社会科学はゴミ問題をいかに考えているか、考えるべきか


はじめに

 ただいまご紹介いただきました北大の久野です。社会科学あるいは経済学の立場からということでお引き受けしました。もっとも、私自身ゴミ問題はおろか、環境経済学を専門にしているわけではありません。むしろ、素人の立場、あるいはもっと市民の立場に近いのかもしれませんが、そういうところからゴミ問題に対する素朴な見解を述べさせていただきたいと思います。
 なお、現在所属している農業市場学講座の専門的立場からすれば、たとえば家庭ごみのなかに食品に関わるさまざまなゴミがあります。今日の昼、ここに来る前に生協でパンと缶コーヒーを買ったのですが、パンもプラスチックのトレイにのせてあり、ラップで巻いてありました。これなどはゴミの典型でして、これからゴミ問題を話すのにと、買った後で自戒しまして、結局食べられませんでした。こういうのを食の外部化、最近では中食とも言います。弁当屋で買ってきて食べる。あるいは食卓を囲んで家族そろって食事をするのではなく、個食化と言いますが、マクドナルドなどでそれぞれ勝手に食べる。その場合もいろいろなトレーが出てきます。このように食生活、あるいは生活様式全体の変化のなかでゴミ問題というのは考えなければいけないのだろうと思います。ただ、今日の報告はそいういうことには触れず、もっと大きな視点からやらせていただきます。

経済学の役割について

 前提として、経済学とは何かということを最初に話しておきたいと思います。経済学というと、たいていの人は経済効率性の追求とか、どのような企業経営にしたら利益が上がるのか、あるいは国家財政がいま問題になっていますが、いかにしたら「健全化」できるのかといったことを考える学問だと思われるかもしれません。もちろん、そういう視点から研究されている経済学者もたくさんいます。しかし、私はむしろ批判経済学―ケチばかりつけて具体的な政策を何も出さないじゃないか、先ほどの報告のように地道な研究を積み重ねて具体的な成果に結びつけていくという研究者からすれば、非常にいいかげんな研究をやっているのではないかと、自分でも思っているわけですが―の立場に立っています。そこで私が考えているのは、公平とか公正、環境分野でいえば環境破壊に伴ういろいろな費用をいかに公平に負担していくのか、あるいはさまざまな取り組みのなかで生まれる便益というものをいかに公平かつ公正に配分していくのかということであります。
 そういうことを考えたとき、経済学というのはモノやカネを主軸に見ていくわけですが、ただそれだけではなく、そのモノやカネをめぐるさまざまな社会関係―経済学では生産関係、レジュメでは「経済主体間の諸関係」と表現していますが―をきちんと見ていかなければいけない。単にモノとカネが流れているということではなく、それをめぐる社会関係こそがいま問題にされなければいけないのだと思います。
 したがって、廃棄物も単にモノとして捉えるのではなく、廃棄物が出されてくる過程でさまざまに取り結ばれている諸関係、その産物として廃棄物を見ないといけないのではないかと思います。
 これは一橋大学の寺西先生が述べておられますが、環境問題というのは「関係問題」であるということです。やはりこういう視点で環境問題あるいは公害問題というものを見ていかなければいけないのではないかということです。図1に「経済活動の流れ」を示しておきました。生産に始まり、流通を経て消費者に渡り、消費されて廃棄され、最後にその廃棄物を処理する。モノというのはこのように流れていくわけです。それから、普通の家庭から出される一般廃棄物という点からすれば「消費から廃棄」ですが、実際にいま全国あるいは全世界で問題になっているゴミ問題の大部分は産業廃棄物、つまり生産過程で出される廃棄物、あるいは流通過程で無駄が生じて出される廃棄物であるわけで、これもきちんと見なければなりません。

廃棄物の「費用」

《市場の失敗》
 経済学で廃棄物の問題を考えるとき、廃棄物の「費用」というものに着目する考え方があります。一般に商品の価格というのは、その規定要因―これも専門外の方には聞き慣れないかもしれませんが―を、マルクス経済学であれば投下労働と捉えたり、近代経済学であればそれを効用として捉えたり、といろいろあるわけですが、いずれにせよ生産、流通、消費に関わるコストと、その生産された商品をめぐる需要と供給の関係によってモノの価格というのは決まります。実は、先ほどみた生産、流通、消費、ここまでしかフォローされていないわけです。そこでは廃棄や処理というものがまったく抜け落ちてしまっている。
 これは商品交換によって成り立つ社会には必然的なことなのです。これをどう考えるかということで経済学者は環境問題、とくに廃棄物問題をめぐってあれこれ試行錯誤を繰り返しているのです。
 このように経済活動のなかで各経済主体が費用として認識することがない、こういうものが廃棄物を典型としてさまざまに出てくる。これを経済学では外部性などと表現しています。この外部性をどのように扱うかということが最大の課題になっているわけです。
 つぎに、各経済主体が経済活動のなかでどのような意思決定に基づいて活動しているのか。生産者、流通業者、消費者ということに限定しておきますが、生産者である企業は「利潤の最大化」あるいは「費用の最小化」ということによって行動します。流通業者も同じです。いかにコストを削減してマージンを得るかということに必死になるのです。消費者―これを並列的に考えるというのは多少疑問ですが―は「満足度の最大化」あるいは「利便性の追求」ということで行動するものと考えられています。いずれの経済主体においても生産、流通、消費の行く末である廃棄物の処理費用に対する認識が欠如することになります。
 表1は京大の植田和弘先生の著書からそのまま引用させていただきました。プラスチック容器と再利用ビンのコスト―注に書いてあるとおり、あくまでも仮想的な数値であり、これに対する異論もあるかと思いますが―を比較検討したものです。これによると、生産にかかる費用、当然ながら生産者はコストの低いもの、つまりプラスチック容器を選びます。流通業者もコストの安い方を選びますし、輸送を考えて、なるべく軽いもの、扱いやすいものを選びます。つまりプラスチックです。それから、消費者も利便性を考え、持ち運びやすく、安価で、しかも廃棄しやすいものを選びます。ガラスビンであれば家で保管して、ある程度たまったら小売店などへ持っていって再利用に回してもらったり、不燃物として別枠で処分することになりますが、プラスチックであればそのまま一般ゴミと一緒に捨てればいいわけです。このように利便性とか満足度の最大化と表現されるような行動原理が働くわけです。
 こうしてみると、コストの面でいけば、生産、流通、消費、そして廃棄まで加えても、プラスチック容器の方が安くつきます。他方、再利用ビンは高くつく。だから当然、各経済主体は再利用ビンよりもプラスチック容器を選ぶことになる。しかしながら、ここで考えなければいけないのは、その処理過程です。プラスチックの処理にかかる費用と再利用ビンの処理にかかる費用を比べたとき―これも仮想的な数値で実際にどれくらいかはわかりませんが―、表にあるように6対0となるわけです。先ほどの報告にあったように、現在さまざまな技術開発がされているので今後どうなるかはわかりませんが、トータルでみれば再利用ビンの方がコストが安くなります。ところが実際にはプラスチック容器の方が選択されてしまう。こういうことになっているわけです。
 通常の経済活動、市場原理にもとづく経済活動において欠落してしまう費用部分、これを経済学では外部費用とか社会的費用として捉えています。経済学者によってそれぞれニュアンスの違いはありますが、例えばカップという経済学者は「経済活動によって引き起こされ、第三者が蒙る損失、あるいは全体としての社会に転嫁される費用で、それを引き起こす経済主体の計算においては何の考慮もされていない費用」と表現しています。こういうものがたくさんあるわけです。
 これは有名な話ですが、宇沢弘文という学者が70年代にすでにこういう議論をしていました。自動車の社会的費用を考えたらどうなるかと。普通乗用車で150万円とか200万円で買えるわけですが、実際にはその自動車を走らすために道路の整備・維持はする、公害対策でいろいろな費用がかかる、ガソリンという化石燃料の問題もある。あるいは人間との共存ということでもさまざまな工夫がされていますが、それでもうまくいかず、人を殺したりもするわけです。これなど不可逆的な損失であって、到底費用概念で括られるものではないのですが。
 ともかく宇沢先生は環境破壊を市民的権利の侵害と捉えて、現在の社会状態を環境破壊のない市民的権利の守られた状態に改善するためにかかる費用として社会的費用を考えたわけです。そうすると、トータルとしての費用、自動車の社会的費用というのは莫大なものになります。宇沢先生は70年代初頭で一台あたり千数百万円だろうとしていましたから、現在では数千万から5千万円くらいはするのではないでしょうか。そのくらいの費用を出さないと、自動車はこの社会で活用するには割の合わない、被害を受けている側からすればまったく割の合わないものだと、社会的費用概念を用いればこのように考えられるわけです。

《外部費用を内部化する》
 ゴミ問題についても、処理やリサイクルにかかる費用というのがあります。そこで、そうしたものを内部化すればいいじゃないか。内部化というのは要するにその商品のコストに含めていくということですが、そうすればいいじゃないかという議論があります。収集・処理にかかる費用、公害対策や公害が発生したときの賠償費用、公衆衛生にかかわる費用、いろいろあるわけです。こうした外部費用をどのように計量化し、それをいかに価格のなかに入れ込むかということ、そういう議論があります。あるいはこうした費用が実際にかかっていて、地方自治体がさまざまな努力をされているわけですが、廃棄物処理管理事業がもたらすプラスの側面、社会的な便益をどう評価するかといった議論もあります。
 しかしながら、この費用をいかに評価するか、それをいかに商品の価格にのせていくか、あるいはそもそもこの費用を誰が負担するのかといったことを考えたときに、これはけっしてテクニカルな問題ではないわけです。実際に多くの経済学者はテクニカルなこととして一所懸命計算しているわけですが、それに対しては非常に疑問を感じています。

《資本主義と廃棄物問題》
 外部性ということに言及した研究者、たとえば厚生経済学という流れをつくったピグーという研究者は、こうした外部性が出てくるのは市場の失敗であると指摘した。近代経済学の主流である新古典派は、市場メカニズムというのは価格をシグナルにしてうまい具合に資源や商品が最適に配分されると考えています。そこで前提にされている条件、完全競争といわれていますが、生産者、消費者、これは対等平等な立場で競争しあっている、そこではじめて資源の最適な配分がなされるのだと考えているわけです。
 市場の失敗である外部不経済に着目したピグーにしても、完全競争モデルによる市場理解が前提とされ、外部不経済もあくまで市場経済の例外的な現象と理解していました。しかし、実際の社会をみれば、生産者と消費者が、もっとわかりやすくいえば、企業と一般消費者が対等平等な関係で競争しあっているとは言えないでしょう。
 実際に廃棄物になるまで、商品を購入し消費して、直接廃棄するのはたしかに消費者ですが、その前提に生産というものがあるわけですから、そこにきちんと目をやらないといけないのではないか、これは詳しくは後で説明しますが、そういうことだと思います。
 これに対して、外部不経済、若干ニュアンスに違いがありますが社会的費用、これは市場メカニズムが働いている資本主義経済においては不可避的な傾向としてあらわれると考えたのがカップです(専門的な話をすれば、市場経済と資本主義経済とは厳密に分けなければいけないのですが、ここでは資本主義経済として理解しておいて下さい)。生産者である企業は利潤追求を最大の動機として行動するのですが、そこでは必ず費用の不払い傾向というのが発生する。これは高度成長期の公害問題に典型的でした。今では当たり前になってる脱硫装置、こうした公害除去のためにかかる費用を企業は当然ケチるわけです。なるべくコストを安くして利潤を最大化したいからです。これは利潤追求を旨とする企業が生産の大部分を支配している社会においては不可避的なものであると、カップは考えたのです。マルクスは「不変資本充用上の節約」という表現で同じことを捉えました。一部の経済学者ではありましたが、こういうことに着目した議論はもちろんありました。
 それから生産者、消費者が対等な関係ではないというのは、「情報の不完全性」ということにも表れています。例えば商品が何でできているのか、それをどうやって処理したら無駄なゴミにならずに済むのかといった情報、これはゴミ問題を考えるとき非常に重要になってくるのですが、そういう情報が完全に公表されていない、あるいは自由に流通していないわけです。もちろん、企業秘密に係わるものもあります。
 また、たいていは公害問題というのは生物的弱者とか社会的弱者へ負担が転嫁されるわけですが、これも資本主義社会においては不可避的に生まれています。完全競争などというバラ色の世界では決してないからです。
 これはカップの言葉ですが、人間の歴史というのは「社会的費用に対する認識の発展史である」と。社会的費用というのは口で言うのは簡単です。それをどのように計測するのかということ。決してきれいな計算によって一つだけの答えが出てくるというものではないのです。先ほどもいいましたが、誰がその費用を評価するのか、どのように評価するのか、そして誰がどれだけ負担するのか。こういうことを考えなければいけないのです。
 社会的費用は、公害問題であればそれを除去するのにかかる費用に代表されます。けれども、そもそも一度汚染が発生してしまったら、それをいくら費用化して取り繕っても元に戻せない、そういう不可逆的な被害というものがあるわけです。宮本憲一さんは、これを社会的損失とか絶対的損失と表現したのですが(図2)、こうしたものを費用として認識することが可能なのかどうか。それから結局そういうことを考えたときに、公正かつ公平な負担配分、便益配分が可能なのかどうか。こういうことを社会科学は考えなければいけないわけです。
 そこで、最初に述べたように、環境問題、公害問題、廃棄物問題というのは実は生産関係の問題なのだと、こう考えることができるわけです。
 もちろん、それぞれの専門の立場、廃棄物問題を技術問題として捉える立場、行政問題として考える立場、それぞれあります。そういったさまざまな立場のうちの一つの見方であると言ってしまえばそれまでですが、しかし、技術の問題にしても行政の問題にしても、やはり廃棄物問題、環境問題というのは生産関係の問題だということを見落としてしまってはいけないのではないかと思うわけです。

ゴミ問題への対応と問題点

《処理能力の拡充》
 そのことをいくつか、具体的でもないのですが、見てみたいと思います。これまでもゴミ問題への対応ということで、さまざまな取り組みがなされてきました。従来は処理施設を拡充する、処理技術を高めるということで対応してきたわけですが、これを対症療法的と言い切ってしまうことはできませんが、ともかくゴミが大量に発生してきているという現状を与件として、それをいかに処理するかということで対応してきました。北海道ではまだ深刻な問題にはなっていないようですが、首都圏では処分場がなくなっている、処理施設も大変になっている、最終処分場は残余期間があと数年であるなどと言われています。そこでさらに処理施設を拡充する、処分場を何とか確保するということで対応しようとする、これが従来の典型的な対応であったと思います。もちろん、実際にゴミがある以上は処理しなければいけないわけですから、その限りでは処理施設は必要ですし、処理技術の向上も重要な課題であります。先ほどのプラスチック、これも何とかしなければいけないわけですから、技術開発に対して国はもっと助成をして、そういう研究を推進してもらいたいと思います。
 けれども、ここで考えなければいけないのは、先ほども言ったように、廃棄以前の過程、ゴミとして出てくるまでのあり方、これを問わなければいけない。後でまた述べますが、規制行政の強化、例えば適性処理困難物の規制や製品アセスメントの実施が必要になってくるわけです。それとセットにしないと、この処理能力の拡充という対応策では片手落ちになってしまうのではないかということです。

《分別収集および資源リサイクル》
 次に分別収集や資源リサイクルという取り組みがあります。これももちろん、もっと進めていかなければならないわけですが、先ほどの紙パックの話でもありましたように、ペイしないという問題がある。プラスチックの話でもありました。ペイしない、バージン原料を取り扱う大企業との競争に勝てないといった話がありました。やはりそれが現実であるわけです。
 廃棄物というのは「分ければ資源」と言われていますが、それは事実でありまして、資源としての潜在性というのは非常に高いわけです。けれども、実際それを市場のメカニズムにのせて処理しようと思えば、そこでは経済効率性が優先されるわけですから、コストがかかることがネックになる。リサイクルでは採算がとれない。だから潜在性としては資源であるのに、それが市場メカニズムに入ったとき、なかなか発現されないという限界があるわけです。
 もちろん、バージン原料が安価である背景には、例えば森林資源の乱伐(裏返しとしての日本の国有林の荒廃)や紙パルプ工場の廃液たれ流しといった社会的費用、社会的損失を無視していることがあります。再生原料とバージン原料と、いずれも社会的費用を入れ込めば対等な競争条件に置かれますが、そうはなっていない。これをどうするかということは、単に市場原理を導入すればすべてうまくいくという議論ではなくて、やはり政策としていかにこれを解決していくかということを考えなければいけないのだろうと思います。
 そもそもリサイクルということを考えたとき、資料に鉄のスクラップや古紙の流通経路を載せておきましたが(図3、図4、図5、図6、図7、図8)、要するにすでに多くの企業がこうしたリサイクルに取り組んでいる例があるわけです。なぜ取り組まれてきたかといえば、それで採算がとれるからです。ペイするから取り組まれてきたわけで、いまゴミとしてそのまま出されているのは、そういう経済原理からいったらペイしないからなのです。リサイクル事業の成立用件として一般に指摘されているのは、@廃棄物が大量に存在すること、A廃棄物に有用な属性が存在すること、B廃棄物を再資源化するための技術が存在すること、C再生品への需要が存在することです。前の三つがクリアされても、回収や再生のコストや再生品価格によっては難しいものが多いのが実際だろうと思います。
 したがって、やはり市場リサイクルということの限界は否定できないであろうし、だからこそ、リサイクルが必要である限り、市場原理に委ねてリサイクル業者の努力に任すだけではなくて、国なり自治体なりが助成をしていかなければいけないのだろうと思います。
 先ほどの道栄紙業さんが相当努力をされていて、かなりうまくいっている例の一つなのだろうと思いますが、回収業者やリサイクル業者がすべてうまくいっているわけではなく、全国的にみたら頭打ちになっていて大変な状況にあるというのが現実であるわけです。やはりその辺に対しての政策的な支援が必要になるのだろうと思います。
 ここで、あらためて廃棄以前の過程のあり方を問い直さなければならない。例えば紙パックであれば、それが廃棄される以上はそのリサイクルを考えなければならないわけですが、では何故、これだけ紙パックが溢れてしまったのかということです。私が小中学校(東京都日野市)のときは給食で出される牛乳はビンでした。リターナブルビンです。何回でも使用できるビンです。それがいつの間にか紙パックになっている。これは流通ということを考えたときに、紙パックの方が軽いし、運びやすいし、その分コストが節約できるからですが、やはりその辺の問題を考えなければいけないのではないか。
 それから市民リサイクルの「意義と限界」とレジュメには書きましたが、もちろん意義は大変に大きいわけです。先ほど小学校で取り組んでいる例が紹介されていましたが、このリサイクルに取り組むなかで、市民なり子どもたちが環境問題に対して、資源問題に対して認識を深めていく。そういう主体形成の場としては非常に重要であり、こういう取り組みはもっと進めていかなければならないだろうと思います。
 けれども、ここでもリサイクル事業一般と同じような限界というのがあって、今はボランティアとして取り組んでいる以上、採算とは関係なく頑張ってやれていますが、これも市民の努力に任すということだけでは困るわけです。ボランティアというのは大変に結構なことですが、それによって責任をとるべき行政や企業の責任が免罪されるようなことがあってはならないと思います。このあたりも政策としてどのように位置づけるのかが課題となります。
 後ほど述べますように、97年4月から施行されるリサイクル法がありますが、そのなかで市民リサイクルがどのように機能していくのかということは注意してみていかなければならないと思います。

《ゴミの有料化》
 それからゴミの有料化というのがあります。最近、東京都がゴミの有料化を打ち出して、いずれは普通の家庭ごみも有料化するという話になっています。この有料化制度によって果たしてゴミを減量化できるのかが問題となります。
 よく北海道の伊達市の例が引き合いに出されます。あそこでだいぶ前に有料化を導入して実際にゴミが減ったというデータが出されているわけですが、これも実際のところ、データのひとり歩きの感が否めません。研究者のあいだでも議論があって難しいのですが。もちろん現地の人はよく知っているのでしょうが、東京都が導入する際に伊達市でうまくいったから、というのでは非常に問題だろうと思います。人口の規模も違いますし、ともかく条件が全く違いすぎます。
 それから有料化といった場合に、商品に対する情報や他の選択肢の問題があります。要するに必需品に対しても、それを消費すれば当然ゴミとして出されるわけですが、すべて有料化されてしまえば、結局単なる値上げでしかないわけです。
 例えばドイツの試みと比べるとわかると思いますが、リサイクルしやすいもの、再資源化しやすいものについては有料化とは別のルートにのせて資源化する。そうでないものに対してはコストを加算する。そういうことをしないと、なるべくゴミを出さないようにする、あるいはリサイクルしやすい商品を選択するというインセンティブが働かないということになります。一律に有料化するというのは非常に問題であろうと思います。
 有料化が導入される際にもう一つ議論になるのが、手数料としての徴収です。もちろんごみ処理事業にはかなりの費用がかかっています。一般会計の5%から多いところで20%がゴミ処理事業にかかっていると言われています。廃棄はタダではないんだということをわからせるためにも手数料としての徴収というのは一理あるのかもしれません。
 ですが、では地方財政の問題を全体として考えたときどうなのか。これも東京都は典型的です。あの臨海開発で莫大な赤字を抱えた、無駄な公共事業を重ねて市民の税金をドブ―実際にはゼネコンなどの大企業や政治家ですが―に捨てるようなことをやっている。それと比べたらゴミ処理事業の費用などたかが知れているわけです。
 そうした既存の財政支出の枠組みを不問に付したまま、実際にゴミ処理事業に金がかかっているからそれを節減するということでは困るわけです。これは近年の福祉問題でもよく言われることですが、福祉に金がかかるからその分消費税だということではなく、その福祉と違う分野にさまざまな費用がかかっている。そうした別のところにかかる財政を見直すなかで、それでもゴミ事業にこれだけ費用がかかり、福祉事業にはこれだけかかる、だからこれだけはどうしても有料化して手数料として徴収するんだという議論になればまだしも、実際にはそうなっていないのが現状ではないでしょうか。こうしたこともやはり考えていかなければならないと思います。
 結局、これは費用負担のあり方の問題であるし、また発生源をどこに見定めるのかということでもあります。直接ゴミとして出すのはわれわれ市民、一般消費者であるわけですが、けれどもそこだけでいいのかということです。やはり廃棄以前の過程というものを問い直すべきでしょう。そこでは事業者の責任というのが重大であろうと思います。この事業者とは、もちろんリサイクル事業者などを指しているのではなく、生産の大部分を支配している企業です。家電や自動車などではほんの一握りの大企業になるわけです。そうした企業が大量の商品をちまたに溢れさせているにもかかわらず、それが廃棄された過程以降についてはまったくほおかむりをしているのが現実です。その辺を問題にしたいのです。

事業者責任

《産業廃棄物問題》
 これまでゴミを分類せずに話してきましたが、実際には産業廃棄物というもの、これを独自に問題にしなければいけないだろうと思います。
 92年の厚生省の調査では、廃棄物総排出量が約4億300万トン、このうち一般廃棄物は5020万トンで、残りが産業廃棄物であります。この産業廃棄物はさまざまに処理されているのですが、かなりの部分、最終処分場へ埋め立てられている。91年度の調査では23%が最終処分場行きでした。この場合、もちろん費用は負担していますが、実際には自治体がもっている場合もあれば、そうした費用を回避して不法に投棄するといったこともあちこちで発生しています。
 それから国内で処理するとコストがかさむからということで、越境廃棄、つまり途上国へ持っていって捨てるということも世界的な問題になっていますし、国際法ではいろいろな条約が取り結ばれていて沈静される方向にはありますが、なかなかすべてを止めるには至っていない、こういう問題もあります。
 こうしたことも考えていかなければならないし、とくにこの産業廃棄物は有害廃棄物とか適性処理困難物というのがかなりの部分を占めているわけで、ここにメスを入れていく必要があるだろうと思います。

《事業系一般廃棄物問題》
 事業系一般廃棄物の問題も無視できません。札幌ぐらいではたいしたことないかも知れませんが、首都圏では一般廃棄物のかなりの部分が事業系で、しかもその大部分がOA用紙です。若干旧いデータですが、東京都の例を示しておきました(図9、図10)。もっとも、近年はOA用紙のリサイクルが多くの職場で定着してきていますので、それはそれで結構なことなのですが、いずれにせよ、この事業系一般廃棄物が相当な量にのぼっているのが現実です。

《容器包装廃棄物問題》
 いま紙パックでもプラスチックでも問題になっているのは容器包装廃棄物です。重量比で3割のものが、容積比では6割を占めると言われています。これも一見すると一般消費者の問題であるように思われますが、果たしてどうでしょうか。
 例えばペットボトルの処理が非常に難しくて、技術者もさまざまな研究を繰り返しているわけですが、リサイクル率がわずか2%弱(95年)、これはアルミ缶の66%、スチール缶の74%、ビールビンの97%と比べると非常に遅れていることがわかります。
 ペットボトルの元であるプラスチックについて、その廃棄物の再資源化フローを示した図11を見ますと、有効利用されているのはわずか11%、焼却のうちゴミ発電として利用されているのも17%にとどまっています。21世紀にはそれぞれ20%、70%に引き上げることが目標として掲げられてはいますが、そういう状況です。また、リサイクル事業の成立用件を考えてみると、ペットボトルの回収費が一本あたり22円から29円であるのに対して、その再生品は2円にもとどかない。ほっておいてもリサイクルが進むはずありません。
 このように技術的にも経済的にもペットボトルの処理が困難であるという事情があるにもかかわらず、それが市場に溢れてきている。それがますます拡大しているということはやはり問題だろうと思います。
 資料の表2はペット容器の生産量を示したものです。92年からしかありませんが、とくに清涼飲料水向けが大部分を占めていること、これが年々拡大していることがわかります。表3は、どの企業がペット容器を商品として市場に出荷しているのかを示したものですが、コカコーラ、サントリー、アサヒ、大塚製薬、キリンの5社だけで大部分を占めていることがわかります。しかも、ミニペットボトルが、処理上問題があるということで業界として自粛してきたにもかかわらず、96年になって自粛を解禁してしまった。その後このミニペットが急増しています。
 こうしたことを問題にせずに、ゴミとして出されてからのことだけを考えていてはやはり片手落ちであろうと思います。

《「容器包装リサイクル法」》
 その意味で、95年に成立し、97年4月から施行されることになったリサイクル法がどの程度の効果をもつのか。これはさまざまに議論されていますし、むしろ行政サイドの方が熟知していると思います。ただ、資料に載せておきました「東京ルール」について言及しておきたいと思います。後で述べるように、容器包装リサイクル法の最大の欠陥が事業者責任の曖昧さにあるのですが、東京ではペットボトルに関して独自の方式を取り入れるという案を出した。つまり、スーパーやコンビニ、それにメーカーに対して事業者責任を明確にさせたわけです(図12)。ところが、業界から猛反発を食らっていて、なお予断を許さない状況にあります。ここにゴミ問題の本質が表れているのではないでしょうか。
 それから、この容器包装リサイクル法そのものについての検討も加えたいのですが、私は専門家ではありませんし、今回の依頼を受けてから急いでゴミ問題を勉強した関係上、この法律を入手して検討するところまで至りませんでした。ただ、一般に研究者のあいだでも問題にされている点を若干指摘しておきたいと思います。
 最近、事業者と消費者、さらに行政を加えて三者共同歩調―パートナーシップ―で取り組んでいきましょうということが強調されています。もちろん消費者にもゴミ問題の責任の一端はありますし、行政も行政としての役割がありますから、パートナーシップそれ自体は評価できることであろうと思いますが、容器包装リサイクル法では「事業者及び消費者の責務」となっており、この辺が一緒くたにされている。しかも回収義務は自治体にあって、企業の義務は回収されたものの引き取りとその再資源化の「努力」のみ、処理責任は「委託業者」に置かれています。責任の所在が非常に曖昧であるわけです。
 先ほども言いましたが、消費者の商品選択というのは企業から提供される商品の枠内でしか行えないのです。ちまたに溢れている容器がすべてペットボトルであれば、ペットボトルしか買うことはできないのです。そうした問題というのをやはり考えていかなければならないだろうし、大量消費というのは大量生産を前提としている、大量生産が自ら大量消費を生み出すということもやられるわけです。コマーシャリズムです。ありとあらゆるマーケティング戦略を駆使して消費者に買わそうとするわけです。
 よく国際比較で引き合いに出されるのは自動車、家電製品ですが、とにかく製品としてのライフサイクルが異常に短い。欧米では自動車は平均で7〜8年と言われていますが、日本ではそれが3〜4年になっている。とにかく新しい商品を次から次へと開発して、些末なところでモデルチェンジを繰り返す。あるいはメーカーごとに細かな差別化を図って、それをコマーシャルで喧伝して消費者に買わすということをやっているわけです。
 なお、自動車はまがりなりにも業界も関与しての廃自動車処理がシステム化されています。近年のスクラップ品市況の低迷と処理費用の負担増によって解体業者は厳しい状況にはありますが。家電についても、廃家電品適性処理協力システムなるものが組まれていますが、あまり実効性が上がっていないとのことです。いずれにせよ、大量生産や適性処理困難な設計という実状、この根本問題にはきちんとしたメスが入っていません。91年のリサイクル法ではリサイクル性を考慮した設計―製品アセスメント―が義務づけられましたが、どこまで改善されたかは甚だ疑問であります。
 そうした側面、つまり生産から消費の過程の問題、ゴミ問題のいわば川上の部分ですが、この部分をきちんと見ていかないとダメだと思います。
 それから国民、企業、行政の責務の並列、パートナーシップというのは、程度の差はあれどこの国でもいわれていることですが、とくに日本の場合は三者三様の責務がありますよと言及するにとどまって、どこに最大の責務があるのかということに対しては何ら指摘されていない。92年に出された国民生活審議会の報告書では、国民みんなが加害者なんだとされている。93年の環境基本法でも責務は並列扱いです。欧米の環境関連の法律と比べると、その差は歴然としています。ドイツの法律では製造・流通業者への汚染者負担の原則というものがきちんと明確にされています。それが実際に機能しているかどうかというのは別にしても、明示はされているわけです。

公共部門の役割

《前提としての行財政問題》
 最後に公共部門の役割について話したいと思います。先ほども述べたように、処理事業に多額の費用がかかっており、財政問題としてゴミ問題が取り上げられている。そこで消費者の負担、市民の負担が必要視されているわけですが、そもそも採算性とか効率性というのは何なのかということも考えないといけない。これは結局は、さまざまな社会的費用や社会的損失を無視したところで考えられている「費用」であり、それをめぐる効率性でしかないわけでして、やはりその辺も含めてゴミ問題、環境問題に取り組まなければいけないだろうと思います。そもそも誰のための行政かということを考えたときに、市民サービスとしてみれば、ゴミ事業にこれだけの費用がかかっているということはむしろ当たり前であって、その部分だけ取り出してそれが赤字になっている云々という議論は妥当なのかということです。
 もちろんゴミ事業に関しては黒字になるということはもちろんないですから、その特別会計に一般会計からの補填を余儀なくされるわけです。これと似たような問題でいま取り上げられている公共交通の部門、札幌市でも地下鉄の問題がありますが、地下鉄というのは公共交通として市民サービスの要であるわけで、そこで赤字だの何だのということは本来であれば関係がないはずです。その辺が普通の企業経営と同じような感覚で議論されてしまっている気がします。
 そうした市民サービスとは別な部分で多額の浪費がさまざまに生まれているのですから、あわせて議論をすべきだろうと思います。北海道庁の不正問題ももちろんありますが、地方や国の財政がどこに向けられていて、どこで無駄が生まれているのかということを市民、国民の立場から点検していくという作業を抜きにして、単に費用がかかっているから市民が負担しなければならないという議論はやはり片手落ちであろうと思います。

《ゴミ減量化のために何をすべきか》
@発生抑制のトータル・コーディネイト
 では減量化のために何をすべきか。他の報告者からも行政に対する注文、行政がやってほしいという声がいくつか聞かれましたが、やはり行政がゴミ問題の全体を管理する管理主体であるべきだろうと思います。これは単に出てきたゴミをいかに処理するかという次元にとどまった処理事業の実施主体ではなく、ゴミがどのようにして生まれてくるかという、生産から流通、消費、廃棄、そして処理というトータルのなかでのコーディネイターとしての役割を果たすべきでしょう。もちろん私は行政については門外漢ですから、具体的にどうしたらいいのかという提言はできませんが、そのように感じます。
 消費者行動、消費者の価値意識ももちろん大事な問題です。事業者の問題だけを追及しているのではなくて、消費者の意識を変え、大量消費・大量廃棄という生活様式も見直していかなければならない。そのさい、ではゴミ問題についてどれだけ住民に情報が提供されているのかということが問われなければならないし、先ほどの小学校の例がありましたが、もっと積極的に行政として環境教育に取り組む必要があるだろうと思います。市民のボランティアに委ねるだけではなくて、行政がそういうところでもっとイニシアチブを発揮していくべきだろうと思います。
 それから大事なことは、流通段階、生産段階での見直しのために果たす行政の役割です。これはもちろん、地方自治体だけでは限界があります。本来であれば国がやるべきことですが、事業者責任を明確にすること、包装容器や製品アセスメント、こうしたものを本当にきちんと明確にして実効化するために果たす役割というのが公共部門に求められているのだろうと思います。
Aリサイクル事業の推進と助成
 それからリサイクル事業や再資源化事業、札幌市も実際に努力されています。今後も引き続き努力していただきたいのですが、もちろん地方自治体だけでは限界があるわけでして、公共部門といったときに、いつも地方自治体だけがやり玉にあげられるのですが、やはり国の財政の問題も含めて議論すべきだろうと思います。
B適性管理・適性処理
 以上のような発生抑制のためのトータル・コーディネイト、それからリサイクル事業や再資源化事業の推進ということを踏まえたうえで、やむにやまれず出てきたゴミの適性管理、適性処理をおこなう。注意していただきたいのですが、これは@やAに先行すべきではなくて、あくまでも発生源での抑制に対してどのように対応していくかということをまず議論していくべきであろうと思います。
 なお、この点に関して最後に言及しておきたいことがあります。先日、政府が公共事業関連5カ年計画を発表しました。総額51兆5千億円のうち、廃棄物処理関連に5兆円余りを割いているのですが、リサイクル型処理施設に重点が置かれている。先ほどの容器包装リサイクル法や環境基本法などの欠陥がここでも表れている。つまり、リサイクルの工夫、推進は強調するが、どうやってゴミの排出を減らすのかという議論が欠落しているわけです。リサイクルをすればゴミを出しても構わないということではダメだと思います。
 以上、まとまりのない内容になってしまいましたが、これで終わらせていただきます。