参加。23年にソ連へ。24年にコミンテルン東方局部員として中国の広州へ。30年に香港でベトナム共産党結成。さらに香港と中国で獄中生活を経験するなど、ホーチミンのこれらの国際体験は、小国ベトナムが中ソ対立をうまく捌きながら、反仏・抗米救国闘争を勝利させる上で決定的な役割を果たした。この点は毛沢東がロシア以外の国に足を踏み入れたことがないのとは大きな違いである。海外での遊学が革命家の必要条件というわけではないが、国際的な経験がないということは視野に一定の限界があることは否めないと思う。
ホーチミンはその国際経験から資本主義国の強大な軍事力を熟知しており、8月革命の成功やディエンビエンフーの勝利は運によるところが大きいこともよくわかっていた。したがってジュネーブ協定後、政治闘争を優先させて国力を養い、時機を見て武装闘争に移ることを主張したのである。しかし60年、レズアンに第一書記の座を譲り、南部の武力開放方針を是認した。このときホーチミンは病に侵されており体力上の理由も加わって、レズアンの武装闘争方針を認めざるを得なかったのである。その後の展開は、ホーチミンの予測どおり110万人の死者と30万人の行方不明者など、ベトナム人民とその国土に莫大な損害をこうむらせた。
レズアンは抗米救国闘争に勝利後、表向きはホーチミンの偉業を讃え続けたが、次第に自分の功績がホーチミンより大きいと誇るようになっていったという。そのレズアンでさえもホーチミンが残した集団指導体制の枠組みを破壊して自らの側近で政治局を固めてしまうことはなかった。レズアンも86年7月に死去した。ベトナム共産党はチュオンチンを代行とする集団指導体制に移行した後、ホーチミンと共に生きた世代は全員引退した。その間、ベトナム共産党は中ソ対立に巻き込まれ深刻な党内闘争を経験したり、カンボジア侵攻、中越戦争などを引き起こしたが、それでも血なまぐさい身内の粛清は皆無であった。これがホーチミンの遺産であり、毛沢東の中国との大きな差である。
Bホーチミンには3人以上の夫人があり子供もたくさんいた。
この情報は公式文書にはなく、民間のうわさの類である。しかしベトナム民衆はこれを否定していない。ホーチミンに夫人がたくさんいたということは毛沢東とも同じである。けれどもホーチミンの場合は事情が少し違っていた。彼の活動はベトナム北部のタイ族地域が多かったといわれている。当時、タイ族は母系性社会であり、女性の元に不特定多数の男性が集まることは常識であった。したがってホーチミンやボーグエンザップもその風習に従い、行動したものと思われる。多くの若者が、「私はホーチミンの息子である」というのもあながちうそとはいえないという。また中国滞在中にも夫人があったといわれている。
ホーチミンの生活が質素であったことは確かであり、ハノイでは豪華な宿舎を嫌い、居心地が悪いという理由で3度も引越し、最後には高床式の民家へと移り住んだ。現在、その家が愛国主義教育の基地として保存されている。“ホーおじさん”は本当に庶民的な人であった。私は現地で“ホーおじさん”の顔がプリントされたTシャツを買って着て歩いた。 すると行き交う人たちが、私の肩をたたき、シャツを指差しにこにことあいさつしてくれた。私は“ホーおじさん”は本当にベトナム人民に愛されていたのだと実感した次第である。中国ではとても毛沢東のTシャツを着ては歩けない。
3.ディエンビエンフーの戦い
ハノイからプロペラ機で約1時間、ラオス国境近くまで飛んだところにディエンビエンフー古戦場がある。そこは周囲を高い山で囲まれた盆地であった。日本の長野盆地を少し小さくしたような感じであり、ちょうど川中島古戦場のあたりに仏軍の総司令部がある。ラオス国境へは50kmぐらいであり、車でも1時間ほどあれば行ける。仏軍はラオスの制圧も視野に入れて、ここに一大基地を築いた。
中央の仏軍総司令部の位置に立ってみると、四方の高い山に威圧され、そこは四面楚歌という言葉がぴったりという感じの場所であった。この戦いを指揮したボーグエンザップ将軍は、後に「人民の戦争 人民の軍隊」という書物で、「ディエンビエンフーの決戦でべトミンが勝つことができた原動力は、ディエンビエンフーの周囲の山に大量の大砲をかつぎあげた民衆である」と書いている。仏軍将校は、べトミンがまさか山の上に大砲を設置し、いっせい砲撃をするとは思っていなかったという。仏軍将校は「ナポレオンがイエナの戦いで高地に大砲を引き上げ、プロイセン軍を壊滅させた」あの貴重な戦訓をすっかり忘れてしまっていたようである。これは最高の歴史の皮肉である。
ボー将軍はまず山の上から道路や飛行場を狙い、いっせい砲撃を加え、仏軍の中央陣地を孤立させた。次にこれまた人海戦術で縦横に塹壕を掘りめぐらせ、じわじわと仏軍陣地に迫っていった。ベトナム人民が掘った塹壕の総延長距離は数百キロといわれる。仏軍基地の中でもっとも手ごわかったA-1基地には地下トンネルを掘り、真下に大量の爆薬を仕掛け吹っ飛ばした。仏軍は55日間の抵抗の後、ボーグエンザップ将軍の砲撃戦と塹壕戦に完敗した。この戦いはベトミン側がこうむった被害も甚大なものであったが、強固な仏軍基地を完璧に打ち破った名作戦であるといえる。
街の中にはこの戦いの記念館があり、屋外には戦車や大砲が並べてあり、屋内にはその大砲を引っ張り上げた太い綱など数多く展示され、そのかたわらではビデオ放映が行われ、1門の大砲を大勢の人民がその綱で引っ張っている貴重な映像を見ることができる。また綱が切れ大砲が転がり落ちそうになったとき、その下に身を挺して食い止めたという英雄の像もある。
私はそれらをつぶさに見て回りながら、ある展示の前で足がとまった。ベトナム語とフランス語で表記してあるので、さだかにはわからなかったが、そこには戦い後の投降兵のことが書いてあった。ガイドに聞いてみると、一般には仏軍兵1万6千が投降したと伝えられているが、実際には仏兵は千名を切っており、あとはアルジェリアやモロッコなどの北アフリカ兵とベトナム人傭兵であることがわかった。これでは仏軍といえども精鋭は千名足らずで、戦いの最終盤では逃亡兵が多数出たのではないかと思った。
私たちは記念館を出てA-1基地に向かった。それは小高い丘の上にあったが、ガイドの話によれば実際の場所とは少し位置がずれているということだった。その丘のふもとからは、当時と同じように塹壕がぐるりと掘りめぐらせてあったので、中に入って走ってみた。蚊がいっぱいいて閉口した。次いで近くの仏軍総司令部に行ってみた。意外に小さな場所で、かまぼこ型の屋根の地下に4室があり、壁には地図がかかっていた。その司令部から東北部の山を見上げて、そこから大砲の弾がじゃんじゃん飛んでくる光景を想像してみた。
≪A-1基地の塹壕≫
その山中のボーグエンザップ将軍の作戦基地にも行ってみた。車で40分ほど山道を上ったところだった。その山の反対側からたくさんの大砲を引っ張り上げたということだった。
作戦基地周辺から仏軍基地に向けて大砲を撃ったということだったが、そこから仏軍基地を見ることはできなかった。作戦基地とはいうもののみすぼらしい小屋が点々とたくさん建られているだけだったが、それらは相互に地下トンネルで結ばれていた。そのトンネルの中に入って歩きまわり、外に出てみるとまったく見当違いの場所に出てしまい、山の中で迷子になりそうだった。さいわい地元の子供が元の場所まで案内してくれたので助かった。
これらの基地を見ていて意外だったのは、ここに中国人将校団の小屋があったことである。ガイドの話によれば、中国人民解放軍の支援将校が79人(そのうち3人がこの戦いで死亡)来ていたという。しかもここで行われた作戦会議で中国将校団が総攻勢は時期尚早と主張し、ボー将軍が怒って彼らを退席させたという話が伝わっている。さらに驚いたのは残留日本軍将校もこの作戦の参謀として活躍していたという。残念ながら彼らが起居したという小屋は残さていなかった。
≪中国将校団の宿舎≫
記録によれば、日本兵766人が日本軍撤退後もベトナムに残りべトミンに協力したという。そのうち約450人がベトナムの地で消息を絶ったままだという。きっとディエンビエンフーのこの作戦基地にもかなりの日本兵がいたのだろう。そんなことを考えていて、ふと1976年にベトナムに来たときのことを思い出した。サイゴンの港近くで山田正平氏とベトナムコーヒーをすすっていたら、急におじいさんが日本語で話しかけてきて「私は日本人だ」という。ベトナム戦争勝利直後で、そんなところに日本人がいるとは思わなかったのであまり深い話はしなかった。彼は残留日本兵だったかもしれない。
4.「ナポレオンのイエナの戦い」
※1985年 中部経済新聞 「歴史と兵法に学ぶ−経営者能力論」 小島正憲著(60回連続掲載)の第10回より。
≪陣頭指揮で常勝神話を−ナポレオンのカリスマ性に学べ≫
アウステルリッツの会戦でオーストリア・ロシア連合軍を破ったナポレオンは、1806年10月13日、余勢を駆ってプロイセンになだれ込んでいった。20万のナポレオン軍はチューリンゲンの森を抜け、イエナ地方で15万のプロイセン軍と対峙した。強行の疲れを見せるナポレオン軍の前に、フリードリヒ大王ゆずりの精兵プロイセン軍が頑強に抵抗し、さしものナポレオンも攻めあぐみ、焦った。
13日も夜が訪れ、シトシトと雨が降りはじめた。ナポレオンは夕食もそこそこにして、護衛武官数騎をひきつれて、敵情判断に駆け出した。イエナ北方のランドグラーフェンベルグ高地(標高361m、比高140m)に馬を進め、前方のホーエンローヘ侯ひきいるプロイセン主力軍を凝視した。眼下には野営の灯が点々と連なり、プロイセン軍主力5万の布陣がくっきりと浮かび上がっていた。
次の瞬間、ナポレオンはかたわらのランヌ元帥に、「すべての大砲を、今夜のうちにこの高地に運び上げよ」と命じた。しかし雨でぬかるんだ山道を、しかも夜間、1トン近い大砲を運び上げるのは至難の業だった。イライラして待つナポレオンのもとに、ついに「陛下、不可能です」との報が寄せられた。次の瞬間、ナポレオンは、
「イルニヤパ ドウモウ アンポシーポル アンフランセ (不可能の文字なし、フランス語には)」
と大声で叱咤し、すぐさま現場に駆けつけ、自ら大砲にロープをつけひっぱりはじめた。それを見てランヌ軍団3万の兵全員が、ナポレオンに続いてロープをになった。そしてとうとう朝までに、40門の大砲を全部高地にひっぱりあげてしまった。朝霧の晴れるのと同時に、整列した40門の大砲がねぼけまなこのプロイセン軍の頭上をめがけていっせいに火を噴いた。勝負は一決した。
現在、ランドグラーフェンベルグ高地はソ連の演習地の真っ只中になっている。胸をときめかせてこの地を訪れた私の前に、無情にも鉄条網と進入禁止の看板がたちふさがった。それでも、ナポレオンがその上で指揮をとったといわれる岩(ナポレオンスタイン)を一目見ようとほふく前進まがいで忍び込んだ。しかしカービン銃を肩にしたソ連兵の出現に驚いて逃げ帰らざるを得なかった。その近くで下を見ると、やはりこの高地に大砲を引き上げることはなかなかむずかしそうであった。同行の旧陸軍砲兵少佐が、その経験から旧陸軍でも無理だったろうと評しておられた。
ナポレオンは「予の如くせよ、予と共に進め、予の後ろに従え」と、常に言い続け、陣頭指揮に立ち続けた。彼はいつも白馬を4〜5頭従え、次々と乗り継いでいった。ナポレオンの雄姿は兵士たちを元気づけ、ナポレオンの声は突撃ラッパのように鳴り響いた。そしてついに「予の赴くところは必ず勝つ」という神話を完成させた。
経営者もこのナポレオンのカリスマ性に学び、常に陣頭指揮に立ち、その果断さでもって、「この経営者の赴くところ、必ず儲かる」という神話を完成させねばならない。
以上
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【中国経済最新統計】(試行版)
上海センターは、協力会会員を始めとする読者の皆様方へのサービスを充実する一環として、激動する中国経済に関する最新の統計情報を毎週お届けすることにしましたが、今後必要に応じて項目や表示方法などを見直す可能性がありますので、当面、試行版として提供し、引用を差し控えるようよろしくお願いいたします。 編集者より
|
@ 実質GDP増加率 (%) |
A 工業付加価値増加率(%) |
B 消費財 小売総 額増加率(%) |
C 消費者 物価指 数上昇率(%) |
D 都市固定資産投資増加率(%) |
E 貿易収支 (億j) |
F 輸 出 増加率(%) |
G 輸 入 増加率(%) |
H 外国直 接投資 件数の増加率 (%) |
I 外国直接投資金額増加率 (%) |
J 貨幣供給量増加率M2(%) |
K 人民元貸出残高増加率(%) |
2005年 |
10.4 |
|
12.9 |
1.8 |
27.2 |
1020 |
28.4 |
17.6 |
0.8 |
▲0.5 |
17.6 |
9.3 |
2006年 |
11.6 |
|
13.7 |
1.5 |
24.3 |
1775 |
27.2 |
19.9 |
▲5.7 |
4.5 |
15.7 |
15.7 |
2007年 |
13.0 |
18.5 |
16.8 |
4.8 |
25.8 |
2618 |
25.7 |
20.8 |
▲8.7 |
18.7 |
16.7 |
16.1 |
2008年 |
9.0 |
12.9 |
21.6 |
5.9 |
26.1 |
2955 |
17.2 |
18.5 |
▲27.4 |
23.6 |
17.8 |
15.9 |
1月 |
|
|
21.2 |
7.1 |
|
194 |
26.5 |
27.6 |
▲13.4 |
109.8 |
18.9 |
16.7 |
2月 |
|
(15.4) |
19.1 |
8.7 |
(24.3) |
82 |
6.3 |
35.6 |
▲38.0 |
38.3 |
17.4 |
15.7 |
3月 |
10.6 |
17.8 |
21.5 |
8.3 |
27.3 |
131 |
30.3 |
24.9 |
▲28.1 |
39.6 |
16.2 |
14.8 |
4月 |
|
15.7 |
22.0 |
8.5 |
25.4 |
164 |
21.8 |
26.8 |
▲16.7 |
52.7 |
16.9 |
14.7 |
5月 |
|
16.0 |
21.6 |
7.7 |
25.4 |
198 |
28.2 |
40.7 |
▲11.0 |
38.0 |
18.0 |
14.9 |
6月 |
10.4 |
16.0 |
23.0 |
7.1 |
29.5 |
207 |
17.2 |
31.4 |
▲27.2 |
14.6 |
17.3 |
14.1 |
7月 |
|
14.7 |
23.3 |
6.3 |
29.2 |
252 |
26.7 |
33.7 |
▲22.2 |
38.5 |
16.3 |
14.6 |
8月 |
|
12.8 |
23.2 |
4.9 |
28.1 |
289 |
21.0 |
23.0 |
▲39.5 |
39.7 |
15.9 |
14.3 |
9月 |
9.9 |
11.4 |
23.2 |
4.6 |
29.0 |
294 |
21.4 |
21.2 |
▲40.3 |
26.0 |
15.2 |
14.5 |
10月 |
|
8.2 |
22.0 |
4.0 |
24.4 |
353 |
19.0 |
15.4 |
▲26.1 |
▲0.8 |
15.0 |
14.6 |
11月 |
|
5.4 |
20.8 |
2.4 |
23.8 |
402 |
▲2.2 |
▲18.0 |
▲38.3 |
▲36.5 |
14.7 |
13.2 |
12月 |
9.0 |
5.7 |
19.0 |
1.2 |
22.3 |
390 |
▲2.8 |
▲21.3 |
▲25.8 |
▲5.7 |
17.8 |
15.9 |
2009年 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1月 |
|
|
|
1.0 |
|
391 |
▲17.5 |
▲43.1 |
▲48.7 |
▲32.7 |
18.7 |
18.6 |
2月 |
|
(3.8) |
(15.2) |
▲1.6 |
(26.5) |
48 |
▲25.7 |
▲24.1 |
▲13.0 |
▲15.8 |
20.5 |
24.2 |
3月 |
|
|
|
|
|
186 |
▲17.1 |
▲25.1 |
|
|
25.5 |
29.8 |
注:1.@「実質GDP増加率」は前年同期(四半期)比、その他の増加率はいずれも前年同月比である。
2.中国では、旧正月休みは年によって月が変わるため、1月と2月の前年同月比は比較できない場合があるので注意
されたい。また、( )内の数字は1月と2月を合計した増加率を示している。
3. B「消費財小売総額」は中国における「社会消費財小売総額」、C「消費者物価指数」は「住民消費価格指数」に対応している。D「都市固定資産投資」は全国総投資額の86%(2007年)を占めている。E―Gはいずれもモノの貿易である。HとIは実施ベースである。
出所:@―Dは国家統計局統計、EFGは海関統計、HIは商務部統計、JKは中国人民銀行統計による。