わたしが大学院に入学したのは、40年に亘る企業でのサラリーマン生活を終了して、かつて大学時代にわくわくして、目の前の鱗が取れたような思いをしたマルクスの思想をもう一度検証してみたい、思想的バックボーンにしていたマルクスが哀れにも地に落ちていることへの検証を試みたい、とふと思い立ち、若い諸君に混じって院試に挑戦して合格の僥倖を得たのである。時に63歳の年齢であった。
入学式では「ご父兄様は2階です」と案内されるし、生協カードの申し込みでは「お子様ご本人が署名してください」といわれるし、図書館では「先生」と呼ばれるし苦笑の連続だった。困ったのは英語のテキストを使用するゼミで若い学生や留学生の読解スピードについていくことだった。それでも老学生に対しても親切で素晴らしい先生方に恵まれて研究に夢中になった。
研究のテーマは、マルクスが『資本論』で語った「株式会社が未来社会への通過点となる、」「しかし株式会社は、詐欺師と預言者の顔を持つ」という謎のような予言である。『資本論』でもその他のマルクスの文献でも、商品、貨幣、資本、市場の廃絶を説くマルクスがこれら全てを必要とする株式会社を何故「未来社会への通過点」と述べるのか。マルクスの研究を初期の時代から順をおって研究していくと、革命家マルクスとは異なる、冷徹な科学者マルクスの新しい像が見え出してきた。マルクス自身が資本主義そのものの中に未来社会を意図せず形成していく重大な要素があると感じ、その核は株式会社のなかにある、労働者が自ら意欲的にインノベーション、改良改善をしていく可能性、しかも労働者と企業家とが協力して、アソシエーションが形成されていることである。しかも株式会社制度そのものには、剰余価値までも社会化する民主主義が込められている。ここに未来社会への通過点となる「預言者」の顔を感じ取った。これは株式会社生活40年の私の経験から充分理解できる。しかし昨今のサブプライム恐慌は、株の空売り、株格付け会社による詐欺的信用偽装、要するに株式会社制度の「詐欺師」の顔である。この謎解きを、修士課程を終えた後も在籍させていただいてほぼ10年間続けた。今回これらの研究成果を世に問う決心をして上梓したのが『マルクスの株式会社論と未来社会』(ナカニシヤ出版 2009年5月刊 328頁)である。興味のある同窓生の皆様に是非お読みいただきたいと思います。

84年に京都大学経済学部を卒業してから、早や25年が経ちました。今振り返ると、大学生活の4年間は、就職してからの25年間よりも、長かったようにさえ思います。何か社会の役に立つことができないかと思い、経済学を志したのが、高校3年生のときでした。しかし、入学後は受験勉強の反動なのか、全く勉強せず。大学には行くものの、生協や喫茶店で友達とダラダラして過ごす日々が続きました。そうした生活の転機となったのが、3年生から始まった本山美彦先生のゼミでした。ゼミでは、ケインズの「貨幣論」や「一般理論」を輪読しましたが、1文1文、とても丁寧に読み進めます。先生が考え込まれて、1時間や2時間沈黙が続くこともざらでした。内容はほとんど理解できなかったのですが、学問の深みを垣間見たような感慨があったのを覚えています。経済学を多少まじめに勉強し始めたのも、このころからです。そのきっかけとなったのは、本山ゼミへの加入と、現在京都大学経済学部で教鞭をとられている江上雅彦君との出会いがありました。江上君と共に、「ミクロ経済学」の教科書と格闘した楽しい思い出があります。
卒業後は、経済企画庁(現内閣府)に入庁し、行政、統計の作成、経済政策の立案等の仕事に携わりました。入庁5年目には、アメリカに留学し、あらためて経済学の基礎から学び直す機会を得ることができました。学部の頃には漠然と「経済学を活かした仕事ができれば」と思っていたのですが、帰国後間もなく、大学で教える機会も与えられ、経済学の教育と研究を本格的に志すようになりました。
99年には、経済企画庁を退職し、名古屋市立大学の教員として4年間勤務した後、03年から現在の学習院大学に勤務し、主に金融論、マクロ経済学という分野を研究しています。
私の主な研究対象は、金融危機の原因や帰結です。日本経済は90年代の銀行危機や昨年来の世界的金融危機などを経験してきましたから、幸か不幸か、研究対象には事欠きません。それでも、目の前の現象に振り回されることなく、困難でもできるだけ本質を見極めるよう、じっくりと考えることが大事だという姿勢は、本山先生から教えていただいたものであり、その後の私の研究生活に大いに役立っています。この場を借りて、厚く御礼申し上げますとともに、今後ともそうした姿勢を貫いていきたいと、決意を新たにしているところです。

卒業して二十年を 振り返って


私が文部科学省の研究奨学生試験に合格し、京都大学大学院経済学研究科に入ったのは2002年4月の事でした。博士と言うタイトルがなければ研究者として自分の声すら出せない韓国の社会の雰囲気の中で、留学と言うのはある意味では、当時研究者としての生活を目指していた私として仕方がない選択肢であったかも知れません。しかし、33才という少なくない歳であった私は、将来の進路に対する不安を抱えていました。いくら短い期間に博士学位を取っても39才で、そのようないい歳をして韓国に帰ってもいいのかなと言う悩みもありました。しかし、私が選択した以上これしかないだろうと考えて研究の日々を過ごした六年余りの日本での留学生活でした。とにかく研究と業績、未来の就職への不安を隠しながらの京都大学での生活でした。
京都大学経済学研究科の文世一教授のゼミで都市、交通経済学の勉強をはじめからやり直した私は大学院に入って2年で修士学位を取り、その3年後の2008年に経済学博士学位を取る事が出来ました。今振り返って見ると短い期間に学位を取る事が出来たのは、指導教官の厳しくてもていねいな指導と未来と就職への不安を考えずに研究だけに集中して心のゆとりを取り戻そうと努力した結果であると思えます。
博士学位をもらって、暗くて熾烈な就職活動の期間の後、韓国の新しい職場に来て1年近くになりました。私はソウル市政開発研究院と言う韓国の研究所で働いています。特にソウル市が抱えている交通混雑の緩和に対する政策開発や政策評価、この分野でよく言われている交通需要管理政策の研究が私の主な業務であります。
博士課程では、研究した分野が交通経済と言う分野に限られておりましたが、いざ研究所と言う組織に入ってみると研究主題の次元の広さを身にしみて感じる事になりました。博士課程ではもっぱら自分の関心分野だけを深く考え、集中的に研究する事になれていました。少なくとも1年に1つの論文を書かなければと言う負担はあったものの、今の研究のスタイルはまったく違う世界にいるような気がします。というのは、今は自分が関心がなかった分野にも研究の挑戦をしなければいけないからです。ちなみに、私の担当分野はただ交通政策だけではありません。都市産業分析、物流政策、観光政策等の研究も私の研究分野になっています。普通の研究は同時に3つ、4つが行われていますし、そのなかの2つ位は私の責任で研究が行われています。研究期間は決して長くありません。長くても六ヶ月、短い場合は3ヶ月以内に研究を済まさなければなりません。
このように忙しい毎日のなかで、私の博士課程での研究期間が、どれぐらい幸せな事であったか、京都大学での留学時代が今の忙しさに比べてどれぐらい贅沢な時であったかを改めて感じています。また、博士課程を通じていろいろ学んだ事が今の新しい挑戦への源になっていることも一番幸であると思います。