2011年
5月24日(火) 「原発事故調委員長に「失敗学」の畑村東大名誉教授」
これは優れた人選であり、なかなかのブラックユーモアも感じる。私の『行動経済学』でも畑村名誉教授の研究を引き、失敗学の重要性を説いているが、原子力村の隠蔽体質の闇、原子力発電の技術開発の失敗の数々、そして今回の福島原発の度重なる人災など、原発問題ほど失敗学が解明すべき調査対象は他にはない。失敗学に源流でつながる行動経済学者として、事故調査委員会に対して心から成果に期待したい。失敗学がどうか失敗しないように。
5月21日(土) 「『次世代インターネットの経済学』誤植表」
拙著『次世代インターネットの経済学』(岩波新書)が発売されました。誤植が見つかり次第、掲載していきます。購入頂いた読者の皆さまには、感謝すると共に、お詫び申し上げます。
・ p.78 図2-6 図の差し替え (電力系事業者のFTTHシェアがおかしな表示になっていました。)
2月16日(水) 「コメント:たばこラプソディー」
2010年10月1日のたばこ増税から、4か月が経ちました。直前の買いだめ、直後の買い控えなど、消費者行動を理解する上で、大変貴重な観察事例となりました。さて、私はたばこ研究を離れていたので、その後のフォローを怠っていました。先日、久しぶりに、この問題について、新聞社からコメントを求められ、「総括」しないといけないなと思った次第です。この間、いくつかの民間調査機関がフォローアップ調査をしていたようです。そこで、我々の2010年1月調査「たばこ税引き上げに関する最新調査(2010.9.28)」(喫煙サンプル数1,643)と比較し、現状について簡単にコメントしたいと思います。
2010年10月18日の楽天リサーチ(喫煙サンプル数1,110)の調査によれば、増税を理由に禁煙を開始した人は4%、禁煙を検討している人は24%。2010年12月7日のジョンソン・エンド・ジョンソン株式会社の調査(喫煙サンプル数316)によれば、増税前に禁煙意志を持っていた人は58%、実際に禁煙にチャレンジした人は36%とのことでした。結論から言えば、両社の調査結果ともに、おおむね妥当なものです。
私の研究チームが2010年1月に行った調査では、タバコ増税論をきっかけに禁煙を検討するかという問に52%が「する」と回答しました。より精緻なコンジョイント分析によれば、400円で25%、500円で41%、600円で62%、700円で81%、800円で92%が禁煙を検討すると弾き出されています。たばこ1箱440円ならば禁煙検討率は31%です。この数字は楽天リサーチ(28%)、ジョンソン・エンド・ジョンソン(36%)の中間的な水準となっています。
面白いのが、楽天リサーチによれば、喫煙者の65%が平均2か月分の買いだめをしたこと。買いだめと買い控えの短期的攪乱要因を均して考えないと、本当の禁煙効果、増税効果が出てきません。したがって、来年2011年度になって、今般のたばこ増税の社会的効果が初めて明らかになることでしょう。また、ジョンソン・エンド・ジョンソンによれば、禁煙挑戦者のうち、既に57%が禁煙に失敗したとのこと。禁煙成功率は、禁煙の定義に依存します。まだ肉体的なニコチン依存の残る1週間中に、多くの禁煙者が失敗します。したがって、我々は研究するとき、禁煙開始1週間未満の禁煙者を区別して考えます。1週間の山場を超えた人に限れば、50%以上が半年程度の禁煙に成功していると言われます。そう考えると、短期禁煙者も含んだジョンソン・エンド・ジョンソンの禁煙継続率43%は決して悪い数字ではありません。
たばこ増税には、相反する2つの目的があります。一つは喫煙率を大幅に下げること。これは、私たちの研究でも明らかなように、大幅に喫煙率を引き下げるためには、たばこを1箱600〜700円程度まで引き上げる必要があります。今回のたばこ増税は一つのマイルストーンとして、数年後に今一度、大きなたばこ増税が必要になるでしょう。私は毎年、たばこ増税をする必要はないと思います。喫煙者の方に、ゆっくりと身の振り方を考える時間を与えてやってもよいのではないでしょうか。(そもそも、その前に、正々堂々と、日本政府はたばこ事業法の目的改正をするべきです。)
もう一つは、たばこ増税に伴う税収の増減です。今回の喫煙率の推移から、私たちの研究のシミュレーション前提がおおよそ有効なことがわかりました。したがって、禁煙成功率50%を前提とした計算結果である5千億円〜1兆円程度の増収効果が成り立つと考えています。したがって、一時的ですが、たばこ税収は現在の2兆円水準から3兆円水準まで増えるでしょう。たばこ価格を600円程度に値上げた場合でも、禁煙成功率が劇的に上昇しない限り、ほぼ3兆円水準に留まると考えられます。ただし、その場合、ごく少数の(絶対に止めたくないあるいは止めたくても止められない)喫煙者だけが狙い撃ちされたたばこ税政策ということになります。(私はたばこを吸いませんが、そこまで喫煙者に納税負担を要求するのが良いのかどうかは議論の余地があります。自動車事故による社会的損失の方が数字的には大きいと考えられますから、飲酒運転禁止装置を義務付けた方が良いでしょう。)
1月10日(月) 「来し方10年、行く末10年」
2001年前回の英国在外研究から、2011年今回の米国在外研究まで、丁度10年である。研究プロジェクトを5年刻みで立てているが、前半の5年はブロードバンド研究、後半の5年は行動経済学研究に取り組んだ。これまでの10年間、国際学術雑誌に多くの論文を掲載すること、研究成果をまとめて英書を出版すること、研究成果を分かりやすく新書にすることという3つの目標を立てた。最低限のことは達成できた。
さて、これからの10年。既に、学内外での諸業務は忙しく、日中に研究できる自由時間はなかなかとれなくなっている。だからといって、研究を放擲するには早すぎる。これからは少しずつ量から質へ研究の目標をシフトさせたい。もっとも質は量の先にあるもので、質を高めるのは容易でない。ブロードバンドと行動経済学の研究の総合として、スマートグリッド・エコノミクスを考えている。今までのように5年では片が付かない大テーマである。研究設計の段階で、トップジャーナルでも耐えうるような作り込みが必要である。
在外研究から帰ってきた後は、今まで以上にマネージメントの仕事が忙しくなるだろう。50代前半は学部運営でほとんどの時間が費やされる可能性が高い。今、諸データを見ると、京大の経済学研究は、経済研究所と合わせてだが、ジャーナル論文出版でいうと国内トップに躍り出た(注)。この5年間の競争的人事政策の成果である。このトレンドを強固なものとし、国際的な競争力を一層高めたい。研究大学では、結局、教員が国際的な研究業績を出し続ければ、職場の雰囲気は粛然と治まり、院生クラスは思った以上に教員の業績の多寡に敏感なので、教育面でもよい意味のスピルオーバーが期待できる。
10年後、さすがに第一線での研究力の維持は難しいかもしれない。学者としては、一番辛い決断をしなければならない。京大教員には2タイプある。京大にすがりつく教員と京大が離そうとしない教員である。比率で言えば前者が8割、後者が2割。その時点で自分がどちらのタイプになっているか分からないが、次の10年の身の振り方をじっくり考えたい。
注:日本の主要大学の研究水準資料
2010年
10月29日(金) 「サムライはどこにいる」
持ち前の直情径行で、学生時代はあちらこちらで角にぶつかり、こぶの一つ、二つを絶えずこさえていた。そんな私が人並みの姿でいられるのも、何人もの恩師が口やかましいことは申さず、長い目で見守ってくれたからである。恩師の有り難みは、自分が師の立場になって初めて分かった。
伊東光晴先生を初めて見たのは、入学式の茶話会だった。聞きしに勝る毒舌で立て板に水の如き弁舌は、異次元の体験としか言いようがない。当時、一世を風靡したニューアカの旗手・浅田彰先生が、どういった理由か、伊東とは同席したくないと、教室の外の廊下でふてくされていたのが懐かしい。この御仁と論争し、勝てるようになれば、言論界の国士無双と勝手に思い定め、毎週、ゼミ毎に論争を挑んでは返り討ちにあった。しかし、日頃、20キロの鉛をつけてトレーニングしたように、無駄な論争力だけは身についた。
自分の論争力に驚いた出来事があった。大学院生時代、新設の学術振興会特別研究員DC1に応募したときのこと。テーマは「リスクと真の不確実性」。主査は仕事柄、意地悪な質問をぶつけてくる。こちらも必死で受け答えし、つい勢い余って、返す刀で主査の研究の批判にまで及び、ぐうの音も出ないまでにやり込めてしまった。大人となった今では反省している。
路傍の大学院生がその道の大家をやり込めたるは希に見る痛快事とて、学術振興会顧問だった伊東先生から長尾真・京大総長へ面白可笑しく伝えられた。長尾総長は、神主然とした顔で「経済学部にはサムライがいますな」と答えたという。この話が尾びれ付きで学術振興会に戻され、「サムライ」というあだ名がついた。
ちなみに、主査は個人的感情抜きで、最高点を下さり、私は無事にDC1に採用された。仕送りなしでやり繰りしていた大学院生にとって、あれほど有り難いことはなかった。20年たった今春、そのテーマで学術振興会賞をもらったことを思えば、人生の綾とでも言えようか。
ひるがえって、私自身が教壇に立ち、今の京大生を見ると不満だらけである。気概がない。常識がない。知識がない。小学生から送迎車付きで塾通いし、中高一貫校で無菌培養され、大学に入学してくるからだろうか。
私はここ数年、思うところあり、母校の長岡高校から遠く京大に入学した学生の歓迎会を催している。幕末、武装中立を唱えながら容れられず、数万余の新政府軍を一手に引き受け戦い、維新では賊軍として塗炭の苦しみに耐えながら、米百俵で学校を建てた歴史がある。
今年の歓迎会の途中、初めて見る顔が入ってきた。今年から大学院に上がったという。容貌魁偉、論旨明快。元オリックスのパンチ佐藤に似た肉食系は、一瞥するにありきたりの京大生と異なる。興味を持って、根掘り葉掘り聞いた。
高校時代は特別選抜の理数科に所属しながら、剣道三昧の生活を送ったという。剣道部生活は順風ではなく、あまりの厳しさに今日は辞めよう、明日は辞めようと思いながら、名物顧問の人間力に感化され、とうとう最後までやり通した。京大志望でも、模擬試験でD以外の判定をとったことはないが、不思議と進路指導は京大受験を認めてくれたという。剣道部の苦しさに比べれば、受験勉強など軽いものと勝手に達観し、最後は2点だけ最低点を上回り、何とか京大工学部に潜り込んだ。
その男が入学後に選んだのが、母子家庭の子弟と遊んだり勉強を教えたりするサークルだった。母子家庭が直面する今の社会的、経済的苦境はお分かりだろう。決して学生のお遊びではつとまらない。男は答えた。「大変でしたが、子供たちからは、沢山勉強させてもらいました」。やられた。ここで「勉強させてもらいました」と来るか。
万感胸に迫り、私はただ思った。「ああ、ここにサムライがいる」。その時の幸せな余韻は、今なお続いている。京大生もまだ捨てたものではない。(京都大学広報「洛書」2010.11月号)
4月22日(木) 「『行動経済学』(中公新書)の訂正2点」
2010年2月25日に中公新書から出版した『行動経済学』ですが、誤り・タイポの指摘を頂戴しています。
(1) 第2版に間に合ったものは一部訂正しています。内容にかかわる大きな訂正は、218ページBOX6-2です。
(誤) 独立性公理とは、(X,p;Y1-p)〜(X,q;Y,1-q)⇔(X,p;Y,1-p)〜(X,q;Y,1-q)として表される。・・・(中略)・・・しかし、実際には、(X,p;Y1-p)〜(X,q;Y,1-q)にもかかわらず、(X,p;Y,1-p)<(X,q;Y,1-q)という記述的合理性がよく観察される。
(正) 独立性公理とは、(X,p;Y1-p)〜(X,q;Y,1-q)⇔(X,cp;Y,c(1-p))〜(X,cq;Y,c(1-q))として表される。・・・(中略)・・・しかし、実際には、(X,p;Y1-p)〜(X,q;Y,1-q)にもかかわらず、(X,cp;Y,c(1-p))<(X,cq;Y,c(1-q))という記述的合理性がよく観察される。(コピーペースとした時に定数cを付け忘れました。)
(2) また、「週刊ダイヤモンド」4月17日号書評で、若田部昌澄早稲田大学教授が指摘されたように、53ページで言及したジョン・ローは、正しくはジョン・レー(John Rae, 1796- 1872)でした。こちらは、今日知ったので第2版現在、まだ訂正されていません。(同じスコットランドの大政治経済学者ジョン・ロー(John Law,1671 - 1729年)と混同しました。)
以上、お詫びと訂正でした。指摘くださった方々にお礼申しあげます。
2009年
7月15日(水) 「新書を書くー行動経済学編ー」
10年かけて取組んできた行動経済学、情報通信経済学の研究が一段落立ちました。両方の研究成果を一般に分かりやすく伝えるために新書を書こうと思います。「第一線の学者はその知的格闘が伝わるように書かねばならない」と言ったのは東京商大教授杉本栄一らしいのですが、師・伊東光晴、先輩・根井雅弘から教わった言葉です。第一弾は行動経済学です。ここでは「あとがき」を掲載します。
面白いエピソードがある。私の恩師はケインズ経済学の研究者である伊東光晴先生である。伊東先生は私が大学院進学と同時に定年退職されることが決まっていた。そこで、大学院時代の指導教授を選ばないといけない。伊東ゼミからは私を含めて3人が大学院に進学することになっていた。伊東ゼミの大学院進学者は、経済学史の碩学にお世話になる慣行があった。
私を除いた2人は早々にその方向で進路が決まった。ところが、伊東先生は私の方を向いてのたまった。「依田君は先生を選びなさい。」翌週、私はケインズ経済学者の名前を持ち出した。伊東先生は小首をかしげて黙りこみ、やがてのたまった。「依田君は先生を選びなさい。」その翌週、私はマクロ経済学者の名前を持ちだした。同じことが繰り返された。
若かりし私は腹を立てた。大学院生の先輩だった根井雅弘さん(現京大教授)に、「私は自分のやりたい研究が出来ればいいのだ。指導教授などだれでも良いのだ。だれなら伊東先生は納得するのか。」全くもって若気の至りである。今、同じことを私の大学院生が言おうものなら、私の雷が落ちるだろう。
根井さんは静かに諭された。「伊東先生は、依田君に西村周三教授の所に行って欲しいのですよ。」学部4年間、教室に通ったことのない自学自習の悪い見本は、西村周三という先生の名前を全く知らなかった。しかし、この際、そんなことはどうでも良い。
その翌週、西村周三教授の名前を持ちだした。伊東先生はしたりという顔をして、「依田君がそういうならば、私の方から西村君にはよく話をしておこう。」その翌週、伊東先生は私の顔を見ると、嬉しそうに言った。「西村君には、私の方からよく言っておいたから大丈夫。」私は聞き流したが、今思えば、伊東先生が西村先生に何をよく言っておいたのか判るような気がして、冷や汗が出る。
西村先生はフレンドリーな先生だった。一部の筋が予想したようなクラッシュは決して起こらなかった。最初は教授と大学院生として、次に教授と助教授として、最後に副学長と教授として。人間通の伊東先生の慧眼だろう。
話を戻そう。初めてうかがった西村研究室で、私は不確実性の研究に献身したいこと、物理学の世界で量子力学がもたらした認知革命が経済学の分野でも必要なことを説いた。西村先生は達人のようなところがある。受けるのではなく流すのである。おもむろに本棚から黄色の表紙の英文学術雑誌を引き抜いて、私の目の前に差し出した。雑誌にはJournal of Economic Psychologyと書いてあった。西村先生はこう言った。「米国では、経済心理学という新しい学問分野がおこりつつある。人はなぜ誤るのか。それが僕のライフテーマです。」
こうして、恐らく日本最初の経済心理学のクラスが、京大で一人の先生と一人の学生によって始まった。今私が引き継いでいる講義はそれである。2009年3月、定年を迎えた西村教授は京都大学経済学研究科・経済学部の最終講義を行った。私はJournal of Economic Psychologyに掲載された自分の名前を見つつも思い出す。あれから20年の歳月が流れた。
4月5日(日) 「経済学者であるということ」
京都大学に赴任して9年になる。学部から大学院まで足かけ8年、私の研究室に在籍した黒田敏史君がついに巣立つ。良くも悪くも黒田君抜きの依田研究室は考えられないくらいの存在感があった。その彼が、今春、念願の博士号(経済学)を取得し、晴れて東京経済大学経済学部の専任講師として赴任した。彼は既に共著で国際学術雑誌に2篇の論文発表があり、彼自身の研究発表は遅れていたが、昨年国内学術雑誌から単著論文が出版された。まぎれもない「経済学者」の誕生である。
他方で、世間における「経済学者」の響きの軽いこと。先日、窃盗容疑で書類送検された高橋洋一さん、以前、迷惑防止条例違反で逮捕された植草一秀さんも、「経済学者」らしい。少なくとも、この二人は、大学院経済学研究科で所定の期間学修し、経済学に関連する博士学位号を取得した形跡はない。大臣職を歴任した竹中平蔵さんも、世間では「経済学者」らしい。確かに、竹中さんは大阪大学で論文博士という日本独特の制度を利用して経済学博士号を取得している。もっとも、そこに至るまでに起こした同僚の研究成果の剽窃も含めた学位取得運動の浅ましさは今でも語りぐさになっている。もちろん、この3人には専門家のレビューに基づく経済学の研究業績となると一片のかけらもない。
正真正銘の「経済学者」になるということは本当に大変である。指導する側も、される側も、人生そのものを天秤にかけるという一大リスクを背負う。黒田君は日本の現在の情報通信経済学者としては既に5本の指に入る実力を兼ね備えているが、これでようやく長い学者人生のスタートラインに立ったばかりなのである。就職に安心し、わずかでも隙を見せれば、それほど器用ではないだけに、あっという間に埋没し、いたずらに年を重ねかねない。その時、大学から給料をもらう教授・准教授のたぐいではあっても、現役の「経済学者」とは言えなくなる。
リアルに「経済学者」であることと、世間的に「経済学者」であることは、かようなまでに格差がある。以上、我が弟子である黒田君に対するはなむけと、世の中に対する警鐘として、ここに記す。
2008年
11月9日(日) 「My recently favorite film makers」
日曜祝日もなく研究室にこもる仕事マニアであるが、昔から残った数少ない趣味が映画である。深夜・休日の研究室で、パソコンの右上に10インチ程度の大きさで、BGMのようにかけっぱなしにする。自然と聞き取りやすい日本映画中心になる。A級からB級、古典から流行までジャンルを問わない。お気に入りの映画監督は古いところでは黒木和雄。古い映画ファンなら「祭りの準備」「竜馬暗殺」の鮮烈を覚えているだろう。私にはむしろ「TOMORROW明日」「美しい夏キリシマ」「父と暮せば」戦争レクイエム3部作が懐かしい。小津映画の駄洒落のような「紙屋悦子の青春」が遺作になってしまったのも黒木らしいお茶目だ。後期黒木映画の特徴は際だった日本語の美しさだ。小津映画と相似たものを感じるのは私だけだろうか。映画史上、黒木和雄は岡本喜八と並んで不思議なポジションを占めている。
現役の映画監督で言えば、是枝裕和や佐々部清だろうか。是枝は「誰も知らない」で主演男優がカンヌの受賞をしたので一躍著名になったが、私としては「ワンダフルライフ」のプリミティブな優しさに好感を持った。「花よりもなほ」は時代劇で意表を突かれたが、実にしゃれていて面白かった。佐々部清は一見するところ、作品間の一貫性がない。にもかかわらず、完成度の高さは共通している。レンタルの時いちいち監督名を確認しないのだが、良質な心残り感から監督名を確認すると、えてして佐々部なのでいつもやられたと思う。
黒木、是枝、佐々部らを共通する特徴を一言で言えば、「静謐さ」だろうか。映画でバイオレンスやエログロを売り物にするのは実に簡単だが、静謐さを売り物にするのは非常に難しい。よほどの力量だ。諸外国でもビクトル・エリセとか、タビアーニ兄弟とか、決して数は多くない。以上、落ちのない無駄話である。
7月27日(日) 「オープンキャンパス用インタビュー記事」
京都大学経済学部経済学科3回弘中孝明君がオープンキャンパス用インタビュー記事をまとめてくれました。口調が少々偉そうなのですが、そこはご容赦下さい。閲覧はコチラ。
6月23日(月) 「たばこ1000円問題に関する私の考え」
新聞、テレビ等で報道されましたたばこ1000円の税収効果の試算結果について、多数の問い合わせがあります。以下、Voice10月号の一部を抜粋して、掲載しますので、ご閲覧下さい。
「たばこが1000円になれば、現在の喫煙者のほとんどが禁煙を決意し、過半は禁煙に成功する。多くの人が禁煙する結果として、大幅な税収増加は望めない。さらに言えば、身体的・精神的依存のためにどうしてもたばこを止められない人にとっては、税金というよりは経済的懲罰となろう。たばこが大きな社会的損失をもたらしているのは間違いない。英米の調査によれば、喫煙者は非喫煙者に比べて、全死亡のリスクは35~69歳の中年期では約3倍、70~79歳では約2倍、80歳以上でも1より大きく、10代に喫煙を開始した喫煙者の約半分がたばこのために命を落とすという。日本の喫煙の社会的損失の推計は、医療費損失だけで1兆3千億円、これに入院による損失・死亡による損失・火災による財産損失を加えると、年間、約4兆9千億円に達するという報告もある。現在の喫煙者が禁煙することの真の便益は、こうした喫煙の社会的損失をなくすることにあることを強調したい。
しかし、現在の喫煙者の多くは日本が比較的喫煙習慣に寛容であった時代にたばこを吸い始めている。現在のたばこ税引き上げ論は最近の喫煙習慣に対する社会的態度の変化を受けたものであることは確かだが、1年、2年内に手のひらを返したように懲罰的税金を導入することはいかがなものだろうか。現在の喫煙者に対して、将来の引き上げに対する予見性を高め、例えば毎年30円ずつ引き上げ、10年、20年のタイムスパンで諸外国のたばこ価格に肩を並べるようにしたらどうだろうか。身体的・肉体的ニコチン依存のために、どうしてもたばこを止められない人もいる。そうした喫煙者は一種の病気である。少しずつたばこ税を引き上げるならば、当面の間、税収増加も見込まれるから、病的な喫煙者に対するケアを提供することも財政的に可能だろう。要するに、長期的な視点から、高いお金を払ってまで喫煙習慣を続けるのかどうか、喫煙者に選択の自由を与えるべきである。」(Voice10月号原稿から一部抜粋 2008年9月10日)
2006年
4月6日(木) 「経済心理学:古くて新しいチャレンジ」
近年、私の研究活動はもっぱらネットワーク産業、とりわけブロードバンド産業の経済分析に注がれてきた。手がけたテーマをざっと数え上げると、2003年、ブローバンドの入れ子ロジット・モデル分析、ブロードバンドのコンジョイント分析、2004年、携帯電話のミックスド・ロジット・モデル分析、IP電話のコンジョイント分析、2005年、FTTHのコンジョイント分析、FTTHマイグレーションのミックスド・ロジット・モデル分析、FMCのミックスド・ロジット・モデル分析など。その中のいくつかは既に国際学術雑誌に掲載されたか、掲載される予定である。まずまず満足のいく結果だったと言って良いのではないか(Journal of Regulatory Economicsに掲載された論文は、2006年4月現在同雑誌のMost viewed articlesの第一位にランクされている)。欲を言えばきりがないのだが。
にもかかわらず、私のブロードバンド研究はそろそろ潮時である。世界に先駆けて、母国・日本でブロードバンド・サービス市場が立ち上がったのは、私の手の届かないところの幸運であった。全く未知の新しいことは米国で始まることが普通で、日本の経済学者はそれを指をくわえて眺めているしかないものである。だから、幸運にあまりしがみつかない方が良かろう。また、私の一連の研究の多くは総務省競争評価プロジェクトの一環であり、データ収集や分析結果のお墨付きに関して、有利であったことも否めない。私の研究室が日本のブロードバンド研究を独占しているような感があり、日本の情報通信経済研究としては、もっと広い裾野があった方がよい。テーマ変更の一番の理由は、個人的な燃焼感である。ブロードバンド経済学の分野でやるべきことはやった。これからはもっと精緻化する作業が残されている。ただし、同じ人間がやったのでは、どうしても反復作業になる。後進に期待しよう。
では、次に何をやるのか。第一候補は、経済心理学である。思えば、時間選好、危険選好は、15年前、私が大学院に入学して初めて取組んだテーマである。その時はもっぱら理論的アプローチであり、期待効用理論に取って代わるような意思決定理論の構築の夢はついぞ叶わず挫折した。その後、ネットワーク・エコノミクスに鞍替えしたわけであるが、思いもかけず、経済心理学がノーベル経済学賞の受賞分野になり、経済心理学(最近は行動経済学というが)ブームが到来した。私はそれをとても複雑な思いで受け止めた。しかし、この15年間は無駄ではなかった。今は計量経済分析に関しては腕に自信がある。かなり遅い再参入にはなるが、従来とは異なる斬新な経済心理学研究ができそうだ。
ただし、道は険しい。経済心理学の分野は、近い将来、ニューロイメージングを使って、脳機能の解明まで踏み込まなければ、おそらく科学的研究として評価されなくなるだろう。かって、衝動的とみなされた近視眼的行動が最近は感情をつかさどる大脳辺縁系の活動によるものではないかと考えられるようになった。人間の理性的な計画はもっぱら大脳新皮質の前頭連合野の部分でコントロールされる。従って、人間の脳の中では人間脳(前頭連合野)と動物脳(大脳辺縁系)が葛藤することがあり(Inner-manual Confrictsと呼ばれる)、それが経済学的なアノマリー(不規則性)を生んでいるのかもしれない。20世紀経済学の成功は、行動主義、つまり効用の中身は不問に付し、合理性の仮定に拠って、観察データを敷衍させるというアプローチによるところが大きい。脳の中身を探るということは、20世紀経済学の遺産を捨てかねない危険な賭けである。なぜならば、脳機能が判れば、消費者経済理論が設定してきた合理性の仮定を置くことの根拠が崩れるかもしれないからである。既にパンドラの箱は開けられたのかもしれない。しかし、そこには、きっと「希望」が残されていることだろう。
2005年
9月11日(日) 「ブロードバンド研究事始」
私の現在の研究テーマはブロードバンドの実証研究である。固定・移動共に日本のブロードバンドが世界の先頭を走る。国際電気通信連合によれば、日本の固定系ブロードバンドの100kbpsあたりの価格は$0.09で、米国の$3.53等に比べ世界で一番低い。さらに特筆すべきは光ファイバ通信(FTTH)が世界で始めて普及し、300万契約を突破した。携帯電話も同様である。NTT DoCoMoが1999年にモバイル・インターネット、2001年に3G携帯電話を始めた。従って情報通信経済学の分野では日本で最初なら世界でも最初になれる。もっとも複雑な産業であるから容易には参入できず、実証にあたってはゼロからデータを作り込む必要がある。決して楽な仕事ではない。
現時点で研究はまずまず順調で海外からの依頼も増えた[1][2]。しかし実体は釣った魚がたまたま大物で背びれにしがみついているようなものだ。もちろん何度もボラを引いた。この分野の研究を始めた時はゲーム理論的アプローチだった。しかし新参者にはLaffont&Tiroleの先行研究に付いていくだけで手一杯。今でもネット産業の内生的構造決定に関する理論研究に取組むが[3]、年を重ねた速球投手が変化球を覚えるように、私も実証研究を始めた。電話・電力・鉄道など個別産業の費用関数を推定した[4]。産業の数だけ論文の数は増えたが高揚感は得られなかった。文科省在外研究時にはすっかり行き詰まり、美しいケム川を歩きながら途方に暮れた。あれやこれや試すがものにはならない。最後は半分自棄で個別産業ではなく産業融合を、費用関数ではなく需要関数をテーマに決めた。苦労もあったが幸運にも恵まれた。程なく日本でブロードバンドの爆発的普及に火が付いた。どこで聞きつけたのか総務省・経済産業省から共同研究の申し出があった。今夏3年ぶりにケンブリッジを訪問し、今までの研究成果を日・英で本にまとめている。
さて研究内容を紹介しよう。固定系ブロードバンドでは、ダイアルアップ、ISDN、ADSL、CATV、FTTHといったインターネット接続サービスがある。これらのサービスの選択を被説明変数に見立て、その選択確率に価格や通信速度などが与える効果を計量経済分析した[5]。モデルは選択肢のカテゴリ上の区分けが可能な入れ子ロジット・モデルを用いた。その結果ナローバンド(前二者)とブロードバンド(後三者)の間にカテゴリ上の区分けが存在し、ブロードバンドの中でも成熟期を迎えたADSLは価格に関して非弾力的、急伸中のFTTHは価格に関して弾力的であることなどが判った。これらの発見はインターネット市場の重層構造を簡単に表現し、市場シェア算定のためのインターネット接続市場画定の判断基準を与えてくれる。こうした計量分析が総務省『有効競争評価』の判断材料にも利用されている。現在では研究対象を広げ、IP電話や携帯電話も取扱い、推定にはより洗練されたミックスド・ロジット・モデルも適宜利用している[6][7]。しかし経済は「生もの」である。今の先端産業もやがては時代遅れになる。また米国もブロードバンドで立ち後れたが、やがて追いつき追い越して来るだろう。私の研究など所詮賞味期間5年と卑下する気持ちが湧いてくることもある。ただ目下の勤めに頑張らない者に運命の女神は次も微笑んではくれないだろうと500年の時を刻む大聖堂を通り抜ける時に自分に言い聞かせる。(21世紀COEニュースレターNo.8「やさしい先端経済分析」から)
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[1] Ida, T. (2006) "The Broadband Market in Japan," R.Taplin & S.Wakui eds. Japanese Telecommunications Market and Policy in Transition, Routledge.
[2] Ida, T. (2006) "Broadband, Information Society, and National System in Japan," M.Fransman ed. Global Broadband Battles, Stanford UP.
[3] Ida, T. (2005) "Analysis of Internet Topology with a Three-Components Model," Managerial and Decision Economics 26.
[4] Ida, T. & S.Asai (2005) "The Regional Cost Gap of the Japanese Local Telecommunications Services," Papers in Regional Science 84.
[5] Ida, T. & T.Kuroda (2006) "Discrete Choice Analysis of Demand for Broadband in Japan," Journal of Regulatory Economics 29.
[6] Ida, T.,S. Kinoshita, & M. Sato (2006) “Conjoint Analysis of Demand for IP Telephony: A Case in Japan,” Applied Economics, forthcoming.
[7] Ida, T. & T. Kuroda (2005) “Discrete Choice Model Analysis of Demand for Mobile Telephone Service in Japan,” Kyoto Univ. CAEA COE21 Discussion Paper.
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3月18日(金) 「ポツダム日記」
3月13-15日に開催されるEURO CPR 2005の報告で4泊6日という非常にタイトなスケジュールでドイツ・ベルリン近郊のポツダムを訪問した。EUROとは言うまでもなくヨーロッパのことであり、CPRとはCommunication Policy Researchのことである。このコンファレンスはヨーロッパの通信政策の主導的立場の人が議論するために、メンバーを100名以内に限定し、毎年3月に開催されてきた。中央大学の直江重彦先生(京大に2年間赴任し、私の情報通信の分野での恩師でもある)の推薦で、私の論文が採択され、日本のブロードバンドの計量分析について報告することになったわけである。
海外経験が豊富というわけではないが、貧困というわけでもない。過去に米国、英国に長期滞在しているし、今夏は英国で再度滞在する予定である。しかし、旅行のための旅行をしない私にとって、大陸ヨーロッパは初めての経験であるし、何しろ「ポツダム」という地名は我々日本人にとっては重苦しい印象を与える。実際、3月中旬のベルリンは日本でいえば青森並みの寒さであった。私の懸念は、「日本の成功?」をどのように彼らに伝えればよいのか、彼らが素直に受け止めてくれるのかにあった。さらに、私の懸念が深まったのは、大会初日のオープンセッションから、「情報社会は幻想だ」という懐疑的な立場の招待講演者に対して、「日本、韓国のBBの成功に見習え」という反論が相次ぎ、ヨーロッパ情報社会に対する懐疑派と肯定派の間で私の立場はますます微妙なものになっていった。
私の報告は大会初日の午後3時という最も注目度の高い時間に割り当てられていた。過去に海外で小さな報告は何回もこなしているが、こうした主役級の割当は正直言って初めてだ。ただ、報告論文の計量経済分析的内容はすでに完成された論文からの引用であるし、図表を豊富に利用し、前後には日本のBBの成功要因と今後の課題を十分にわかりやすく書き下ろした資料を用意していたので、今更じたばたすることはなかった。もっとも25分の報告に対して実に30分もの討論時間が割かれていたので(普通は10分程度だろう)、報告した後に報告時間以上の英語の討論が待っていると思うと正直鬱陶しかった。
報告自体は成功だったと言えよう。先ず、25分の割当に対して24分50秒で私の報告は美しく完了した。(長すぎたり短すぎたりする報告が、内容に関係なく、いかに聴衆の顰蹙を買うかよく知っているので、常に前後1分以内に収まるように留意しているが、今回は入念に飛行機でストップウォッチ付きで5回ほど練習しておいた。)この正確な報告時間はチェアマンと観衆の賞賛を集めた。次に、内容も日本のBBの進んだ実態(質的に世界で圧倒的にNo.1)は聴衆に相当の刺激を与えた。ただし、日本のBBの成功を、我が国の産業政策の強力な後押しとみたスカンジナビア系の諸国と自国の旧態依然とした現状に対する挑発とみた英独のような大国とでは、後で判ったように、私の報告に対する賞賛と拒絶という二つの形ではっきり分かれた。
私にも非がある。自分の学術的な報告が終わった後、あらかじめ口頭スピーチをさらに用意し、未だBBへの道筋さえ立たない彼らからみれば、大々的な挑戦状をたたきつけた形になったからだ。
第一にこのように自問自答する。地方に光ファイバ・インフラを敷設することは費用が高いので、無駄であるという意見がある。この意見は誤りである。確かに地方部で光ファイバを敷設することは巨大な金額がかかる。しかし、古い公衆回線型電話網を維持することも非常に高費用である。光ファイバといえども、管路・電柱などは電話網敷設時の設備を原則継承できるので、今の電話網の減価消却時にもう一度銅線を引くのか、新たに光ファイバを引くのかの違いで、全く新しく更地にネットワークを引くのではない。一度光ファイバが引かれてしまえば、維持管理の費用は光ファイバの方が安いとNTTも認めている。一番高いのは、同じ時期、同じ地域で、無計画に電話網と光ファイバ網を両方とも混在して所有することである。であるから、日本政府はしかるべき時期(私は2015年を主張した)までに全家庭に光ファイバを敷設することを公約とし、速やかに計画的に電話網を光ファイバ網に置換するべきであり、地方政府を通じて需要を集約し、また過疎地への補助金をもっと積極的に支払うべきであると結論した。
第二にこのように自問自答する。地方ではそもそも光ファイバに対する需要がないだろうから、地方に光ファイバを敷設する必要はないという意見がある。この意見も誤りである。確かに、地方の高齢者が今更パソコンの操作を覚えて、ネット閲覧を楽しむことはないだろう。しかし、BBは現行の高速インターネットではない。光BBがつながるべきものはテレビである。日本では2011年までに地上アナログ放送を廃止し、地上デジタル放送に置き換える計画があるが、最後の山間僻地まで直進性の高い電波を行き渡らせることは事実上不可能であり、今のままでは日本政府の責任問題に発展することは必至である。光ファイバこそ山間過疎地に地上デジタルを行き渡らせるのに最も適している。高速インターネットやIP電話はいわばそのおまけである。単身高齢者世帯にこそ光ファイバが必要である。例えば雪国の冬は厳しい。道路交通が完全に麻痺する。そうした方々にこそ光ファイバを通じた在宅健康サポート、在宅医療、在宅教育、在宅行政サービスを提供すべきなのである。しかし、光ファイバ・サービスは儲からない。それらは全て公共サービスであり、市場メカニズムで高い価格をつけることが禁じられている。社会的価値が高いことと、収益性が高いことは異なる。やはり光ファイバを通じた公共サービスの提供は公共政策の一環なのである。
このコメントを聞いて、デンマークを中心とした地方政府(EU加盟国)の積極的産業政策推進派は我が意を得たりと驚喜し、英国を中心とした産業政策会議派は苦虫をつぶした表情になった。このシンポジウムでは終始一貫デンマーク他のスカンジナビア諸国の若い報告者が産業政策・情報社会政策の重要性を訴えかけ、それを保守派の権威とその取り巻きが袋だたきにするという光景が見られていた。
報告のあと、デンマークやスウェーデンの研究者が駆け寄り、「興味深い」「印象的だ」と賛辞を惜しまなかった。産業政策・情報社会懐疑派は忌々しそうに席を立った。ある大柄の若者は私の前を通り過ぎる時、「ワァ」と声にならない声をあげた。もっともむっとした私が声をかけようとしたとき、私の世界最軽量級のVAIO-X505CPを見たその若者は「ワオ」とまた声にならない声を上げたから、元来気の良いナイスガイに違いない。私の報告後の議論で否定的な見解を述べた懐疑派の総帥である英国のウェストミンスター大学教授(英国の3G電波オークションの総責任者である)はわざわざ私のところまでやってきて、「興味深い報告だった。後の議論は非常に興味深かった。要するに日本は今このままBBを推進するかどうかジレンマに直面しているということか」と確認した。彼の言うジレンマが何かよくわからなかったが、非常に人格的迫力のある人で、実際日本の光ファイバ全国化がこのまますんなりいくとは思われなかったので、「その通り日本は今ジレンマに直面している」と答えた。
この報告の後、参加者の私の見る目が変わった。廊下を歩く私のことを非常に意識しているのが判った。図らずも私はEUの情報通信政策を巡る二つの立場の政争に巻き込まれ、それぞれの立場から良いように利用されそうになっていた。私は閉会式に出ることをやめ、一足先にポツダムを去ることにした。ただ、帰国すると、早速一つの寄稿依頼と一つの報告依頼が届いていた。ヨーロッパ統合という光とヨーロッパ分裂という影を併せて見たような気がした。
2月21日(月) 「伊東光晴『ケインズ−新しい経済学の誕生−』岩波新書」
JMケインズは二十世紀の最も偉大な経済学者である。『ケインズ』は巨人の光彩をオマージュ満載で描いている。要約するような野暮は止めよう。私の京大入学は今から二十年前。心の空洞を埋めきれない学生だった。哲学や物理は多少かじる気になったが、世俗的な学問経済学には気乗りしなかった。ある日一念発起し、正門前にあった本屋で手軽な経済学の本を物色することにした。マルクス、ウェーバー・・・。どれも心躍らない。何気なくひょいと一冊取り上げた。それが『ケインズ』だった。表紙をめくって即決した。ケインズ夫人リディアがサイレント映画女優のように美しかった。私は映画青年だった。もしも運悪く裏のリディアではなく、表の不敵に微笑むケインズを先に目にしたら、そのまま閉じて本棚に返したかもしれない。ともあれその本を買い、吉田山に登り、時の経つのを忘れ、読み終わった。著者欄を見た。千葉大学教授だった。その千葉大学教授が実は私の入学と同年京大教授に転じていたのを知ったのはうかつにも二年後だった。ともあれ私が経済学者の道を歩み始めた第一歩だった。そんな人生もあるということだ。(京都大学新聞2005年近刊)
追伸:今日ケンブリッジ大学ウルフソンカレッジから、私の2005年7月から9月までの再訪を歓迎する受諾状が届いた。御陰ですっかり忘れていた京都大学新聞の依頼を締切寸前で思い出した。昨今の大学改革のうねりは私が京大経済学部を3ヵ月留守にすることをなかなか容認してくれそうな状況にはないが、学者人生を掛けて執筆活動に専念したい。
2004年
7月27日(火) 「森嶋通夫先生の思い出」
森嶋先生が亡くなられた。享年80歳。蛇足ながら森嶋先生の足跡を振り返っておこう。1923年生まれ。旧制浪速高校を卒業後、京都帝国大学経済学部に入学。学徒動員で海軍士官の時終戦。この心の傷跡が森嶋青年の一生で消えることはなかった。1946年京大を卒業。京大助教授、大阪大教授を歴任する一方で、英国オックスフォード大学に留学。ジョン・ヒックス(1972年ノーベル経済学賞)に師事。京大、阪大はいずれも喧嘩別れ。ついに不退転の決意で渡英。エセックス大学客員教授を経て1970年から89年までロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授。1965年に日本人で初めて国際計量経済学会の会長。1976年文化勲章受章。日本人初のノーベル経済学賞の呼び声も高かった。最も熱烈な支持者はジョン・ヒックスだったという。しかし結果的に晩年のマルクス経済学を数理経済学的に再構築するという研究がかえって主流派の敬遠を招いた。ノーベル経済学賞の自由主義経済学への政治的偏向はつとに知られている。
本題に戻る。筆者と森嶋先生の付合いは淡いものでしかない。森嶋先生のことは晩年の愛弟子、安富歩東大助教授に聞いて頂きたい。ここでは森嶋先生との小さな思い出を披露しよう。森嶋先生は1994年秋立命館大学の客員教授として日本に滞在した。「学者はその処女作に向かって永遠に回帰する」との言葉があるとおり、森嶋先生は処女作『動態的経済理論』の英文訳『Dynamic Economic Theory』を完成したばかりであった。森嶋先生は処女作であり、(学術的)遺作でもある同書を吟味するために京大人文研の助手だった安富氏に京大の大学院生の召集を命じた。こうして私どもは学徒動員された。
毎週土曜日人文研の部屋に集い、一字一句内容を吟味する研究会が始まった。森嶋先生は大学院生の報告に体を傾けて聞き入り、口角を尖らせて議論し、そして最後には決まって「ええかげんなことすな、ちゅうんじゃ」の台詞が飛び出した。しかし森嶋先生は孫ほどの年齢の大学院生の意見に上から見下ろしたような態度をとったことは一度もなかった。常に水平な視線から受け答えし、共に考え、そして憤った。世界的大学者のリベラルな姿勢は我々大学院生を驚かせ、感激もさせた。
研究会は厳しかったが楽しかった。森嶋先生の原稿は今日においてなお学術的に素晴らしいものだった。私はある時ぽつりと「こんな本が40年前に極東の20台の若者によって書かれたなんて驚きですね」と漏らした。森嶋先生は何も答えなかったが、口元が少し得意げだった。
よく雑談にもなった。森嶋先生は毒舌である。当人がいたら卒倒しそうなことを、恐らく当人がいてもするのだろうが、よく言った。柴田敬やサミュエルソンのことはぼろくそだった。しかし二人のことを語るときだけは少年のように目を輝かせた。高田保馬とジョン・ヒックスである。特に、森嶋先生は一般に青山秀夫門下と考えられているだけに、青山先生のことを語るときの距離を置いた感じと高田先生のことを語るときの嬉しげな感じは意外だった。
ある時、自称「劣等生」森嶋青年は高田先生に尋ねた。「私のようなものでも学者になれるでしょうか」。高田先生は答えられた。「一生懸命努力すれば必ずなれます」。私は高田先生の言葉を型どおりの励ましとは思わない。高田先生は学業成績などではとらえることのできない森嶋青年の鬼才を見抜いていたに違いない。私はこのエピソードを思い出すたびに鼻の奥がじんとする。森嶋青年の感激はいかほどであったろうか。恩師の一言が森嶋青年の一生を決めた。懸命の努力が始まった。
森嶋先生は阪神ファンだった。「ワシは巨人が嫌いや。だから東大には行かず、京大に来た」。聞いていた我々、特に私は唖然とした。私は熱烈な巨人ファンだが、京大に来た。森嶋先生はこう続けた。「阪神にはええ選手が多い」。阪神は研究会当時万年最下位だった。私は聞いた。「良い選手とは一体誰のことです」。森嶋先生は誇らしげに答えた。「景浦や藤村や」。聞いた私が馬鹿だった。
こうして研究会はあっという間に過ぎた。安富氏の発案で別れの宴が開かれた。その場でも話題は多岐にわたった。多くは他愛もない話だった。不意に森嶋先生がやや改まってしんみりと話された。「ワシの頃の京大はマル経ばかりでひどいものだった。しかしあんた方のおかげで京大は本当に良うなった」。我々は唐突の展開にとまどった。森嶋先生はやや言葉をつまらせたように思われた。そして森嶋先生は自分のはるか後輩たちに軽くお辞儀をした。「ありがとう」。我々は慄然として言葉を失った。若き経済学徒にとって生涯わすれ得ない情景となった。(京都大学新聞2004年7月16日)
2002年
7月9日(火) 「熟成された国民性・壊れた公共サービス」
私の1年の英国滞在ももうすぐ終わろうとしている。ケンブリッジ日記もこれをもって打ち止めにしたい。僅か1年の滞在で観察できること、主張できることは限られているけれども、私なりの見解を述べたい。
私が英国で感心したこと、それは国民性が熟成されており、一人一人の英国民が大人であることだ。彼らは、日本人に比べて、遥かに確立された「個」を持っている。従って、あまり世間の流行り廃りというものに流されず、頑なに自分なりのプリンシプルを守ろうとするし、他人のプリンシプルを尊重してくれる。近代デモクラシーの起源が英国にあり、英国がかってファシズムの台頭を一度も深刻な形で許さなかった理由は、この確立した一人一人の主体性にある。日本人の英国評でよく耳にすることは、「今日、英国は日本よりも経済的に貧しい国であるが、英国人の方が日本人よりも幸せそうに見える」というものがある。私もこの見解にほぼ同意する。この一つの理由は、日本は豊かになったがライフスタイルが常に他者依存的で、いつまでも渇望感を癒すことができないような仕組みになっているのに対して、英国では自分がこれを良しと考えることなら他人がどう思おうがお構いなしという基本的風潮がある。日本で新しいテーマパークが近くにできると、そこに行かないことが何か決定的な欠落であるかのように、多くの家族が一斉にテーマパークに押し寄せ、一両日で多額の消費を行い、甚だ徒労感だけを味わい、味気ない日常へ戻っていく。英国では豊富にコモンズとしての緑がある。芝生の上で寝ころんで、一日過ごすだけでとても幸せな気分になれる。豊かな緑に囲まれて、人間ばかりでなく、犬・小鳥もとても幸せそうだ。やがては日本も、英国のように老経済大国として緩やかに衰退していくだろうが、日本人は英国人のように顕示的消費活動を伴わず、幸福感を味わうことができるだろうか。私には疑問である。現状は、貧乏な英国人でも幸せになれるが、金持ちな日本人ですら幸せになれていない
私が英国で呆れたこと、それは国家として提供すべき公共サービス機構が壊れていることである。英国の1980年代以降の公共サービス改革はしばしば日本の経済学者間で大きな驚きをもって紹介されてきた。しかし、実際には、その歪みは限界を超え、持続可能な範囲を逸脱している。例えば、1997年に英国国鉄は民営化され、同時に鉄道管理部門と車両運営部門にアンバンドルされたが、前者は財政的に破綻し、数十に分割された後者はほとんど無秩序に日々運営されている。誰が鉄道旅客運輸という国民にとって重要な公共サービスに供給責任を持つのか全く定かではない。恐らく誰も持っていない。あるのはそれぞれの責任逃れだけである。これは労働党の政治基盤を壊滅させるために、組合つぶしをはかり、そのための手段として、各種公共サービスの民営化・分離分割を実施したサッチャリズムの恐るべき帰結の一つである。(今日のブレア労働党政権は、基本的にサッチャー保守党政権の経済的政策を踏襲している。)英国では、ほぼ毎年信じられないような鉄道事故が発生し、少なからぬ人が事故死しているが、この傾向は今後も持続するだろう。なぜならば、労働モラールは底辺まで墜ち、安全性と新サービスのための投資はほとんど行われていないからである。民営化の際に得られた若干の金銭的余裕の多くも、富裕な株主への配当として食い潰されて終わった。同様のことは、電力・ガス・情報通信にも当てはまる。(現在、英国の発電・配電会社の7割は外資によって買収されているが、そうした外資も自国で本格的な競争が始まれば、英国の電力供給など構ってられず、競争のノウハウだけ学んで、早晩たたき売るだろう。残されるのは、誰も買手の付かない、古く非効率的な電力設備だけになろう。北海油田すら枯渇する20〜30年後、誰がこの国のエネルギーを供給してくれるのか、私には判らない。)また、教育や医療のような公益事業とは性格の異なる公共サービスでも、悪化・劣化の一途をたどっているという。今ですら日本人よりも遥かに我慢強い英国人は、公共サービスに関してもっともっと我慢強くならなければならない。
結論になるが、日本人は英国人の独立不羈の精神を見習うべきである。日本は夏目漱石の時代に比べて遥かに大きく、重要な国になったが、その国民性は未だに幼稚で、一人一人が確立された主体性を持っているとは思われない。また、日本は英国の公共サービス改革の失敗を反面教師にし、そこから多くを学び取るべきである。権利・所有関係を可能な限り細分化し、自由な営利活動に委ねれば、最適な資源配分が達成されるというのは、経済学者がねつ造したアングロサクソン的なイデオロギーである。(誤解のないように言っておくと、私は左翼政党が好きそうな「大きな政府」は嫌いだし、可能な限り公共サービスは民間によって供給されるべきだと考えている。)最も実際的な中庸の道は、非効率な公的裁量と無秩序な自由放任との間にある。中庸の道を探ることは綱渡りのように不安定であるが、両極端にふれやすい英国のストップ・ゴー政策は日本にとって格好の教材となるはずだ。英国がとった国営化・その後の解体を安易に日本に導入しないだけでも、大分ましな公共政策のガイドラインになるだろう。
6月9日(日) 「フェアプレー精神」
2002 年W杯において日本がロシアを破り、第1ラウンド突破に大きく近づいた。英国でBBCの生中継が12時半からだったので、友人の英国人夫婦を招待し、日本のカレーライスを食べながら観戦した。結果はご承知の通りなので、ここでは触れない。むしろ興味深いのは、その後の日本の道頓堀の馬鹿騒ぎとロシアでのフーリガンの暴動である。英国では、数日前のイングランド対アルゼンチン戦に異常な緊張と高揚があり、結果的に奇跡的(両国の実力を公平に判断して)イングランドが勝ったために、大きな騒動はなかった。「Football is just football」なのだから、あまり代理戦争的な役割をサッカーに負わせるべきではないが・・・。
さて、サッカーに限らず、ラグビー・テニス・ゴルフのような近代の国際的スポーツの直接的・間接的起源の多くがイングランドにあることは興味深い事実である。他方で、格闘技や陸上競技のような個人スポーツの多くがローマ時代に起源を持っている。ローマ起源のスポーツがどちらかというと孤独な勝利至上主義的な色彩を持っているのに対して、イングランド起源のスポーツがどちらかというとフェアプレーや紳士道を説く傾向があるのが興味深い。(もう一つのスポーツの系譜を挙げるとすれば、プロフェッショナルとしてのスポーツを完成させた米国であろう。)
イングランドで近代スポーツが誕生し、それが世界に普及した理由は、世界最初の資本主義国として世界を経済的に支配したことと、それに並列してイングランドの中産階級の再生産的機能を担ったパブリック・スクールで資本家や知識人の師弟にフェアプレーの精神を教え込むのに都合のよい道具だったからだろう。殺戮や代理戦争ではなく、ルールのある闘い、チームワークと自己犠牲心、審判に対する絶対服従、敵に対する敬意。いうならば、イートンの庭でボールを追いかけた者なら誰でも無意識のうちにこうした精神を植え付けられたわけである。そして、重要なことは、そうした少年達が長じてはビジネスの競争の場でも同様のスポーツ精神を発揮し、大英帝国の経済的発展に寄与したことである。英国においてパブリック・スクールにおけるスポーツ教育は体を鍛えるため以上の機能を持っていたものと思われる。私がクリケットがスポーツとして観る娯楽性にあまりに乏しいことを指摘したとき、あるケンブリッジの学生は「クリケットはスポーツではない」と断言した。だから、英国人の目から見れば、スポーツやビジネスが米国に渡り、より営利至上主義・娯楽主義的になり、本来の精神が失われたように思われるのではないだろうか。また、ひいては、こうした米国の成功した退廃的傾向が英国に再輸入され、英国的なものを破壊しつつあるのは皮肉なことである。おおよそ良識ある英国人が眉をひそめそうな営利至上主義に則ったプレミア・リーグやビジネス・スクールは今や英国でも大成功である。
せめて我々日本人としては、今回、四面楚歌の中で勇敢に競い合ったベルギーやロシアの勇者に対して、敬意と感謝の気持ちを捧げるべきである。イングランド起源の近代スポーツの本来持っていたフェアプレー精神の伝道という社会的機能を鑑みて。
2月1日(金) 「特殊性の中の普遍性」
この数ヶ月は研究室に隠って論文を書いています。これらの論文が首尾良く望み通り学術雑誌に掲載されたとしても、理解し評価(あるいは酷評)してくれるのは僅かばかりの同業者だけであり、一般の人の生活それ自体には直接すぐにはかかわらないかもしれません。(私の研究テーマは、それでも規制や産業政策を扱うので、現実生活によほど近い方ですが・・・。)しかし、昨今の日本の大学改革の流れの中で、ようやく個人の研究業績が外部評価され、ある程度序列付けられる日がそう遠くなくやってくるようです。何故そのようなことを断言するかというと、聞く所によると、日本の大学の評価システムは英国式システムの導入を検討しており、今の英国の大学の雰囲気を見ていればおおよそ10年後の日本の大学の雰囲気が分かるからです。私はいわゆる「Publish or Perish(論文を書くか、それとも破滅するか)」の業績至上主義を一元的に認めるものではありませんが、現在の日本の大学の知の貧困が酷いものなので、大学改革自体は避けられないものと考えています。また、競争力を持たない大学が潰れたり、研究能力を持たない研究者が馘首されるのは当然だと思います。
私は長期の外国生活が二度目ですが、私の基本的なキャリアはほとんど日本で過ごしたので、またこれからも過ごすつもりなので、地理と言葉のハンディキャップは避けられません。しかし、今の私達の世代にとって、国境はほとんど意味をなさず、研究は国際的に認知されてこそ価値があるようになってきています。そういうときに、私はどのように自分の生き残りをかけた戦略をたてるべきなのでしょうか。この半年間、この問題に常に直面しています。そんな折り、心に浮かぶのはLSE教授・森嶋通夫先生が京大院生との勉強会の折りにしばしば語った言葉です。「わしははからずも数理経済学という国際的普遍性の高い学問に巻き込まれてしまったが、本当はMade in Japanの経済学者になりたかった」。森嶋教授は日本人の経済学者としては始めて国際的に高名をはせた方ですから、この逆説めいた命題は絶えず私の心の中で消えることのない余韻を残しました。(森嶋先生は学徒出陣を経験した世代ですから、その言葉の中には森嶋先生の人生を反映した深い意味があるのだと思いますが。)
さて、今現在、私は理論と実証を3対7程度のウェイトで研究していますが、特に実証面では日本のネットワーク産業の歴史的・地理的特殊性を検証する作業をもっぱらしています。もっともそこで用いる計量的な手法は欧米の主流に則っているわけで、またこうした国際比較の特殊性を相互に照らし合わせてみれば案外特殊性がさほど特殊でないことが判ってくるかも知れません。つまり、私は日本という狭い範囲の特殊性を追求することを通じて、ある種の普遍性を獲得しようとしているわけです。
外国で暮らしてみて判ることはMade in Japanというブランドが非常に高く評価されていることです。TOYOTA, HONDA, SONYのように特殊性を突き破って普遍性を獲得したMade in Japanの先達に学ぶべき点が、我々研究者も多々あるように思います。
2001年
11月4日(日) 「英国風アンビバレンス」
ここ一両日、テロリズムにどう対峙すべきか、考えあぐねている。まだ、答えにたどり着きには到らない。私は今英国ケンブリッジに滞在している。英国は北アイルランド問題を抱え、世界の中でもテロリズムに最も高い意識を持っている国民である。BBC放送を見ても、Times紙を見ても、テロ・テロ・テロのオンパレードだ。また、トニー・ブレアは世界の中でも最も写り映えのする政治家であるから、世界を股にかけて利害調整の役を果たし、大英帝国の威光まだなお衰えざる所をPRするのに余念がない。けれども、英国に生活し、英国民の中に紛れて呼吸していると、この国の国民がどの程度テロリズムと真摯に直面しているのかよく分からないところがある。日常生活の会話の中でも、移ろいやすい天気の話は良く出るが、テロリズムならびにそれに対する報復措置に関する否定的・肯定的意見を表立って唱える人は私の知る限り少ない。息をひそめて情勢をうかがっているのとも少し違う。これには、英国の国民性が反映しているのだろう。この国の国民は一般に感情に任せて、煽動的な行動をとるのが嫌いだし、他人から煽られ誘導されるのはもっと嫌いだ。ある意味で、個人主義の到達するところは、世俗的な些事から常に一定の距離を保つ厭世主義に行き着くのかも知れない。
テロリズムに対する日陰からのアプローチあるいは英国民の気質を理解するための日向からのアプローチとして、次のように考えてみることにしよう。英国は階級社会だといわれる。それは、士農工商のような固定的な社会ではなく、統計的に見れば案外上から下あるいは下から上への移動があるのだが、英国人自身が自分の生活を規定したり理解したりするためのベンチマークに階級という言葉を好んで用いるのは事実である。その中で、私が住んでいるケンブリッジというのは英国が世界に誇る大学町であり、知識階級という非常に特殊なアッパーミドル・クラスによって構成されている。気を付けなければならないのは、英国の階級意識が必ずしも所得水準によって画されているわけではないことだ。教育者の所得が極端に低い英国では、ケンブリッジの人々の暮らしは経済的には非常につましく、ワーキングクラスの勤労所得よりも往々にして低い。では、一体何が彼らの階級意識の根底を流れ漂っているのだろう。それは有り体に言えば、「どう生きるか」という命題に対する倫理的あるいは道徳的な心覚えのようなものである。
「ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」という外国人からは甚だ得心するのが難しい概念がある。言葉の意味は、高貴な立場につくべき者は高い義務心から自らを厳しく律し、また進んで自己犠牲を厭わないという程度の意味だ。英国において、オックスフォード大学とケンブリッジ大学は数百年の長きにわたって英国のただ二つの大学であったし、またその学生の多くがパブリック・スクールと呼ばれる全寮式の私立学校の出身者で占められてきた。New Universityとよばれる新興大学が群生し、オクスブリッジアンの過半を公立学校や普通の私立学校卒業生が占めるようになった今でも、古のエリート意識、その一つとしてのノブレス・オブリージュは未だにこの学問街の玄奥にそこはかとなく流れているような気もする。
このとりとめのない雑文もそろそろ閉めに入らねばならない。ケンブリッジからケム川沿いに南に数キロメートル下った所にグランチェスターという村がある。そして、そのグランチェスターの村の中にオーチャードという林檎園に隣接した屋外の喫茶空間がある。豊かな林檎園の緑の中に囲まれ、英国紅茶とスコーンを頂くのが私の週末の最高の贅沢な時間となっている。オーチャードが開かれたのは今から一世紀前の1897年のことである。そして、その名声がケンブリッジひいては英国中に知られるようになったのは、ケンブリッジ大学の一人の放浪詩人がそこに住みつくようになってからである。詩人の名前をブルック (Rupert Brooke)という。ブルックはケンブリッジの生んだ当世最高の知性達と広く交わっていた。毎朝毎夕ブルックを訪ねて、オーチャードを去来したものの名前を挙げれば、E.M.フォスター、バージニア・ウルフ、バートランド・ラッセル、メイナード・ケインズ、ルードビッヒ・ヴィトゲンシュタインという面々である。文学・哲学・経済学等の分野で20世紀を形作った巨星がこのハンサムで放浪癖のある若き詩人を取り囲んでいたわけである。ウルフは、浮世離れした趣味と探求心に溢れたこの一群を「新しき異端者達(Neo-Pagans)」と評している。何とも鼻持ちならない連中のことか。
だが、この言わば若き世捨て人達のオーチャードの密会は呆気なく終焉を迎える。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ブルックは志願し、ヨーロッパ戦線の最も苛烈たるガリポリへ旅立つ。その戦線でブルックは重い病魔に取り憑かれ、1915年4月23日27歳であたら若い命を散らせていったのである。私は戸惑う。この世俗を最も憎みかつ蔑んだ若者が自ら地獄に飛び込み、まるで自ら望んだかのように露と消えていった事実に。この事例はブルックに限らない。第一次世界大戦中、多くのオクスブリッジアンが志願し、進んで危険な戦地に赴き、そして散っていったのである。彼らの戦死率は他に比して圧倒的に高かったという。「喪われた世代」という言葉が今なおある種の荘厳な響きを込めてこの街には残されている。戦争がなければ、彼らの多くが終生あるいは詩や文学あるいは哲学や科学に没頭し、世俗とかけ離れて生を送ったはずである。ある人はこういった。それがノブレス・オブリージュなのだと。彼らがパブリック・スクールの校庭で徹底してたたき込まれ、オクスブリッジでいかに退廃的にいかに優雅に振る舞おうとも有事の際には自らの危険を省みず死地に飛び込むのだと。
本当だろうか。私には分からない。ひとつだけ確かに言えることは、英国の英国たる良質なものがあるとすれば、その一つは深い両義性である。英国風アンビバレンスといっても良い。きっと彼らの心の中では絶えざる葛藤があるに違いない。しかし、それを決して深刻ぶった態度で外に出すことを潔しとしない。長い歴史と文化のたまものと言うべき修練の結果かも知れない。無差別殺戮というこの世の最も醜悪な事態に直面し、ブルックならばどう考え、どう行動しただろうか。彼の死の数ヶ月前に戦地で記した詩が彼の遺作となった。
If I should die, think only this of me:
That there's some corner of a foreign field
That is forever England.
(これは橋本安央さん編集のTalgia21用に書かれた原稿です。)
8月16日(木) 「ユニバーシティとカレッジ」
よく知られていることであるが、オックスフォード大学とケンブリッジ大学は特殊なユニバーシティとカレッジの「二重制度」を持っている。英国の大学紹介本には必ず記載されていることだから、ここでは事細かには説明しない。ただケンブリッジで一般に「貴方はどこに所属しているか」と聞かれたら、「どのカレッジのメンバーか」と解釈した方が良さそうである。その次に多分「貴方の専門は何か」と聞かれるので、その質問に答えれば関係するユニバーシティ上の学部・学科は自ずと明らかだろう。ケンブリッジ大学の新入生の選抜はすべてカレッジ単位で行われる。だから、まずケンブリッジ大学の学生というよりは、特定のカレッジの学生であるという意識の方が強い。入学後、学科は変更できても、カレッジの変更はできない。カレッジには30余あるそうで、800年の歴史を持つオールド・カレッジから、せいぜい数十年のニュー・カレッジまで多種多様である。因みに、イギリスでは全て古いものが偉く、威張ってもいる。ユニバーシティはカレッジから構成される一種のバーチャルな複合体であり、カレッジは独立採算の私立だが、ユニバーシティは国立である。だから、日本でよく「ケンブリッジ大学は私立大学」と言われるが誤りで、「ケンブリッジ大学のカレッジが私立」なのである。余りよい喩えではないかも知れないが、国連というバーチャルな組織が国の連合体として存在し、様々な国際的政治活動を行うが、国連に属する国民というものがないようなものである。さて、私の場合は応用経済学科というユニバーシティの客員研究員であり、また同時にウォルフスンというカレッジの客員研究員でもある。私のウィークディは基本的に朝の9時から晩の5時過ぎまで応用経済学科の研究室に出勤し、黙々と自分の研究をする。ただし、これは自分が自分に課した(どちらかといえばワーキングクラス的な)日課であり、学科長にそうしろと言われたわけではない。イギリスでは、他人の生活には干渉しない個人主義の伝統があるようだ。日中、午前と午後の2回ティータイムがあるので、その時間は適当にティールームで「お茶を濁す」ことも可能である。(もっとも外国人にとってこのティータイムでたわいない話をするというのが結構苦痛なのであるが、その話はまた後日にしたい。)昼食や夕食はカレッジに行って、食事をとるのがしかるべき筋である。ただし、私はカレッジ内に住居を持たず、市街のフラットに住んでいるので、昼食だけカレッジの食堂に通う。別に通わなくても怒られるわけではないが。(また、カレッジの夕食にはガウンをまといラテン語の呪文をとなえるフォーマル・ディナーがあり、外国人にとって厄介らしいのだがその話はまた後日にしたい。)まぁ、簡単に括ってしまえば、研究はユニバーシティで、食事その他はカレッジでというのが私の二重生活である。(実際には全てをカレッジで済ませてしまう人も数多い。)よく日本のダブル・スタンダードが外国から非難されるが、伝統のある国はおしなべて古いものと新しいものの妥協の産物として底の深い二重性を持っているというのは、私のいささかせっかちな結論だろうか。
8月1日(月) 「ケンブリッジ」
ケンブリッジは近代経済学のメッカと言っても過言ではない。限界革命に始る近代経済学の体系的完成はマーシャルによって遂げられたものであるし、ケインズ革命と呼ばれるマクロ経済学の誕生はケインズはじめとするサーカスに負うている。1980年代以降のサッチャリズムにより、イギリス・アカデミズムの衰退が叫ばれる今日でも、ケンブリッジ大学政治経済学部の玄関を目前にして、粛々たる思いに駆られない経済学者はいないだろう。しかし、実際には、政治経済学部の校舎である「シジウィック」サイトの一角にある「オースティン・ロビンソン」ビルディングはうらぶれた現代建築物であり、「マーシャル」ライブラリーも京大の生協程度の貧相な入口しか持っていない。イギリスでは100年以内の建築物は価値のないニュー・ビルディングと呼ばれ、少なくとも政治経済学部に関する限り大経済学者の冠に名前負けしている。
さて、私は文部科学省の若手枠の在外特別研究という機会に恵まれ、2001年の夏から1年間ケンブリッジ大学応用経済学科に滞在することになった。海外の生活は4年前にアメリカのイリノイ州に1年滞在したとき以来、2回目のことである。イギリスでは普通ではないという蒸し暑い7月の末日、やはり客員研究員として2年間ケンブリッジ大学に滞在していた江頭進君に連れられ、ここ政治経済学部校舎にやってきた次第である。イギリスでは古いものをごまかしごまかし使うので改修工事ばかりだが、多分に漏れずこの政治経済学部校舎も現在改修工事の真っ最中であり、とても気づかないような暗い裏口からこっそりと入った。自然と気分は暗くなる。階段を上っていくと、建物の三階の廊下に無造作に何人かの顔写真が飾られていた。マーシャル、ピグー、ケインズ、ジョーン・ロビンソン、スラッファ・・・。日本でいうなら紅白歌合戦のとりの数組の顔ぶれともいうべき、綺羅星のような大スター達に自然と気分は重苦しくなる。この日の私の訪問は応用経済学科の秘書に予告していなかったので、彼女をひどく驚かせてしまったが、何もがスローなこの国でこの秘書だけは優秀らしく、てきぱきと対処してくれ、いよいよ私の1年間が始ることになった。驚いたことに、このひどく貧弱な建物の4階の真ん中に狭いながら個室の部屋をもらうことができた。研究者にとって、個室の研究室がもらえるかどうかは死活問題であるが、ケンブリッジを留学先に選んだ段階で個室は諦めていた。街の中に大学があるというオックスフォードに対して、大学の中に街があると呼ばれるケンブリッジは全てが狭いのである。ユニバーシティか、カレッジの図書館に毎日通うつもりだった。大学の図書館通いでは、真の研究者の交流はできないというのは、アメリカ時代の苦い経験でよく分かっていた。思いもよらぬ厚遇に、いやがおうがなしに緊張感が高まる。こうして新しい1年が幕を開けた。
2000年
12月1日 「大学生の頃合」
時あたかも世紀末。ドッグ・イヤーだとかIT革命だとか、スピード至上主義の何とも世知辛い世の中である。皆さんは如何お過ごしであろうか。私は今春から母校で教壇に立つ機会に恵まれているが、京大生の変わらない気風に安心する一方で、折しも大学再編のさなか京都大学が時勢の尻尾に巻かれつつある現状に危惧を抱いている。
京都大学の門戸を叩く学生の志望理由の圧倒的な第一位は自由な校風だという。自由ほど眉唾物はない。世に自由を声高に叫ぶ人物をよくよく観察したまえ。見え隠れするのは、既得権益の守旧であったり、放縦の言い訳だったりするものだ。世間では京大の自由放任は、1%の天才と99%の落伍者を生むと言われているらしいが、あながち外れてはいない。自由の代償が才能の墓場とすれば、壮絶な無駄とも言えるし、自由の悪用と言えなくもない。教室の先頭に陣取って出席し、優秀な成績をとる学生を優良学生というならば、私自身も全くの不良学生であった。朝起きても足は教室には向かわず、一乗寺の名画座か、BOX長屋へ吸い寄せられた。けれども、自分の学生時代を振り返ると、自由気ままな無駄も貴重な人生の財産となっていることに気づく。
私が京都大学経済学部に入学したのは1985年。1985年は戦後日本の踊り場、成熟と退廃の端境のような頃合だった。バブル経済の発端となったプラザ合意が結ばれたのも、日本列島を歓喜の渦に巻き込んだ阪神タイガースの日本一も、この年である。京の都の春爛漫、入学式を翌日に控えた日のことだった。経済学部の同好会が主催する新入生歓迎会が催された。招待された山田浩之経済学部長、佐和隆光経済研究所所長、浅田彰人文研究所助手という錚々たるメンバーを尻目に、「私も皆さんと同じ新入りだから」と一応謙遜しながら、口を開くや閉じるところを知らず、ちゃきちゃきの江戸弁で、経済学がいかに魅力ある実践の学問であり、経済学者は熱き心と冷たき頭脳もて現実に答えなければならないことを滔々とまくしたてる御仁が居た。圧倒された。大学には奇特な人もいるものだと感心した。
さて、その当時の京大生の一般的な考え方でもあると思うのだが、大学にまで入って教室でこれ見よがしにガリ勉するのは気恥ずかしいことだ。だから、早い段階でドロップアウト、私の姿は大学の教室から消えた。判りもしないのに、春は哲学の道で西田哲学に耽り、秋は修学院で量子力学をかじった。私は経済学部生である。いつ経済学の勉強をしたのだろう。判然としない。単にしなかっただけかもしれない。きっとそうだ。だからこそ、年度末、何やら経済学のレポートが課されたという報せを他学部の友人から聞かされ狼狽えたのだろう。友人はこうも言った。お前の経済学部生なのだから、何とかしてくれと。しかし、経済学は一番疎遠な科目であったので、何ともならなかった。私のプライドはひどく傷ついた。
経済学部生でありながら、経済学のレポートに歯が立たないという現実に愕然とした私は、こっそりと大学前の書店の経済学コーナーを物色した。周辺に知人が居ないことを確認して、スミス・ミル・マルクス・・・、私ですら名前を知っている経済学者の評伝を何冊か手に取り、最初の数項だけ見比べてみた。中身の違いは判らない。しかし、一冊だけ異なる本があった。岩波の『ケインズ』である。表紙をめくると不敵な面構えで微笑むケインズその人の肖像がある。辟易する思いで裏を返すと、有名なロシア・バレリーナでもあった妻リディアの肖像も掲載されていた。その可憐さはサイレント時代の女優さながら。映画青年はその理由だけで『ケインズ』を購入した。そして、読んだ。ケインズの生涯に主題を託しながら、経済学がいかに社会改革の情熱溢れる実践の学問であるかが滔々と論じられていた。感動した。著者をみると千葉大学教授とある。世の中には見上げた人もいるものだと感心した。
この奇特かつ見上げた御仁が同一人物で、1985年から京大教授に転じていることを知ったのは専門課程へ進学し、ゼミナールを選択するときであった。かくして、私は伊東光晴ゼミの門を叩いたのである。一つの誓いを胸に秘めて。この御仁が○と言うならば、○とは言わず×と言おう。この御仁に論争を挑み言い負かすことが出来れば、言論界の国士無双だろうだと。私にとってゼミナールは絶好の腕磨きの場となった。御仁は挑戦的な若者を煩がりながらも、ひどく可愛がった。学生の自主性を尊重しながらも、職業的研究者になるとひどく喜んだ。今こうして母校の教壇に立つと、若き日の思い出が彷彿としてよみがえる。心から思う。京大生諸君、自由を敬え。同時に蔑みもしろ。自由の帰結として、石となるも玉となるも君次第だ。長きに巻かれることなく、好きに生き、好きに死ね。己が信ずるままに。
(from京大新聞「複眼時評」用草稿)
6月1日(木) 「小津映画について」
小津の映画の魅力とは一体何なのでし ょう。実を言うと、よく私は判らないのです。小津映画が見る者をして、なにがしか のノスタルジアを喚起するのは確かです。小津に関する大著(『Ozu and Poetics of Cinema』1988)をしるしたDavid Bordwellは「ノスタルジアは日本において二つの 主要な種類がある。一つは田舎の故郷への憧れであり、一つは粋でコスモポリタンな 東京への憧れである」と述べています。典型的な江戸っ子気質を持つ小津が他方で蓼 科のような自然を愛する。また、典型的な日本映画的巨匠と目される小津が松竹に入 社するまでは徹底した洋画賛美者であった。こうした小津の矛盾した統一性にこそ、 彼の時代・国境を超越した普遍性があるのかもしれません。以下は徒然なる駄文。
小津の映画を称して、「小 市民的」と言われる方が居られますが、本当にそう思いますか。むしろ、とても「 snobish(鼻持ちならない、お高くとまった)」だと思いませんか。登場家族の家長の 職業は教育職であったり、医師であったり、会社のお偉いさんです。大学進学率が1 割、2割の時代において、疑いなく中の上以上に属される方々です。『晩春』の冒頭 で、笠演じる経済学者が「リストのスペルにはzは要るかね」という台詞にはずっこ けた記憶があります(辞書で確認したら要りますね)。早い段階で大正・昭和の立身出 世主義社会からドロップアウトした小津には、学歴・肩書に対する複雑な劣等感と対 抗意識があったと思います。また、小津映画の女性達はとてもお暇そうですし、度々 出る会社のシーンも全く現実感が希薄です。(「ねぇ?」「ねぇ。」「ねぇ?」)要す るに、小津が、その当時実在したが急速に滅びていった日本の何か美しいもののスナ ップショットを撮ったのだという考え方には抵抗を感じます。小津映画にそういうの を感じるとしたら、我々の架空なる現実に対する身勝手な記憶の昇華作用とでもいう べきものではないでしょうか。
戦後の小津映画は原節子ものとそうでないものに大別されます。私は原節 子ものがとても好きです。さて、よく知られるように、小津は原節子にとても純粋な 慕情を持っていました。恐らく、原節子も。「あの小津さんが演出中の何かの拍子に 原さんに対してポォと頬を染めるようなことがあった」というエピソードは私をこの 上なく幸福にします。小津映画の中の原節子は嫁ぎ遅れたお嬢さんだったり、若き未 亡人だったりで、連れ合いが直接的な形で銀幕に登場することはありません(特殊な ドンデン返しを持つ『麦秋』を除く)。あたかも、小津が原節子に抱く聖なるイメー ジが壊れるのを恐れているかのごとく。もともと原節子は顔かたちが大振りで、大根 なところがありましたが、それでも黒沢映画『我が青春に悔いなし』等でお嬢さん女 優から本格派女優へ脱皮をはかったこともあります。しかし、小津映画の中の圧倒的 なしかし虚無とも言える存在感のために、再び女優として壊してはならない枠をはめ られてしまったような気がします。私はその枠を非常に愛しますが。
結局、私は小津映画がとても好きです が、その魅力の根元を未だ発見できずにいます。でも、それが何かを考える時間がと ても好きです。
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