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京大上海センターニュースレター
第57号 2005年5月17日
京都大学経済学研究科上海センター
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目次
○日本国瀋陽総領事館主催・上海センター共催日中経済交流セミナーのご報告
○上海センター・ブラウンバッグランチセミナーのご案内
○上海センターシンポジウム「日中間の”政冷経熱”をどう打開するか」のご案内
○中国・上海情報 5.9-5.15
○現代中国の政治経済学(3)
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京都大学上海センターでは、以下のような在瀋陽日本国総領事館主催の「日中経済交流セミ
ナー」に共催として参加することとなり、上海センター協力会も協力することとなりました。現地
での参加は限定されていますが、お申し込みいただければ特別に参加のご案内もできます。
また、事後にもご報告したいと思っています。
            記
日時  5月24日10:00-16:15
会場  在瀋陽日本国総領事館
挨拶  小河内敏朗在瀋陽日本国総領事
報告者
 大西広 京都大学教授「中国の”漸進改革の知恵”の普遍的意義とその普及」
 塩地洋 京都大学教授「中国の中古車流通制度の問題点と改革方向」
 大森經徳 上海センター協力会副会長「経済人の目から見た東北振興・中国経済安定発展
   への提言」
 稲田堅太郎 弁護士「大連の弁護士から見た東北振興への提言」
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上海センター・ブラウンバッグランチ(BBL)セミナーのご案内
1)第4回 中国経済の行方・再考
講師 京都大学経済研究所 上原一慶教授
日時 2005年5月18日(水)午後12時15分〜13時45分(食事持ち込み可)
場所 法経総合研究棟1階演習室107

2)第5回 中国における都市・農村間の教育格差
講師 京都大学大学院農学研究科 沈金虎 講師
日時 2005年6月7日(火)午後12時15分〜13時45分(食事持ち込み可)
場所 法経総合研究棟1階演習室107
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上海センター・シンポジウム「日中間の”政冷経熱”をどう打開するか」のご案内
報告者 時 殷弘 (中国人民大学国際関係学院教授、アメリカ研究センター主任教授)
高井潔司(北海道大学国際広報メディア研究科教授、元読売新聞北京支局長)
竹内 實 (京都大学名誉教授)
司会 本山美彦(京都大学経済学研究科教授)
日時 7月1日(金)午後2:00-6:00 会場 京都大学時計台記念館百周年記念ホール
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中国・上海ニュース 5.9−5.15
ヘッドライン
■中国:中央政府7部署「不動産価格安定のための通知」発表
■温家宝総理:人民元改革で外圧に屈せず・米経済団体に表明
■中国:国有25社トップ国内外公募
■上海市長:上海市の発展が直面する5つの問題 
■中国商務部:1−4月対中投資トップは香港、日本は3位
■上海:高級車市場、「クラウン」が「アウディ」侵食か
■中国:原油高でディーゼル油出荷価格150元値上げ、上海市バスに難問
■中国:4−6月不動産価格上昇、伸び幅は7.5%縮小か
■北京:北京−上海鉄道で高速化開始、200Km/Hへ
■自動車:1−4月、乗用車不調も全体では伸び
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                     現代中国の政治経済学(3)
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V 社会主義市場経済理論の創設者―顧准と孫冶方

T孫冶方
 孫冶方(1908.10.24−1983.2.22)は、現在中国の代表的経済学者と評価されている。彼は本
名薜萼果、字は勉之という。彼は中国社会科学院経済研究所長を務めている。1960年代に
利潤指標を主張し、「中国のリーベルマン」と呼ばれた。リーベルマンはフルシチョフ時代のソ
連の改革派経済学者である。孫冶方は現在ではケ小平の経済改革の理論的基礎となる中
国の社会主義市場経済理論の元祖と位置付けられている。
 彼には近年もう1人の社会主義市場経済理論の元祖と注目され始めている顧准に関わる
有名なエピソードがある。彼の論文「計画と統計を価値法則の上に置こう」(『経済研究』1956
年第6期)に以下のような後記がある。
「・・・今年の初夏に呉絳楓(こうふう)(即ち顧准の筆名)同志が価値規律の社会主義経済に
おける作用問題を提出して私と研究し、かつまたマルクスの資本論第2巻の価値決定に関す
る例証を私に指し示した。私は、当時それが1つの重要な理論問題であると感じてはいたけ
れども、ソ連に統計工作の考察のために行かなくてはならないために未だこの問題に対して
深く学習することはできていなかった。この他、当時自己認識においてこの1つの理論性の問
題が統計工作にかくのごとく直接関係があるとは意識もしていなかった。・・・」
 孫冶方自身が病に倒れて臨終前に当時の学生呉敬l、張卓元に将来論文集を出版する
時に必ずこの後記を掲載するように指示したのである。(この事情は張勁夫「顧准に関する
1つの重要な史実」『文匯報』1993.7.9)正に孫冶方自身の人格高潔を示す物語である。
 しかし、彼の死後出版された『社会主義経済問題的若干理論問題』及び『社会主義経済問
題的若干理論問題続集』にはこの「後記」は未収録となっている。更には『孫冶方全集』(全5
巻)が1998年に山西人民出版社に出版されたが、ここでも「後記」は未収録となっているので
ある。この事実は孫冶方自身の願いが無視されているのではないだろうか。

 ここで孫冶方の経歴をみてみよう。彼は薜暮橋と同郷の江蘇省無錫出身である。1924年に
中国共産党に入党している。1925−30年にはソ連に留学している。そして1927年モスクワ中
山大学を卒業して極東勤労者大学、モスクワ中山大学で経済学を講義している。1931年に
帰国して37年まで農村調査に従事している。この農村調査は前述の農村経済研究会 が実
施したもので指導者は陳翰笙であった。孫冶方もまた陳教授に師事しているのである。
 新中国建国後は、1951年華東軍政委員になり、1956年には国家統計局副局長となり、しば
しばソ連を訪問し、ソ連のソーボリ中央統計局国民経済バランス部長と意見交換をしている。
ソーボリは1930年代にソ連における国民経済バランス論をめぐる論争にストルミリン、ツァゴ
ロフ、イグナトフ、ノートキン、モスクヴィン、クルスキー等とともに参加しており、著作には『国
民経済バランス概論』(1960)がある。また彼は社会主義下の商品生産については価値範疇
は計算範疇に過ぎないとする見解を主張して非商品生産説を展開し、レオンチエフ等の商品
生産説、チェルコヴィエツ等の中間的見解と異なる見解を主張している。

 孫冶方はソ連の経済計画の影響を受け、総生産額指標よりも純生産額指標による計画経
済運営を主張し、更に純生産額指標よりも利潤指標による経済運営を主張して、中国の“リ
ーベルマン”と呼称されるに至っている。
 ちなみにソ連のリーベルマンはフルシチョフ書記の下に1962年に「計画、利潤、報奨」と題す
る論文を党機関紙「プラウダ」に発表し、いわゆる利潤論争を引き起こしたのである。彼は
1982年に84才で死去している。
 1957年に中国科学院経済研究所に入所し、64年には経済研究所所長となっている。文革
期には反革命修正主義者として批判され、失脚し、1968―75年には獄中生活を送っている。
1978年に名誉回復され、経済研究所名誉所長となっている。そして1983年2月22日に死去し
ている。
 彼の年譜には興味深い点がいくつかみられる。彼は陳翰笙に同行して1934年6月―35年9
月に日本に行き、東京に滞在しているという事実が明らかになっている。東京で日本語学校
に通い、日本語の学習に励んだという。彼の場合はモスクワ留学中にマルクス経済学を習得
していることは間違いないが、東京で河上肇の著作に親しんだことがあるかもしれない。それ
にしても薜暮橋も孫冶方もケ子恢も日本語を勉強したことがあるという事実は我々日本人に
とっては誠に興味深いものがある。
 また1983年には孫冶方の功績を記念して孫冶方経済科学賞基金委員会が設立されて84年
からこの賞の授与が開始されている。この賞は中国最高の経済学賞となっているのであるの
である。また社会科学院経済研究所を訪問した人はその玄関で孫冶方の胸像に会うことが
出来よう。

2顧准(1915.7.T−1974.12.3)  

 顧准は最近社会主義市場経済理論の創始者としての評価が高まっている経済学者である。
筆者も復旦大学日本研究中心の鄭励志理事長が京大を訪問された時に鄭先生から注目す
べき経済学者として教示して頂いたという経緯がある。顧准は字を哲雲といい、絳楓、呉絳
楓、立達、小方、懐壁の別名を持っている。彼は会計学者、経済学者、思想家、財政部門指
導幹部であった。そして彼は近年社会主義市場経済理論の先駆者として再評価する動きが
高まっている。
 彼の代表意的論文は「社会主義制度下の商品生産と価値法則の試論」(『経済研究』1957
年第3期)であり、孫冶方の後記にいうように彼の論文の発表年次は孫冶方論文より遅いけ
れども実際は顧准が先行して研究していたのである。彼の論文はスターリンが1952年の公表
した「ソ同盟における社会主義の経済的諸問題」を徹底的に批判したものである。スターリン
は、価値法則が事実上経済の統制されていない部分にのみ働くと主張する。つまりコルホー
ズ及び農民の国家に対する販売や、コルホーズ、農民、国営小売企業の市民に対する販売、
外国貿易は所有権の変更が行なわれるので商品取引であり、国営部門間で流通している財
貨は商品ではなく価値法則に従わない。そしてコルホーズ所有を徐々に国有の地位に引き上
げ、商品流通を生産物交換のシステムで置き換えることを主張した。「2つの基本的な生産部
門、国家部門とコルホーズ部門に代わって国内の全ての消費物資を処理する権限をもつ、全
てを包含する1つの生産セクターが現れる時には、商品流通とその貨幣経済とは、国民経済
の不必要な要素として消滅するだろう」と述べている。
 顧准はこのスターリンの見解を批判して例え単一の国営部門下でも価値法則は消滅しない
ことを論証したのである。この点は近代経済学の立場からは線形計画法(条件付き最大問題)
における双対問題(条件付き最小問題)として数量配分システムの下でもシャドウ・プライス(潜
在価格)が存在することが証明されているのである。なお線形計画法は第2次大戦中米国の空
軍の活動計画を作成する技術として開発されたが、創始者はダントィーグであり、その論文
1947年に公表されている。他方ソ連ではカントロヴィッチが1939年に論文「生産組織と生産計
画の数学的方法」を公表して世界最初の線形計画法の論文として評価されている。

 顧准の経歴をみてみよう。1915年7月1日に上海南市に生まれている。父親は陳文緯と言い、
江蘇省蘇州人である。1926年に著名教育家黄炎培が設立した中華職業学校に入学し、同年
その初級中学校を卒業し、次いで潘序倫(1993−85、の立信会計師事務所に見習いとして就
職している。潘序倫はコロンビア大学卒で中国では会計学宗師と称され、会計学の創始者と
評価されている。また彼は一時国民党政府主計処会計局副局長も勤めている。
 顧准は1927−40年の間、会計学者、著作家、教授、会計師として立信の柱石となっている。
具体的には立信会計師事務所主任、夜間校部主任、立信会計高級職業補習学校教師、事
務所経理員、編訳科主任、立信会計専科学校教授を歴任している。馬寅初教授が国民党政
府に追われて43年に私立重慶北碚立信会計学校教授となっていることは先に述べたが、こ
の学校も立信の学校であると思われる。意外なところに意外な関係があるものである。
 顧准の刊行物には主編『立信会計季刊』(4期)、編著『銀行会計』(商務印書館1934年)、共
著(潘序倫と)『中国政府会計制度』、『会計名辞彙訳』(中英対照)がある。更に建国後の会
計学関係の刊行物としては遺著となった『会計原理』(知識出版社1984年)がある。
 彼は1926年国立労働大学に入学している。1935年には中国共産党に入党している。1936年
には中共江蘇省臨時工作委員会が成立し、中共上海臨時工作委員会も成立しており、顧准
は、孫冶方と共に党員として所属している。そして公的には上海職業界救国会党団書記とし
て1937年7月7日の盧溝橋事変に対処して抗日活動を行い、同年8月13日の上海事変に際し
て上海職業界救亡協会書記となっている。1939年9月には上海文化界運動委員会副書記に
なっている。その委員会の書記は孫冶方であった。
 彼は1940年8月には蘇南抗日根拠地へ配転となり、新四軍に参加している。新四軍では譚
震林、李一氓、黄克誠に仕えている。1943年3月には延安の党中央党校で学習し、44年3月
には中共中央西北局委員となり、西北財政経済弁事処副主任兼政治部主任陳雲の招きで
会計訓練斑教員となっている。45年12月には利豊棉業公司総経理となり、その後蘇中区貨
管処処長、山東省工商総局副局長、山東省渤海区行行公署副主任、山東省財政庁庁長を
歴任している。
 彼は建国の1949年に華東軍政委員会財政部長、上海市財経委員会副主任、上海市財政
局局長、税務局長に任命されている。52年2月には三反運動中に解任され、6月には華東
建築工程弁公室主任に配転となっている。53年1月には国家建工部財務司司長となり、万
里代理部長によって洛陽工程局副局長に任命されている。55年9月には中共中央高級党
校にて1年学習している。当時この党校の校長は哲学者として著名な楊献珍校長であり、教
師にも人材が多かった。顧准によればこの時期の学校は黄金期にあったと語っている。彼
は普通斑にて『資本論』を読破する一方、ソ連専門家によるスターリン主義に基づく「政治経
済学教科書」講義に疑問を呈している。この疑問が論文「試論」の原材料となったと言う。
 1956年9月には顧准は中国科学院経済研究所に入所した。張勁夫中国科学院党組書記
兼院長は副所長に任命する予定であったが、本人が固辞して受けなかったのである。党校
と経済研究所において社会主義条件下の商品貨幣関係と価値について研究し、56年上半
期おいて『資本論』を通読している。56年11月に中国科学院綜合資源考察委員会副主任と
なり、51年にソ連科学院生産力配置委員会と黒龍江流域綜合調査を実施し自ら参加してい
る。この間ソ連専門家の横柄な態度に憤激して論争をしてこれが結局「反右派」と認定され
る証拠とされて、批判を受けた。この事件から見ても彼は知識人であるが、言うべきことは
言う剛直の人であったと思われる。58年5月に河北省賛皇県で監督労働を強制されて59年
3月―60年1月には河南省信陽専区商城県で労働改造を強制された。この間の事情は『商
城日記』として残されている。60年2月に下放労働が終了して北京に帰るもまたもや中国科
学院所属の清河飼養場、寧河農場にて労働させられた。
 1960年11月になって顧准は右派分子の罪名を解除され、62年5月に経済研究所に再入所
している。この時の所長は孫冶方である。彼は経済研究所で会計学研究の任務を与えられ
て『会計原理』を完成すると共に「社会主義会計の幾つかの理論問題」(内部研究報告)を報
告している。
 1965年下半期に顧准は毛沢東の発動した「四清運動」でまたしても孫冶方、張聞天と共に
批判対象となった。65年9月に再度右派分子と批判され、北京郊外房山周口店で労働改造
に従事させられている。68年4月には妻の汪壁が自殺している。彼にとっては悲惨この上な
いことであったろう。69年11月から72年にかけて彼は河南省息県の五七幹部学校に下放さ
れている。この時の事情は『息県日記』として残されている。そして栄養失調から病気になっ
て1972年に北京に戻ることが許されたが、病状は肺癌に冒されて更に悪化してついに74年
12月3日に死去している。

 彼の業績は実弟の哲学者陳敏之が編集して陸続として刊行されつつある。現在刊行され
ているものには、陳敏之・顧南九編『顧准文稿』(中国青年出版社2002年)、陳敏之・丁東編
『顧准日記』(中国青年出版社 2002年)、陳敏之・顧南九編『顧准自述』(中国青年出版社
2002年)、陳敏之・顧南九編『顧准筆記』(中国青年出版社 2002年)がある。また彼はシュ
ンペーターの『資本主義・社会主義・民主主義』、J・ロビンソンの『論文集』を翻訳しているこ
とは注目に値する。
 顧准は読書記録を残しているが、日本関係では福沢諭吉の『文明論の概略』を読んでい
るが、河上肇の著作のリストはない。またシュンペーター『資本主義・社会主義・民主主義』
を翻訳し、ギリシャの都市国家制度について研究しているところから判断すると彼は民主主
義を高く評価していたと思われる。晩年の論文「民主と最終目的」では「私の結論は、地上
には天国を建立することは出来ない。天国は徹底的幻想に過ぎない。矛盾は永遠に存在
する。故に何の最終目的もない。有るのは、ただ進歩だけである。 従って民主は進歩と相
互に結び付いたもので何らかの目的と相互に結びついたものではない。」と結論しているの
である。生涯2度も反右派の烙印を押されて批判され、ついには病に倒れた非業の死を遂
げた経済学者の叫びと感じられるのは私だけではないだろう。
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