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京大上海センターニュースレター
第56号 2005年5月10日
京都大学経済学研究科上海センター
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目次
○上海センター・ブラウンバッグランチセミナーのご案内
○上海センターシンポジウム「日中間の”政冷経熱”をどう打開するか」のご案内
○中国・上海情報 5.2-5.8
○現代中国の政治経済学(2)
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上海センター・ブラウンバッグランチ(BBL)セミナーのご案内
1)第4回 中国経済の行方・再考
講師 京都大学経済研究所 上原一慶教授
日時 2005年5月18日(水)午後12時15分〜13時45分(食事持ち込み可)
場所 法経総合研究棟1階演習室107

2)第5回 中国における都市・農村間の教育格差
講師 京都大学大学院農学研究科 沈金虎 講師
日時 2005年6月7日(火)午後12時15分〜13時45分(食事持ち込み可)
場所 法経総合研究棟1階演習室107
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上海センター・シンポジウム「日中間の”政冷経熱”をどう打開するか」のご案内
報告者 時 殷弘 (中国人民大学国際関係学院教授、アメリカ研究センター主任教授)
高井潔司(北海道大学国際広報メディア研究科教授、元読売新聞北京支局長)
竹内 實 (京都大学名誉教授)
司会 本山美彦(京都大学経済学研究科教授)
日時 7月1日(金)午後2:00-6:00 会場 京都大学時計台記念館百周年記念ホール
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中国・上海ニュース 5.2−5.8
ヘッドライン
■中国:国内からの元切り上げ圧力がメイン、金融改革など先決
■台湾と中国大陸:台湾の第2野党主席が大陸訪問
■国際:米中首脳電話会談、台湾と大陸の関係改善へ積極姿勢
■温家宝総理:意識改革、長期的なエネルギー不足に対処する鍵
■中国:青蔵鉄道の敷設工事進み、2006年7月開通へ
■上海:国際自転車展示会が開幕、世界のメーカー勢揃い
■中国:ソフトウェア産業規模2300億元、インド越える
■中国:ブロードバンドユーザー数、2007年世界一か
■北京:35食品が二酸化硫黄の基準値上回る
■湖北:台湾企業の投資総額で中西部地域トップ
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                      現代中国の政治経済学(2)
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V 現代中国の経済改革に影響を与えた経済学者達

1薜暮橋(1904.10.25−)
 薜暮橋は中国の官庁エコノミストとも言うべき実務派官僚である。本名は薜与齢と言い、別
名は薜雨林、更に筆名は余霖、霖である。彼は大学を出ていない徹底した実務派の経済官
僚である。彼は『薜暮橋回顧録』を天津人民出版社から1996年に出版している。この本には
長命の彼の数々の逸話が述べられており、興味が尽きない。彼の代表作とも言うべき『中国
社会主義経済問題研究』は人民出版社から1979年に刊行されているが、発行部数は1000万
部の大ベストセラーとなり、ケ小平の経済改革へ大きな影響を与えた。

 この『薜暮橋回顧録』を読んでいる時に思いがけない発見があった。当時の中国青年として
薜暮橋は河上肇の著作に親しんでいるのである。彼は1927年当時国民党に投獄されていた
が、獄中で河上肇の『資本主義経済思想史』を学習したのである。更に『経済学大綱』を1932
年に学習したのである。また彼は日本語の勉強もしており、上海市内の内山書店に出入りし
ていた。内山完造が開いた書店は魯迅がしばしば訪れ、上海の左翼作家達のサロンになっ
ていたことは有名である。
 薜暮橋が大学を出ていないのになぜ経済学者になれたかと問えば、それは農村経済研究
会の存在を抜きにしては語れない。この農村経済研究会においてそれを主宰した人物陳翰
笙に師事したからである。陳翰笙(1987−)は江蘇省無錫出身で本名は陳枢という。彼は
1921年にシカゴ大学修士を取得、1924年ベルリン大学東欧史研究所博士となる。博士論文
は『帝国主義の弱小民族に対する圧迫』である。同年帰国して北京大学教授となる。1924年
国民党に入党、27年モスクワの国際農民運動研究所研究員になる。1928年帰国して中央研
究院社会科学研究所所長となった。1935年中国共産党に入党してモスクワ東方大学研究員
となる。その後ワシントン州立大学客員教授、ジョーンズホプキンス大学国際問題研究所教
授を経て1951年帰国し、外交部顧問、国際関係研究所副所長、中国科学院哲学社会科学
部委員、中国社会科学院顧問、同世界歴史研究所名誉所長、北京大学教授、中国外交学
院兼職教授を歴任する。なお文革中の1967年6月劉少奇の追随者として批判され失脚して
77年社会科学院顧問として復活している。

 ここで薜暮橋の経歴を見てみよう。彼は江蘇省無錫の出身であり、師の陳翰笙と同郷であ
る。1927年中国共産党入党、国民党に逮捕され、31年まで3年半杭州陸軍監獄に入獄してい
る。1931年無錫農村経済調査に参加し、31年中国農村経済研究会を組織して月刊誌『中国
農村』を主編で発刊する。この雑誌の主要論文は『《中国農村》論文選』(上下2巻)として1983
年に人民出版社から復刻されている。彼は『薜暮橋回顧録』で師の陳翰笙教授から徹底的
に農村調査の方法を叩き込まれ、それが彼の学問的方法論の基礎となっていることを告白
している。またなぜ彼が薜暮橋に改名したかは師の陳翰笙による。陳教授が彼を広西師範
学校の教員に推薦する時上海労働大学卒として紹介するために改名させたのである。
 彼は1938−42年には新四軍に参加、43年山東省政府秘書長兼工商局長となっている。建
国後、政務院財政経済委秘書長となり、1951年国家統計局長となり、54年国務院国家計画
委副主任となり、63年全国物価委主任となったが、67年文革により失脚して75年に復活し、
1980年国務院経済研究中心総幹事に就任した。
 彼の業績は『中国農村経済常識』、『農村経済基本知識』新知書店1937年、『思想方法和
学習方法』新華書店1946年、『中国国民経済的社会主義改造』(蘇星、林子力と共著)人民
出版社1957年、『社会主義経済理論問題』人民出版社1979年、『中国社会主義経済問題研
究』1979年である。
 2004年に出版された『中国の著名経済学者との対話 第6集』では薜暮橋の章があり、そ
の中で薜暮橋の娘の証言として「父は文革で労働改造所に入れられるまで『資本論』を読ん
だことはなかった」と証言している。正に実証学派の薜暮橋の面目躍如たるものがある。本
人の『回顧録』でも体が衰弱したため五七幹部学校から解放されて北京の自宅に帰った1973
年から3年余の時間を使って『資本論』全巻通読したと告白しているのである。

2杜潤生(1913.7−)
 杜潤生は、趙紫陽(1919.10.17−2005.1.17)時代に党中央農村政策研究室主任として党の
1号文件を作成し、農業の経営請負制(「包乾到戸」)を推進したのである。その1号文献は、
1983年の「当面する農村経済政策の若干の問題」、1984年の「1984年の農村工に関する通
知」、1985年の「更にもう一歩農村経済を活性化させる10項目の政策」、1986年の「1986年
の農村工作に関する配置」、1987年の「農村改革を深化させよう」に及んでいる。正に農業
改革の黄金期にその中心となる農業政策を提唱したのである。

 では、なぜ杜潤生はこのような自由主義的農業政策を打ち出すことが出来たのであろうか。
それは彼が1950年代に農業部長であったケ子恢の部下として働いていた経験が生かされ
ていると言って過言ではない。ケ子恢と杜潤生は50年代中期の毛沢東の急進的農業合作
化運動を批判した。その批判は以下の如くである。(1)毛沢東の改革速度が速すぎること、
(2)土地改革後の一定期間農民の4大自由(商品交換、貸し借り、雇用、小作関係)を認め
ること、(3)多様な合作形式を認めることである。しかしながら、このような批判は逆に毛沢
東によって「脚の短い女の歩く道」として批判されてしまったのである。
 しかし、この毛沢東の大躍進政策は、1961−63年の大旱魃、経済政策の失敗、ソ連の援
助停止、すなわち天災、人災、外災の「三災」によって失敗に帰した結果、毛沢東は国家主
席を辞任した。そして毛沢東の失敗を挽回すべく、劉少奇が国家主席となり、60年代の調整
期に入る。この調整期にケ子恢は杜潤生とともに農業自由化を推進し、個別生産請負制を
推進し、更には個別経営請負制を承認するに到ったのである。この政策は毛沢東の文革の
反撃で潰されることになる。しかし、後年ケ小平時代に杜潤生はこの経験を生かすことにな
るのである。

 ここで杜潤生の経歴をみてみよう。彼は山西省太谷出身で北京師範大学を卒業している。
1935年に12.9運動に参加し、1936年に共産党に入党し、晋魯豫抗日義勇軍第3支隊長、晋
冀魯豫辺区政府委員兼教育処長を歴任している。
 新中国建国後、彼は党中央中南局秘書長となり、1953年に党中央農村工作部秘書長兼国
務院農林弁公室副主任となり、1956年中国科学院秘書長となり、「科学技術12年発展計画」
を起草し、1961年には科学憲法と言われる「自然科学研究に関する14条の意見」を起草して
いる。
 文革中を迫害されたが、1978年の第11期3中全会以降、国家農業委副主任となり、1983年
党中央書記処農村政策研究室主任と国務院農村発展研究センター主任となっている。そし
て83年から毎年5つの1号文件を起草し、中国農業の市場化を推進したのである。 
 そして趙紫陽総書記が1989年6月4日の天安門事件で失脚すると同時に杜潤生も失脚した
のである。
 彼の業績には『中国農村経済改革』、『中国農村の選択』、『中国農村制度の変遷』、『杜潤
生文集』がある。
 なお、杜潤生の師とも言うべきケ子恢(1896−1972.12.10)の経歴をみてみよう。彼は福建
省龍岩県出身で1926年に共産党に入党し、28年に中華ソビエト共和国臨時中央政府財政
人民委員、財政部長になっている。1934年には彼は長征に参加せず残留している。抗日戦
争期には新四軍政治部主任を務めており、内戦期には党中央華東局副書記兼華中軍区政
治委員となっている。
 新中国建国後、彼は中央人民政府委員、中南軍政委副主任、中南局第2書記兼中南軍
区第2政治委員を歴任し、1951年農村工作部長、52年国務院副総理になっている。1955年
と1962年に農業集団化を巡り毛沢東と対立、批判されている。1965年には副総理を解任さ
れ、失脚した。文革中は林彪、4人組により迫害され、病没している。しかし、ケ小平によって
1981年に名誉復活されている。
 彼は土地改革、農業集団化を指導したことで知られているが、青年時代に1917年3月から
1918年5月まで日本留学しており、早稲田に居住していた。この時代の中国青年として周恩
来のように河上肇の著作を通じてマルクス経済学を勉強したことがあるのではなかろうか。
彼の伝記には明記されてはいないが。
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