これまでいくつかの大学の経済学部で教えたことがある。しかしここだけは何かが違う。雰囲気がやわらかいように感じる。普通、経済学部の学生の男女比とは、京大もそうであったように5対1ぐらいが相場だろうか。しかし、私が昨年に赴任した福井県立大学の経済学部(定員200)では、なんと1対1。実際に授業に出席している学生数でみれば3分の2以上が女子学生。これには、福井県では他の大学に社会科学系の学部のないことが理由とされている。国立の福井大学には文科系の学部としては教育地域科学部だけ。いくつかの私立大学も含めて福井県の大学には経済学部も法学部もない。また文学部もない。優秀な福井の女子たちが福井県立大学の経済学部に集まってきている。しかも、九頭竜川沿いに立地するキャンパス(永平寺町)に学部は3つだけ、そのうちの1つが看護福祉学部であることもあって、広大かつ静謐なるキャンパスには女子学生ばかりが目立つ。雰囲気がやわらかいはずである。
そんな素晴らしき大学に赴任してから、はや1年数ヶ月。金沢で生まれ育った私にとって、北陸の気候はむしろ心地よい。週の前半は福井へ出向き、後半から週末にかけては関西で雑用あれこれ、というのが生活パターンとなった。愉しみは京大文学部のクラスに毎週顔を出して、平安朝から院政期にかけての日本語を勉強すること。はるか昔に生じた漢字漢文と日本語(ヤマト言葉)の出合い頭の衝突。そこに生まれ落ちたのがいわゆる「訓点語」だが、これが面白い。これを勉強するのが私の若い頃からの夢だった。訓点語学会にも加入した。こうして、週に1、2日でもdismal
science(経済学)の世界から離れて、のんびりと毎日を過ごしはじめた。庭にバラ園を作った。キッチン・ガーデンで野菜作りもはじめようとしていた。
しかし、昨年秋からの世界恐慌には面喰った。日本経済もまた大混乱に陥っていく様子を見て、やにわに「夢うつつ」の状態から醒めて経済学に舞い戻らざるをえなかった。世界恐慌のなかで日本経済が急速に変質し、持株会社を用いた大企業の経営統合が相次いだのである。市場からゲームのプレイヤーがつぎつぎと消えはじめたのである。市場原理主義の風潮が強まるなかで、持株会社は業界再編の道具として重宝され、その結果として市場は急速に寡占化の方向へ向かっていた。そこである日、緊褌一番、あらためて「持株会社原論」を書かねばと思い立ったのであり、この6月に上梓できたのが『持株会社と日本経済』(岩波書店)であった。持株会社についての書物はこれまでにも2、3のものを刊行してきたが、今回のそれは以前にも増して辛口のものとなった。眼前の日本経済の行く末を真剣に考えれば、あとになって「懺悔」や「転向」などしたくないと思ったからである。
京大経済学部を離れて、あらためて自分が勉強してきた経済学とはいったい何だったのだろうかと考えることがある。かつてとは異なって、今日の経済学はなんと味気なく、あさましいものに成り果てたことかと嘆くことがある。日本の社会や経済が、いつの間にか何だか不気味なものに変質してきたことに怖れおののくことがある。そんななかで、定年退職後の私のささやかな夢は、ただ訓点語に関する作品を何か書ければ、ということである。あるいは、どこか福井の大学にせめて文学部でも作れないものか、という次元のことである。とは言いながらも、世界経済や日本経済がさらに大変化でもするようならば、再度おっとり刀で駆けつけることになるのかも知れない。
以上が、私の「それから」である。
昨年来、会う人ごとに言われる。「悠々自適でけっこうですなあ、羨ましい」。言われるほどではないが、桜の花びらが散るその下のベンチでうたた寝したり、芝生に寝転んで上を見れば、青い空しかないというのは、何ものにも変えがたい快の経験ではあることは疑いない。冬のある日、北東の手前にある山のはるか向こうに、白い大きな山が見えたので、もしやと思って地図とコンパスで調べてみたら木曽の御岳だった。そのときは、とくに理由はないのだが感動しました。大学の西門までは宅地が迫っているが、東門を出ればもう山野である(山を一つ越えれば万博会場)。その間に開けた大きなキャンパスにいるのであるから「帰りなん、いざ田園ですわ」という返事も、それほど奇を衒ってのことではない。
とはいいながら、まだ枯れているわけではない。枯淡の境地とはまだはるかに隔たっている。京都にいたとき以上に俗物になりそう。しかも、これからしたいことは山のようにある。これまでに蓄えた情報は少なくはないと思うし、量だけでいえば人後に落ちないであろうという自負もある。これを何とか処分しないことには、この世から出て行けないような気分である。新しい娑婆の生活がまたはじまったような気分でもある。少なくともそのような気分に追いやることから、残された人生がはじまる。であるから、断じて悠々自適ではない。
西田幾多郎も田辺元も、その代表的な作品を続々と世に問うたのは退職してから以後のことである。西田は鎌倉に、田辺は軽井沢に蟄居してからのことである。私もと考える。大先達の顰に倣うとは厚かましいと嗤われそうであるが、本人はいたって真剣である。彼らは早く辞めたではないかという反論(あのころの定年は早かった)もあるが、私たちの場合、超高齢社会では彼ら以上に長生きを強いられるかもしれない。ならば、彼らを越える仕事は出来ないものか。多少滑稽であるが、そういう気分になっている。そういう気分になれることは喜んでよいことである(と、勝手に、私は思い込んでいる)。勝手だろうとは思うが、身近の人たちには、重職に就けてくださるな、それ以外のことは何でもするからとお願いをして回っている。残された時間はそれほど多くない。せいぜい10年、長ければ15年から20年くらいか。
考え方次第だろうが、第4コーナーを回ったことは疑いない。とすれば、これからの10年は全力疾走である。馬が途中でへたり込むかもしれないし、私という騎手が落馬することもないことではない。そのときはそのときで諦めたらよいのであるから、とりあえずの全力疾走には加わろう。その意味では、私はいまのところ、全力疾走もかまわないという元気な世捨て人である。10年後、落馬はしていないかもしれないが、息切れくらいはしていそうである。それも一興。
もしも3年も以上、私の著書が本屋に並ばないようなことがあれば、そのとき、私は世捨て人さえ止めているということだろう。そのときはそう考えて下さい。しかし、関心を持っていただくこともない。老兵は1人静かに舞台から退場したほうがよいのは当然です。