現代貨幣理論(MMT)から考える経済政策 (2021.1.12) 岡敏弘 1990年と現在の歳出を比較すると、社会保障費が大きく伸びています。また、歳入に関しては税収の増加はわずかであるのに対し、借金である公債金が約6倍と大幅に増加しています。さらに、昨今の新型コロナウイルスの影響も相まって、今後も社会保障費や医療費の増大は避けられません。以上のことから、財源確保の必要性が高まっていると感じる一方で、近年、財源確保は必要ないとする現代貨幣理論(MMT: modern money theory)が注目されています。そこで、京都大学公共政策大学院で経済学を教えている岡敏弘教授に、現代貨幣理論と、経済政策として今後目指すべき方向についてお話を伺いました。 <支出が貨幣を生む> 現代貨幣理論では、貨幣とは、物を買うために予め持っておかなければならない財源ではなく、支出する際に創出される負債だと見なします。貨幣は現金と預金からなりますが、その貨幣がどこで生まれるか考えてみましょう。私が千円札をATMで引き出すとき、貨幣は増えませんね。預金が現金に変わっただけですから。私が働いて賃金を得たときも貨幣は増えません。賃金を払った事業者の預金が私の預金に変わっただけですから。企業が物を売ったときも貨幣は増えません。買った人の現金が売り手に移っただけですから。 貨幣が増えるのは、外国貿易を除けば、2つの場合だけです。1つ目は、物を買うために銀行からお金を借りる場合です。このときは、私の預金がただ増えます。それで実際に物を買えば、その生まれた貨幣が売った人のところへ移ります。そうして世の中に貨幣が回っていきますが、私が最初に借りたときに生まれた預金、つまり銀行の負債が世の中を回るのです。2つ目が、政府が支出したときです。このとき、政府に物を売った人の口座で預金が増えます。同時にその口座を開いている銀行が日本銀行にもつ預金が増えています。その代わりに、政府が日銀に持っている預金が減っています。なんだ預金が減っているじゃないかと思われるかもしれませんが、政府・日銀・銀行は貨幣の発行者なので、その間での預金の増減は世の中の貨幣量の増減としてカウントされません。政府が国債を発行して銀行がそれを買えば、政府の日銀預金は回復します。このとき、銀行の日銀預金が減って、代わりに国債をもつことになります。そうなっても貨幣量は変わりません。貨幣は、最初に政府が支出したときに、政府に物を売った人が得た預金として生まれ、それが持ち手を変えながら存在し続けるわけです。2013年以降盛んに行われているように、日銀が銀行から国債を買えば、銀行の日銀預金が増えますが、そうなっても世の中の貨幣量は変わりません。 反対に、政府が税を徴収すれば、納税者の預金が引き落とされて、世の中の貨幣量は減ります。政府の支出は貨幣を生み出し、徴税は貨幣を消滅させるのです。私たちが税を納めるとき、税は貨幣で納めるので、私たちは貨幣を必要とします。その貨幣は、まず政府が支出してくれないと存在していなかったのです。私たちが持っているお札は日銀の負債ですが、政府が税という「財源」なしに支出したおかげで私たちの手元にあるのです。 <フリー・ランチは可能か> だから、MMTでは、初めに政府支出があって、それを税でまかなって貨幣を回収するか、まかなわずに貨幣を増えたまま放置するかは、まあどちらでもよいということになります。日本は30年近く「放置」の方が多かった結果、千数百兆円の貨幣が存在しています。支出が先で予め財源の心配をする必要はないという主張に対して、そんな「フリー・ランチ(ただ飯)」が食えるように言う経済理論はどこかおかしいんじゃないかというのが、多くの常識ある人たちや、主流派の経済学者からの反論です。確かにフリー・ランチはありえません。政府が物やサービスを調達すると、それを供給するために、工場や設備といった生産手段の助けを借りて労働が行われなければなりません。このような実物の資源の費えを「費用」と言いますが、費用をかけずに物やサービスを得ることはできないという意味でフリー・ランチはありえないのです。貨幣はこのような実物への請求権に過ぎません。政府は財政―支出と徴税―によって、この請求権の配置をちょこっと変えることができるのです(責任重大ですが)。 フリー・ランチがありえないことから、現存の資源で生産可能な量を超えて物やサービスを人々が欲しがって、かつ、もっと高い価格でも買うという行動が実際に起これば、インフレ、つまり、貨幣価値の低下が起こります。政府支出が税収を超え続けること(つまり財政赤字を続けること)が引き起こすかもしれない問題は、結局インフレに帰着します。外国通貨に対する自国通貨価値の低下の可能性も指摘されますが、それも結局、これまでと同じ値段では輸入ができないということで、インフレに帰着します。インフレ以外の問題があると説得的に示した議論を見たことはありません。だから、MMTは、インフレが起こらない限り、増税して財政赤字を減らす必要はないと言うわけで、これには誰も反駁できていません。しかし、インフレは実物現象であって、貨幣が多いからインフレが起きるわけではないというのが、MMTの基本認識です。一番の問題は急激なインフレが起こるということですが、これも原因は実物の諸関係です。過去に急激で制御できないインフレが起こったのは、戦争、社会主義体制の崩壊、政治的混乱などで実物の諸関係に大きな変化が起きた場合です。 以上のことからわかるように、財政支出によってインフレが起こるとしたら、実物の需要と供給のバランスが崩れることを通じてです(あとで見るようにそれだけで必ず起こるとは言えませんが)。インフレは実物の諸関係によって起こり、貨幣現象ではありません。貨幣量は支出に追随するのですから、貨幣量を増やしてインフレを起こすことなどできるわけないとMMTは言い、したがってリフレ派を否定しますし、ましてや、銀行保有の国債と日銀預金との割合を変化させることによってインフレを起こそうという黒田日銀の政策などは初めからばかばかしいと思っていたわけです。 <ケインズ理論の系譜> 財政支出の増加は、それ自体需要を増やしているわけだから、潜在的なインフレ要因で、赤字支出が積み上がった結果としての貨幣という請求権は、それが行使されれば、これもインフレ要因です。しかし、行使されずに眠ったままなら、物価押上圧力は現れません。日本の過去30年は、どうやら貨幣は眠ったままらしいということを示しています。もちろん、そうなるかどうかは国により時代によって変わりますが、人々が貨幣そのものに効用を見出して、物やサービスに支出しようとしないから需要が不足して失業が起こるというメカニズムを1930年代に発見したのがケインズです。ケインズは、人が貨幣を好むことを「流動性選好」と言いました。 MMTはこのケインズの考えを受け継いでいるので、貨幣が保蔵されたままになることは当然起こると考えています。そう考えないのが主流派の経済学で、主流派理論では、消費者は今から無限の将来にわたる消費から得られる効用を最大にする最適行動をとると仮定し、したがって、政府はいずれ貨幣を回収しなければならないし、人々もそう信じると考えます。そこから、将来政府が財政再建を怠れば(つまり貨幣回収を怠れば)、現在ただちに物価が上がるという物価水準の財政理論も出てきますし、黒田日銀の政策も、将来にわたる効用を最大化する人々の行動から、将来の需要超過時にも日銀が金融緩和を緩めないと約束し、人がそれを信じれば、現在のインフレ率が上がるとする主流派理論に基づいています。 ケインズの流れを汲む、MMTを含む異端派の経済学は「ポスト・ケインズ派」と呼ばれますが、ポスト・ケインズ派と主流派との、1つの重要な分かれ目が、この無限の将来にわたる消費者の最適化行動を仮定するかどうかという点です。ポスト・ケインズ派は、そんなおとぎ話は信じないし、そこから組み立てられる体系は有効な分析装置でもないと考えています。しかし、90年代以降、主流派の考えが経済学の世界を席巻しました。私が学生だった70〜80年代の経済学部はもっと多様でした。私は古典派とマルクスから経済学に入って、ケインズや現代古典派へと進んだ古い人間なので、2013年頃にMMTを知ったとき、ケインズ理論の素直な発展だと思いました。 <インフレと数量調整> インフレは実物諸関係にかかわる現象ですが、実物の需要が供給を上回れば物価が上がると単純に言うことはできません。実際物価の動きは複雑です。新型コロナ禍が起こる直前の日本経済は超完全雇用で、いろんな場面で人手不足が顕在化していましたが、それでも物価は上がりませんでした。逆に、インフレに悩まされていた60〜70年代は、景気が悪くてもインフレが起こりました。その時代のインフレを説明する理論に次のようなものがありました。そのころ、製造業の生産性の上昇が著しく、労働者1人が生み出す工業品の物量が飛躍的に伸びました。それらの工業品が値下がりしなかったので、労働者1人が生み出す付加価値が増え、したがって賃金も上がりました。それに対してサービス業の生産性は上がりませんでしたが、製造業と労働者の取り合いになりますから、そこの労働者の賃金も上げずにはいられず、したがって、サービスの価格が上がらないわけにいかないという理論です。これを生産性上昇率格差インフレ論と言いました。これは、私の子供の頃の経験ととてもよく合っていました。散髪料金が230円だったのが250円になったかと思ったらみるみる上がってあっという間に1000円になってしまいました。これに対比すると、現在は、生産性上昇があったとしても、量の拡大ではなく、性能や質の向上につながるものが多く、しかも地球規模の競争が激しく、製品への値下げ圧力があって、労働者1人あたりの名目付加価値が伸びないから生産性上昇率格差も起こらないという事情があるように思えます。 もう1つ注目すべきなのは、需要と供給とが乖離したとき、価格が動いて需給一致がもたらされるというメカニズムが実はあまり働いていないのではないかということです。先ほど「現存の資源で生産可能な量を超えて物やサービスを人々が欲しがって、かつ、もっと高い価格でも買うという行動が実際に起これば、インフレ、つまり、貨幣価値の低下が起こります」と言いましたが、「もっと高い価格でも買うという行動」が実際には起こっていないのではないかと思います。それに代わる行動は、供給が不足しているとき、ただ待つ、あるいはあきらめるという調整方式です。これは需要面の数量調整と言っていいですが、需要面でも供給面でも、価格調整ではなく数量調整の方が、経済の主たる調整方式ではないかというのは、古典派やケインズの理論の基礎にある考えです。ポスト・ケインズ派とも重なりますが、「進化経済学」を標榜する経済学者たちは数量調整のメカニズムの分析を深めています。 <経済政策の目指すもの> そうだとすると、少々需要が超過してもそうやすやすと物価は上がらないでしょう。完全雇用を達成した後、インフレが起こるまでの間にかなりの「あそび」があることになります。そうなると、インフレが起きない限り財政支出を増やしていいのだという単純な考えは修正を迫られるでしょう。財政支出を増やそうとしても、公共工事も人手不足でなかなか進まないとか、人を雇おうとしても人が来ないといった、実物の数量面での制約に直面するでしょう。そのときは、公共部門が民間からどれだけ資源を奪ってきて、何を社会に供給すべきかという資源配分が中心問題となって、これはMMTを超えます。公共部門が担うのが望ましい活動がはっきりしたとき、そのための財源について心煩わす必要はないと教えるところにMMTの意義があると思います。例えば現在の新型コロナの対策で、医療体制充実のために資源を投じるのに、財源を気にする必要はないといったことです。【財源を気にする必要はないが、医療従事者が集まらないというのが資源配分問題で、こっちこそ真のフリー・ランチなし問題です。】 そういう意味では、日本の反緊縮派MMTが、経済を成長させるという目的でMMTを援用し、さらには、物価を引き上げることを主張して、リフレ派との境目もわからなくなっているのには違和感を持ちます。私がMMTから受けとったメッセージは、完全雇用と物価安定こそ目指す目標であるということです。2〜3%の物価上昇が必要だといったことはMMTからは出てこないし、経済成長が望ましいといったことも出てこないです。経済成長率は、供給側では人口成長率と技術進歩率との和ですが、それは天からの恵み、自然的所与であって、どんな成長率が与えられようと、それと完全雇用・物価安定とを両立させるような財政運営が可能である、つまり、成長しないとしたら、成長しない分誰かが支出を補ってやれば完全雇用になる。それが政府の役割だというのがMMTの教えるところです。経済成長しなくてもだれも不幸になりません。資本主義競争社会でどこかで技術革新は起こるでしょうが、今後2%も3%も成長したりしないと思います。人口も減り、人間の活動が縮小するので、ほかの生き物に土地を分けてやったらいい。再生可能エネルギーのために他の生物の生息域を脅かす事例などを見ると、どこまで人間は強欲なのかと思います。成長よりもみんなが安心して生活できるというのが理想です。安心できない状況が生まれたときに財政の役割があると思います。新型コロナ対策の財政支出でも重要なのは生活の安心の保障ですよね。公共政策で一番必要なことだと思います。