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京大上海センターニュースレター
96号 2006215
京都大学経済学研究科上海センター

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目次

上海ワークショップの御案内

○上海センター「中国東北振興講演会」のご案内

○上海センター「比較経済改革セミナー」のご案内

   中国・上海ニュース 2.6-2.12 

水田発展史から見る古代朝鮮王朝

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京大経済学研究科21世紀COEプロジェクト、上海センター、復旦大学日本研究中心共催

上海ワークショップの御案内

京都大学から教授・院生が上海に参り、以下のようなワークショップを開催することとなりました。公開ですので、上海ご在住の方は是非参加ください。

会場 復旦大学構内日本研究中心棟

第1セッション 経済発展・社会進化とガバナンス問題(222日、午前9:30開始)

京都大学 八木紀一郎「経済発展過程におけるガバナンス問題」  

  日本研究中心 魏全平「東アジア経済発展における公的機関のガバナンス」

  京大院生 牧野邦昭「東アジアにおける社会進化論:河上肇・高田保馬を中心に」

 京大院生 吉野祐介「中国における進化論に関する一考察:ハイエクを題材として」 

第2セッション 国際政治経済学(222日、午後) 

京都大学 本山美彦「通貨バスケットの政治経済学」

日本研究中心 樊勇明「アジア通貨協力の政治経済学」

京大院生 山下裕歩「2階級成長モデルの国際モデルへの拡張」

  +中国側大学院生のプレゼンテーションもふくめ質疑応答

  福井県立大学 鄭海東

WTO体制下の国際ルールと国家利害−内国民待遇原則の含意と運用」

第3セッション 企業改革(222日、午後) 

  京都大学 下谷政弘「東アジアのコーポレートガバナンス」

  日本研究中心 張浩川「中国経済発展における中小企業のガバナンス」

  京大院生 川本真哉

「企業の投資行動と支配的株主の性質:戦前日本からのインプリケーション」

  京大院生 高田 公「中東欧諸国における銀行部門民営化について」 

  +中国側大学院生のプレゼンテーションも含め質疑応答

 

第4セッション 環境問題と環境政策(223日、午前9:00開始予定)

復旦大学 呉立波「日本の循環型経済と中国へのその示唆」

京都大学 植田和弘「中国と環境政策」

  京大院生 表 正賢「CGEモデルを用いた環境政策研究」  

  京大院生 大林 光Central Asian Gas Trades and the Russian Gas Chain

  +中国側大学院生のプレゼンテーションも含め質疑応答

全体総括会議(223日、午後) 

  日本研究中心 樊勇明

京都大学  下谷政弘

 討論

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上海センターセミナー「中国東北部振興における日本の役割」のご案内

以下のようなセミナーを企画しました。講演者はお二人とも日本語がお上手ですので、日本語でのご報告をお願いしております。

日時 2006228()2:00-

講演者

楊棟梁 南開大学日本研究院院長

 「中国東北部振興における日本の役割」

玄東日 中国延辺大学人文社会科学院副院長

    「図們江-羅津ルート開発の新しい可能性について」

会場 経済学研究科3F 311教室

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上海センター・セミナー「共産党政権下の経済改革を比較する」のご案内

開催日時 200634()13:00-17:30

会場 経済学研究科第311教室

開会挨拶    山本裕美(京都大学経済学研究科上海センター長)

会議の趣旨説明 大西 広(京都大学経済学研究科教授)

報告と討論

第T部 ラオスとベトナム(通訳あり)

「ラオスにおける経済改革の特徴について」(13:20-14:20)

    スサバンディット・インシシェンメイ(ラオス計画投資委員会国家経済調査研究所)

「ベトナムの経済改革と比べたラオス改革の特徴について」(14:20-14:40)

    ヌゲン・ノグトアン(ベトナム国立政治アカデミー専任講師)

 討論(14:40-15:15)

  休憩

第U部 キューバと中国

「キューバにおける経済改革の特徴について」(15:30-16:30)

    新藤通弘(アジア・アフリカ研究所・研究員)

「中国の経済改革と比べたキューバ改革の特徴について」(16:30-16:50)

    大西 広(京都大学経済学研究科教授)

討論(16:50-17:25)

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中国・上海ニュース 2.62.12

ヘッドライン

           世銀予測:2006年中国GDP成長率9.2%

           中国:7年間で技術5万件を1千億ドルで導入

     中国:外資系企業のR&D施設、750カ所に

     中国:1月の乗用車販売33万台超、上海GMがトップ

     福建:台湾籍大卒者と専門職を対象に初の就業交流促進会

     上海:2005年GDP成長率は11.1%

     上海:2005年海外投資額7億ドル、民間企業が半数

     上海:2005年住宅平均価格9.2%増、伸び率前年より6.6%ダウン

     四川:四川航空、台湾人パイロット8人採用

     北京:2005年自動車販売台数28%増の57万台に

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水田発展史から見る古代朝鮮王朝

大西 広

 資本主義が産業革命による機械の登場がもたらしたその後の機械=資本蓄積の時代=「工業時代」とすれば、農業革命がもたらしたものはそれ以前の狩猟採集社会=原始共産制時代と区別される「農業時代」となる。が、この「農業時代」は「奴隷制時代」と「封建制時代」として、あるいは「奴隷制時代」と「農奴制時代」として大きく二段階に区別されている。生産力の水準的格差に注目する私の歴史観からしても、こうした二段階への区別は承認されるべきであって、このことは中国の農業時代について、大西・矢野編『中国経済の数量分析』世界思想社、2003年の序論で述べたとおりである。そこでは、農具としての鉄器の普及、特に深耕を可能にした鍬の普及に重点を置いて述べた。が、この「鉄器」の重要性は鍬に限らず、水利など土木事業の点でも決定的で、そのことを考えるのにもっとも適したのは水稲栽培であると思われる。筆者はこの点と関わり、朝鮮南部地域(韓国エリア)の古代における水田の発達がもたらした影響についてしばらく考え続けている。本来この分野の研究者ではないので「仮説」の域を出ないが、この機会に述べてみたい。

 そこでその本題であるが、この問題は「水田」というものの持つ極めて特殊な、あるいは高度な技術的必要性に関わる。ある時期には水にひたされ、またある時期にはその水が退くという特殊な地域に起源を持つこの種を育てるには、まさにそうした通年の複雑な灌漑・排水の技術がなければならなかったが、この「水を引き、水を排する」という技術にとって土木技術の発展は決定的であった。

 たとえば、現代の我々の常識と異なって、完全に平らな沖積平野での水田の構築は当初非常に難しいものであった。なぜなら、「水を引く」のにその地形が適していたとしても、「水を排する」のが困難であり、これは今でも関東平野には印旛沼や渡良瀬遊水地があることからも想像できる。筆者は以前、胸まで泥につかり、小船を使いながら作業する昭和初期の新潟の農民の映像を見たことがあるが、これなども「水を排する」技術の不足状態ではいかに水田耕作が無理あるものであったかを示している。日本の場合は江戸期以来、生産力が「石」で測られたように、米作が無理な土地をも含めて強制をされてきた。逆に言うと、そうした新潟平野などはこの当時まだ無理な土地であったことになる。湿地帯を水田にするには排水の技術が一定程度に発達する必要が絶対にあった。

 実際、自然状態において湿地帯はかなり一般的なものであった。たとえば、今回ハリケーンで水浸しになったアメリカ・ニューオーリンズ付近は南北戦争時に北軍が進軍に手を焼いた地域であり、筆者自身も旅行中に立ち入ったハイウェイの道端がじゅくじゅくであるのに驚いたことがあった。また、筆者にとってのもうひとつの湿地帯の原風景は中国江南にある。地球の寒冷化によって沖積平野が形成されて以降の江南は蘇州、杭州、紹興、寧波などに見られるように水に満ちた地帯となったが、この地帯が水路と陸地に明確に区別されるようになったのは人の手が加わったからである。つまり、人の手が加わる以前の江南はどこが陸でどこが水面なのかがはっきりとしない一面の湿地帯であったと考えられるのであって、したがって、この地の農業生産力が引き上げられるのは華北より一歩遅れることとなった。土木技術の高度の発展が必要だったのであり、この意味で実は平野部においてより、山間部における水田開発が先行した。山間部で小さな川を持ち、かつなだらかな傾斜を持つ場所では一定程度段差をつければ水平な耕地を形成でき、かつ排水も簡単になる。朝鮮半島南部で最初に水田が開発されたのは洛東江や蟾津江、錦江といった傾斜の緩い大河から少し離れた山間の地においてであったが、こうした特徴は土木技術の発達の程度からもたらされたものであった。

 もうひとつ、この同じことを大河の流れる平野部の耕地化の難しさという側面から述べると次のようになる。上では「湿地帯の開墾の難しさ」をまず述べたが、通常湿地となっていない場所でも、洪水の危険のあるところにおいては河の両岸の堤防を築かなければならない。一生懸命農作物を育てても洪水で流される危険が大きければ農作業をする気になれないから、当然、耕地は堤防の外側とならざるを得ないが、問題はその堤防の高さである。堅固で高い堤防を造れるのであれば川の近くに堤防を造って平野部中の耕地面積を増やせるが、その能力がなければ両岸の堤防は相当広くとっておかねばならず、よって耕地として確保できる部分は限られてくる。つまり、堤防造成の土木技術の高低が耕地開発の程度を決めるのであって、さらに言うと当該地域の生産力を決めることになる。韓国南部の地形、特に河岸に作られた排水溝や堤防を見て感じるのは、こうした土木工事にどれだけの労力がこれまで割かれて来たかということである。

 したがって、ここ朝鮮南部=韓国地域の最初の水田は主に山間部の小さな盆地(日本で言えば町村レベルの大きさ)に形成され、そのそれぞれが最初の「国」となった。馬韓、弁韓、辰韓の「三国」も小国家の集合体でしかなく、この性格は高句麗、百済、新羅の三国時代にも引き継がれる。特に、百済と新羅に囲まれた伽耶地域には、現在の釜山市東菜区の菜山国、釜山国際空港のある金海市の南加羅国、その西方の威安の安羅国、さらに西に進んで宣寧の斯二岐国や晋州市の子他国、また北には大邱市の卓淳国といった小国が叢生し、『日本書紀』ではこれら以外にも16の国が記されている。当時の日本で言うと、後漢から金印をもらった「奴国」の規模の小国家群である。そして、この小国家群の全体が「伽耶」とか「加羅」とかといった名前で呼ばれたが(筆者が参照する井上秀雄『古代朝鮮』日本放送出版協会、1972年、その後講談社文庫で2004年再版では「倭」とも時に呼ばれたとされているが、これは通説でないらしい)、馬韓、弁韓、辰韓の「三国」と同様、単独の王を持たず、よって高句麗、百済、新羅と並ぶ国家とされなかったのである。それぞれの谷あいの小地域が自立しており、外交や戦争において以外、統一的な政治的中心を形成する必要がなかったのであり、これは当時の水田開発のスケールに対応している。

 ただし、このことは、やはりそれぞれ馬韓、辰韓を引き継いだ百済や新羅にも言えるようである。前述の井上著によると、「国」として成立をしかつ「征服王朝」として強化されていた六世紀の新羅においても政治制度としては貴族の合議制(大等制と呼ばれる)がとられており、王の権力は非常に弱いものであったと書かれている。あるいは、他方の百済にもそうした性格があったと同じく井上著は述べている。百済の王室は高句麗の始祖朱蒙の後裔と称するごとく狩猟文化ないし畑作文化を引き継いでおり、特定地域を固守する志向性が薄かったとしている。高句麗に押されるがまま、当初の首都たる南漢=慰礼城(現在の京畿道河南市)から熊津(現在の忠清南道公州市)、泗沘(現在の同道扶余)に移動していったのにもそうした特徴が現れているとされているが、ともかくこれは百済の王室の特徴であって、その下には支配下にあった農村共同体としての旧小国があったのだという。この旧小国はたとえば紀元475年の南漢城陥落に際して一部が高句麗に寝返ったことに現されているように、王室とは区別された利益を持っており、それぞれの安全と利益にとって百済王朝と高句麗王朝のどちらがマシかを判断したのだと書かれている。ともかく、この時期における稲作共同体の規模と独立性をよく理解できる。

 ただし、同著も述べるように、その後、この地域も農業技術が発達をし、またそれに応じて王朝のそれへの役割が明確になってくる。井上著では、紀元502年に新羅の智證王が州・郡の長官に命じて農業への牛耕の導入を勧めさすなどの成果を強調しているが、この「牛耕」が決定的であったのか、前記のような土木工事による耕作地の拡大がより重要であったのかについての決定的な証拠を筆者は持たない。が、百済の最初の遷都の地、公州の国立博物館の解説にある説明は筆者の仮説を支持するものとしてあった。すなわち、南漢を失い、領土を縮小させた百済は武寧王の時代、農業生産力の拡大のために錦江周辺に堤防を築いて水利施設を拡充し、よって流浪民の帰農を促したとされている。中国と同じく流浪民を多く抱えた当時の朝鮮では、領土自体は小さくとも耕地の拡大さえできれば、そこで働かせるだけの農民の確保は可能であった。ので、従来は山間にしかできなかった耕地をこうして大河川の周辺にも展開するようにし、よって農業生産力の増大を図ったのである。武寧王は熊津=公州時代の他の王と異なり、特別に丁寧な墳墓を造成された王である。この政策が成功をしたことが示唆される(ただし、井上著は沖積平野の農地化は朝鮮王朝期以降としてこの仮説を否定している)

 しかし、ここでより問題なのは、とにもかくにもこうして水稲耕作の生産力が拡大したことは、王権の強化(これには農業生産力の増大だけでなく、それに王権たるものが必要な役割を果たせたということもが含まれる)だけではなく、朝鮮半島の生産力の重心の南への移動をももたらしたことである。百済も高句麗も本来は北方出自の王室であったものが、三国間の闘いは唐との同盟の成功もあり、最後には新羅の勝利に終わり、これによって初めて朝鮮全体が農耕文明としての性格を確立することとなった。そして、この期間約260年に亘って半島の南端に位置する慶州が全国の首都となったのであった。

もちろん、統一新羅の滅亡後の首都はふたたび開城やソウルなど北方に戻ることになるが、それはこの米作農業がこの期により一層発展し、よって北方まで延伸したことの結果であると想像される。井上著も統一新羅王朝の末期には地方がふたたび相当程度に自立していたとしている。日本でも米作開始の北九州が邪馬台国の首都であったのが、大和朝廷の成立から鎌倉期、織豊期、江戸期と日本の中心が東に移動して行ったが、それと同じである。生産力の発展はこうして首都までを変更させる。

 なお、以上の仮説における最後の論点は、こうした水田の拡張にとって鉄器がどれほど重要であったのかという問題である。筆者は冒頭で述べたように農具としての鉄器の重要性を主張している関係もあり、土木事業にとっても鉄器の存在・普及は決定的ではないかと考えている。韓国で入手した資料(盧泰天『韓国古代夜勤技術史研究』学研文化社、2000)によると、百済、伽耶、新羅地域は紀元2,3世紀には鋼鉄の精錬技術を持ち、農具や武器として使っており、これは高句麗より進んでいたとされている。が、その普及や土木工事への利用がどの時期にどの程度広まったのかについての詳細はまだ分からない。読者の批判を仰ぎつつ、引き続き研究を進めて行きたい。