文科系人間は日頃どんなことを考えているか−−自己紹介にかえて−−
・・・・・・「北大農学部助手会報」第43/44合併号(1997年3月)より
 
 私は95年6月末に京都大学大学院経済学研究科経済政策学専攻(博士後期課程)を中退し、7月1日より農業経済学科農業市場学講座に着任しました。もちろん、経済学部では農業経済学を専攻し、研究していたからこそ今ここにいるわけですが、農業の生産現場や動植物のことをよく知らない人間が農学部で農業経済学を教えるのは多少気が引けます。

 私の研究対象は、アグリビジネスです。アグリビジネス論というのは、現代の農業・食糧をめぐる問題を、農業生産(農家経営)の次元だけではなく、「川上」の農業資材産業から、「川下」の食品流通・加工産業や外食産業に至る産業連関のなかで捉えなければならない、という問題意識から形成されてきた研究領域です。私の場合は、とくに農薬や種子などの農業資材産業−−それを構成している主体が巨大多国籍企業であるのが実態です−−をとりあげ、その延長線上で、近年のバイオテクノロジーの産業利用をめぐる問題を研究しているところです。

 私の問題意識は、農業研究・普及事業をめぐる公的機関と民間企業との関係−−一方における補完関係、他方における対抗関係−−のあり方にあります。「対抗関係」について付言しますと、多国籍企業による農と食の支配が強化されつつあるのが現状であるとすれば、それに対抗する論理は多国籍企業に対する「民主的規制」に求められるでしょう。その運動主体は、農業者であり消費者であり、自覚的な諸個人・諸団体であるわけですが、そうした運動に支えられた「民主的規制」は制度的に実体化されなければなりません。国によって条件は違ってきますが、例えば農協や生協などの協同組合であるかもしれませんし、国や地方の行政機関であるかもしれません。それらが「民主的規制」の制度的実体となりうる条件があるのか否か、あるいは制度的実体へと変革するためにはどうしたらよいのか、ということを念頭に置きつつ研究を進めています。

 これとは別に、もう少し本質論に踏み込んで考えていることがあります。一般に「生産力」というのは、科学技術に立脚した労働手段の発達によって表される「物質的生産力」のことだと理解されています。しかし、この捉え方によっては、今日の環境破壊的かつ人間破壊的な科学技術を批判する積極的論理が出てこないのではないでしょうか。反科学や反近代をベースとしたオルタナティブ論はその典型だと思います。私はむしろ、「人間と自然とのあいだの物質代謝(=生産のあり方)を人間が媒介し規制し制御する能力」と捉えたいと思います。さらに「生産」についても、たんに物財をつくりだすということではなく、「人間の生活の生産」「人間の類存在としての再生産」と捉える見地に立ちます。そうして初めて、「人間の生活」を危うくする生産力に対して批判することと、「人間の生活」を真に豊かにし、人間の類存在としての持続的再生産を可能にするような生産力を探求することとが両立できるのではないでしょうか。地球を破壊するための生産力である核兵器と、地球を保全するための生産力である様々な方策と、ともに科学技術の成果、生産力発展の成果であるあけですから。そもそも、科学技術を発展させるのも人間であれば、それを適用するのも人間です。そうである以上、生産力は量的側面、生産関係は質的側面、などという図式的理解は大きな誤りだと言わねばなりません。生産力は生産関係によって形態規定を受けるのであり、だからこそ生産関係(人間と社会のあり方)によって規制し制御することが可能であり、また、そうしなければならないのだと思います。これは上述の「民主的規制」に帰着します。

 ま、こんなことを思索しているわけです。学生時代は哲学、論理学や科学方法論といった大枠的なことしか勉強していなかったため、今となっては個別科学に疎い自分に焦りを感じています。しかし、逆に、最近の研究者は個別科学ばかり、しかも個別科学のさらに小領域の研究ばかりに勤しんで、自分の自然観、社会観、世界観といったものを鍛え上げることを軽視しすぎているのではないか、という気もします。(以下略)