=================================================================================
京大上海センターニュースレター
第53号 2005年4月21日
京都大学経済学研究科上海センター
=================================================================================
目次
○ブラゴベスト・センドフ駐日ブルガリア大使講演会のご案内
○上海センター・ブラウンバッグランチセミナーのご案内
○中国・上海情報 4.4-4.10
○「中国・新疆 視察旅行」参加のご案内
○河上肇と中国の経済思想
*********************************************************************************
ブラゴベスト・センドフ駐日ブルガリア大使講演会のご案内
講演テーマ「EUの東方拡大と東アジアの可能性-ブルガリアの視点から-」
講演者 ブラゴベスト・センドフ駐日ブルガリア大使、世界大学協会名誉総裁
通訳  田中雄三龍谷大学名誉教授
日時  4月28日(木)14:00-
会場  時計台記念館国際交流ホールT
共催  京都大学経済学会
=================================================================================
上海センター・ブラウンバッグランチ(BBL)セミナーのご案内
演題 人民元切上げが中国経済に及ぼす影響
講師 村瀬 哲司 京都大学国際交流センター教授
日時 2005年5月9日(月)午後12時15分〜13時45分(食事持ち込み可)
場所 法経総合研究棟3階311教室
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
中国・上海ニュース 4.11−4.17
ヘッドライン
■ 中国:2005年1−3月の貿易黒字166億ドル
■ 上海:対日抗議デモ発生、当局がデモ参加者の違法行為を取締り
■ 中国:2005年1−3月のGDP9.5%増
■ 中国:2005年1−3月の粗鋼生産量は23%増、7800万トン
■ 中国:養老金6兆元不足、30年かけて解決
■ 上海:郊外民間企業が急成長、04年累計で5割増収
■ 中国:ガソリンに続きディーゼルオイルも値上げか
■ 上海:アジア史上最大のモーターショー、21日開幕へ
■ 上海:不動産販売価格、35都市平均の倍の2割増
■ 上海:人気BBSサイトで日本関連の過激投稿を全削除
=================================================================================
                   「中国・新疆 視察旅行」参加のご案内
                              辰野株式会社 代表取締役専務 辰野 元彦
 弊社海外事業部に於きましては、中国・新疆ウイグル自治区ウルムチ市にて、98年1月に地
下商店街「辰野名品広場」をオープンし、本年は第2期工事にも着工しました。この仕事に携
わる中で、新疆ウイグル自治区やウルムチ市に於いては、産業の各分野で有望な数多くのプ
ロジェクトがあり、特に日本からの協力が強く要望されていることを実感致しました。
ついては、日本各方面の方々に当地を知って頂くべく、本年も7月に第7回「中国・新疆 視察
旅行」を実施させて頂きたく存じます。
各種資源の豊富な新疆ウイグル自治区は、中国政府の西部大開発の政策により大いに発展
が期待されております。又、シルクロードの中国西端に位置し、観光の面でも十分楽しんで頂
けます。種々ご予定もお有りかとは存じますが、この機会に是非当地を訪問頂きたくご案内申
し上げる次第でございます。帰路では、敦煌や大連も訪問する予定です。
申し込みの締め切りは6月20日ということですので、ご関心の方は辰野(株) 海外事業部の担
当:大田・石(k..seki@tatuno.co.jp)Tel06(6263)2360、Fax06(6263)2791までご連絡下さい。
7/16〜7/21の場合のスケジュール(希望により変更可)
月 日 都 市 現地時間 交通機関 適 用
1 7月16日
(土) 関西空港発
北 京着
北 京発
ウルムチ着 10:30
12:35
14:40
18:30 JL785

CZ6902
専用車 出国手続後、JAL便にて北京へ
着後、国内線に乗り換えて、ウルムチへ
到着後、夕食
(「海徳大酒店」同等クラス 泊) 
2 7月17日
(日) ウルムチ

トルファン

夕刻 専用車 ウルムチ市内視察及び交流会
辰野地下商店街視察、紅山公園、新疆ウィグル自治区博物館など
(希望者は二期工事現場見学)
(「トルファン賓館」同等クラス泊)
3 7月18日
(月) トルファン

ウルムチ

夕刻 専用車 トルファン視察及び観光
カレーズ博物館、火焔山、ベゼクリク千仏洞、交河古城、アスターナ古墳群等
(「海徳大酒店」同等クラス 泊)
4 7月19日(火) ウルムチ発
敦煌 08:15
09:25       CZ6895
        
専用車 敦煌へ
着後、莫高窟、鳴沙山、月牙泉見学
(「敦煌太陽大酒店」同等クラス 泊)

5 7月20日
(水) 敦煌

大連 11:20

14:20      CZ6482

 専用車 着後,大連市内見学
(「フラマホテル大連」同等クラス 泊)
6 7月21日
(木)
大連発
関西空港着
13:40
16:55 専用車
JL790
旅順見学(203高地、東鶏冠王、水師営)
出国手続き後、空路、帰国の途へ

◇定員:参加定員は30名です。定員となり次第締め切らせていただきます。
◇食事:<朝食>5回 <昼食>3回 <夕食>5回 (機内食を除く)
◇利用航空会社:日本航空(関空  北京・大連)中国南方航空 (北京→ウルムチ→敦煌→大連)
◇諸事情により、已むを得ず日程変更・中止をする場合もございます。
2.参加費用 :249,000円(団体料金適用)
=================================================================================
                        河上肇と中国の経済思想
                              日本学術振興会特別研究員 三田 剛史
はじめに
 中国においては、1919年頃からマルクス主義の文献が続々と出版されるようになり、1921年
の中国共産党成立を経て、1949年の人民共和国成立に至ると、マルクス主義経済学は指導
的位置を占めるようになる。中国における近代経済学の歴史は、19世紀終わり頃北京の同文
館で、外国人教師によって他の西洋の近代的学問とともに経済学が講じられていた頃にさか
のぼると考えられる。日清戦争後の中国は、人と書物を通じて日本から各方面の近代的知識
を摂取したが、経済学ももちろんその一環であった。ただ、19世紀末以来の中国において、マ
ルクス主義経済学が輸入経済学としてはじめから圧倒的・主導的な勢力を有していたわけで
はなく、いわゆる民国時期(辛亥革命から人民共和国成立まで)の中国の経済学研究は、か
なり多様に展開されていたようである。
 ここでは20世紀前半の中国において、なぜマルクス主義とマルクス主義経済学が後に指導
的地位を築きうる潮流となったのかを考えるため、河上肇(1879〜1946年)の思想とその中国
への影響について、試論を略述する。河上は、20世紀前半の中国において、その著作が最も
多く中国語に翻訳された日本人社会科学者であり、京都帝国大学では少なからぬ中国人留
学生が河上に師事した。李大サ、毛沢東、周恩来、郭沫若をはじめ、多くの中国革命の指導
者が河上の著作に学んでおり、河上が中国へのマルクス主義伝播と中国マルクス主義の生
成に与えた影響は、歴史上無視できぬものである。

河上肇の思想形成
 河上肇が政治家を志して1898年に入学した東京帝国大学法科大学では、臣民を統治する
ための官学としての国家学が主流として講じられていた。同時に河上は、貧困、貧富の格差
といった社会問題の存在を認識し始め、木下尚江や田中正造ら社会主義者や社会活動家に
関心を持つようになった。ただ、社会主義そのものにはまだ懐疑的で、社会問題をどのように
解決するか、社会政策か社会主義か、という当時の思想界、経済学界の一般的課題とは別
に、青年時代の河上が抱えていた最重要の思想的課題は、利己心と利他心の相克であり、
経済と道徳の調和であった。この課題を如何に解決するかが、国家学や社会政策論、人道
主義的経済学、マルクス=レーニン主義へとその主張を変えていく河上が、一生をかけて追究
した問題であったといえる。

 1908年河上は京都帝国大学に奉職し、日本は大逆事件を経て大正デモクラシー期に入った。
大正デモクラシー期は、新興の市民階級が社会問題追究の担い手として勃興した時期であっ
た。1917年のロシア革命以後は、日本においてもマルクス主義の研究が活発化するが、マル
クス主義経済学は、社会問題解決の有効な手段だと思われただけでなく、ドイツとロシアで強
い影響力を有する最新の学説であり、日本においても現代の理論として受容すべきものだと
考えられたようである。
 このような時代背景において河上がマルクス主義研究を開始したということから、一つの問
題が浮かび上がる。イギリスの古典派経済学いわゆる自由主義経済学は、幕末から明治初
年にかけて日本に先ず導入された経済学であり、主に私学や実業界によってその影響力が
日本においても持続されてきた。しかし、河上がイギリス古典派経済学研究を本格化させるの
は1913〜1915年のヨーロッパ留学以後のことである。しかも河上のイギリス古典派経済学研
究は、自由主義のイデオロギーを肯定的に摂取するためではなく、個人主義の行き詰まりと
その打開策として誕生するラスキンやマルクスの経済学へのいわば序曲としての「史的」研究
であった。大正デモクラシー期の河上肇にとって、自由主義経済学はすでに克服すべき過去
の経済学であり、時代を切り開く最先端の経済学はマルクス主義経済学であった。しかし河
上は河上よりも少し若い世代の有力な日本人マルクス経済学者と違い、留学してマルクス主
義を学んだわけではなく、自力で文献に依拠してマルクス主義を探究していったのである。河
上のマルクス主義研究は、経済と道徳の調和という青年時代以来の課題追究の延長上にあ
ったはずである。1916年の『貧乏物語』において河上は、マルクス『経済学批判』の序文で示
されたいわゆる「唯物史観の公式」を引用している。ここでの河上の引用の要旨は「経済組織
が先づ変わつて然る後に人の思想精神が変る」というもので、これはそもそも東洋に古くから
ある経済的社会観と同じものであると見なした。河上によるマルクス主義的唯物史観の受容
には、「東洋に古くからある経済的社会観」、つまり中国古典に由来する思想的伝統が媒介し
ているといよう。

 中国の思想的伝統、ないしその源流となった中国の古典、特に先秦時期の経済思想の影
響を強く受けた徳川期の経済思想を、河上は1902年頃から研究していた。河上は徳川期経
済思想の特徴として、「支那古代ノ学説ヲ尊重セシコト」を挙げている。「支那古代ノ学説」とは、
「先王之道」であり「堯舜之道」であると述べ、「維新前ニ於ケル本邦ノ経済学説ハ主トシテ其
ノ系統ヲ支那ニヒクモノト謂フベキナリ」と断じている。しかし、「支那古代ノ言説ヲ尊重シ崇拝
セシコトハコレ亦今更論ズルノ要ナシ」として、その具体的内容には踏み込んでいない。にも
かかわらず、河上自身が「支那古代ノ学説」を幾度と無くその著作に引いていることは、河上
が徳川期の経済思想家の視角を引き継ぎ、先秦経済思想の観点を無意識ともいえるレベル、
つまり客観的疑義・検証の必要を感じさせないほどまでに深く抱懐していたことを示していると
いえよう。
 では、先秦経済思想を淵源とし、河上肇や近代中国の知識人にまで引き継がれている思想
的伝統とは何であろうか。

中国の思想的伝統とマルクス=レーニン主義
 アメリカの中国学者トーマス・メッツガーは、近代西欧の市民社会と中国社会の比較から、中
国の思想的伝統として、知識人が道徳的権威による上からの教化により、ユートピア的ゲマイ
ンシャフトの理想を社会に現実化しようとする強い傾向を指摘している。また、メッツガーは、
中国の知識人がアダム・スミスの志向するような自由な個人で構成されるゲゼルシャフトの社
会には懐疑的で、中国の知識人にとってそれは道徳的失敗であるとも述べている。自由主義
の社会は「個人主義」の社会であり、貧富の格差など内包する問題をすでに顕在化させつつ
ある社会で、ラスキンの「人道主義」やマルクスの「社会主義」によって克服されなければなら
ないと、河上も認識していた。大学時代修めた近代的学問が英米流の自由主義を主としたも
のではなかったこと、思想的伝統が無意識といえるレベルにまで浸透していたことが、河上の
思想遍歴の背景にあると思われる。

 河上は特に『孟子』の「恒産なくして恒心あるは、惟(ただ)士のみ能くするを為す。」という一
節を、生涯の著作の中で何度も引用している。この言葉は、経済の改善を道徳推進の前提と
するが、経済が改善されなければ道徳を保てないのは被支配者である「民」であって、「士」は
経済状態の如何にかかわらず道徳を保持する者であり、しかも経済を改善することで「民」を
善導すべき存在であるという意味を含む。河上は『論語』の「食を足し、兵を足し、民をしてこれ
を信ぜしむ」という一句もよく引用している。この一句の背後には、「民」のために救貧を行うの
も善導を行うのも「士」であるという思想がある。河上の思想にはこのように、経済を道徳の手
段とする儒家的教化思想と呼ぶべきものを擁しており、経済的基礎が思想などの上部構造を
規定するというマルクスの唯物史観は、儒家的教化思想に内包されるものであった。
 河上は、『国家と革命』などレーニンの著作に基づいて、ロシア革命の研究を進めていくうち
に、社会主義革命が三つの時期を経る革命であることに考え至った。その三つの時期とは、
精神的準備、政治的戦闘、経済的経営の三期である。そして、社会主義革命にも精神的準備
の上で政治革命を主導する先覚者が必要であることを見出した。前衛的指導者の担う革命と
いうレーニンの革命理論は、マルクス主義革命への「士」の参与のあり方を河上肇に気づかせ
た。河上にとって、当時のコミンテルン指導部こそが、この先覚者の集団であった。ここにレー
ニン理論とロシア革命の現実を媒介として、「士」の思想とマルクス主義が、マルクス=レーニ
ン主義のもとに結合されたといえる。プロレタリアート独裁も、この結合の上に成り立つ革命政
体であるとの認識に、河上は到達した。

 中国の古典に由来する「士」の思想は、河上が唯物史観を受容しマルクス=レーニン主義に
傾斜していく思想的根拠となったのではなかろうか。
 河上が「士」の思想とマルクス=レーニン主義を結合させた1922年の著作『社会組織と社会
革命に関する若干の考察』は、当時の中国知識人にも原版・中国語版が読まれ、マルクス=
レーニン主義の中国への適用を巡る議論のきっかけと材料の一つとなったように思われる。
 河上の思想遍歴に一貫しているのは、道徳的権威を具えた「士」の主導する社会改革・革命
への志向ではなかろうか。そして毛沢東は河上の著作からこの一貫性を読みとっていたので
はなかろうか。1962年訪中した宮川実に対し、毛沢東は、河上の「変革の精神をたたえ」、「革
命家」にして「憂国の学者」であると評価し、その精神が『貧乏物語』以来一貫しており、河上
のよい著作は中国語訳して読ませねばならぬ、と語ったという。毛沢東は実際、1941年に延
安で、河上の『経済学大綱』「序文」をプリントして幹部用教材として配布している。
 河上肇は古代以来の中国から日本への文化的影響と、近代以後の日本から中国への文化
逆流という環を一身に体現している人物である。中国の思想的伝統を継承する思想家がマル
クス主義者へと転化していく過程と、このようなマルクス=レーニン主義への河上の認識が、
中国の知識人の共感をよんだのではなかろうか。
 ひいては、このようなマルクス=レーニン主義受容と理解の様態が、マルクス=レーニン主
義を中国における主導的イデオロギーの地位に引き上げたのではなかろうか。もちろんそれ
は中国化されたマルクス=レーニン主義であった。

中国共産主義の行方
 再びメッツガーの説に従えば、中国の革命家にとっての理想は、道徳的権威者の主導でゲ
マインシャフト的ユートピアを建設することであった。河上の共産主義観にもゲマインシャフト
的ユートピアへの指向がある。具体的には、革命を実行して生産力の増大という基礎の上に
共産主義社会を確立し、『ゴータ綱領批判』で主張されたように「能力に応じて働き必要に応
じて取る社会」が実現されれば、社会のために剰余労働を行うという自覚が生まれ、剰余労
働によって消費を社会的に享受するようになるということで、この考え方は、1930年の対話体
の論文「共産主義社会への展望」で暗示されている。
 ただ河上は、革命を担い前衛的指導を行う先覚者が誤謬を犯す危険性を、全く認識してい
ない。これは、当時のロシア革命の輝かしさのためであり、人間的高尚さを具えた「士」と革
命の前衛を結びつけた河上肇の革命認識という二つの理由から来た河上肇の限界である。
  この小論では、孔孟の経済思想とマルクス=レーニン主義の関係に注目して、河上の思想
を考えた。しかし、河上の思想は豊富な構成要素を含んでおり、伝統思想に関してだけでも、
儒家だけでなく法家や道家の影響も看取され、陽明学の影響を指摘する研究者もいるし、河
上晩年の思索を考えるに仏教は不可欠の要素である。教条主義的マルクス=レーニン主義
にとらわれず、欧米のモデルとも一線を画した自由でより個性的な思想展開が、河上には可
能だったはずである。今日、マルクス=レーニン主義の権威主義的国家体制は、崩壊するか
批判的検討の対象となっている。河上にも影響を与えた中国の伝統思想は、孔孟や儒学に
収斂され得ない多様性を有しており、それが20世紀の共産主義を超越するイデオロギーを生
み出す土壌となるのかもしれない。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++