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コラム連載 国民に強いる2つの“過去分”という費用負担と消費者庁の対応(その1)

国民に強いる2つの“過去分”という費用負担と消費者庁の対応(その1)

2017年3月16日 加藤修一 京都大学大学院経済学研究科特任教授

 2020年から40年続く“過去分”の負担
 はやいもので東電の原発大事故から6年を迎える。昨年末は貫徹小委員会の「中間とりまとめ」が報告され、寄せられた1400件を超えたパブリックコメントが整理された(2017年2月)。ここで過去分に触れるが、これは「原賠機構の一般負担金」の過去分のことである。原賠機構法の法制化前(1966年~2010年)の過去に遡及し負担費用を考え、国民に負担するものである。政府は「本来、これらの費用は福島第一原発事故以前から確保されておくべきであったが、制度上こうした費用を確保する措置は講じられておらず、当然ながら料金原価に算入することもできなかった」と述べ、過去に「安価な電気を利用した需要家」に遡及して負担を求めるべきだが現実的ではないとして、全需要家が遍く負担する送配電網の利用料である託送料金に上乗せして回収することになっているものである(A-表)が、費用負担は40年続く(A-②)

 政府・原発会社の“膨大なツケ”まわし2.4兆円
 言い換えると、原発を持つ電力会社だけでなく、新電力の利用者も賠償費用を負担することになる。原賠機構の一般負担金は、東電以外の電力会社にも電気料金原価への算入を認め、また株主からの責任追及を回避するために、将来の事故に備える支え合いの仕組みであるとの建前になっているが、実質的には東電支援に充てられてきた。にもかかわらず更に費用負担の制度的対応を怠たりながら回収しなかった「過去分」を今になって改めて思い出したかのように費用負担とすることは自らの失策による“膨大なツケ”(A-表の②)をあろうことか強引に国民に転嫁するものになっている。

A-表 過去に遡って強いられる国民の費用負担-国は過去分の回収というが・・・

 常識的な納得感が生まれない“過去分”
 この過去分については、常識的な納得感を持つ人は稀ではないだろうか。毎月支払っている電気料金は電気購入の契約のもとに使用した分を支払っている。既に何十年間、電力会社からの請求額に応じて支払を済ましている。今回、過去の原価に含めていなかったので支払ってください、というものである。通常の取引では考えられない。自己責任で処理すべきものである。この点については多くの方々が同様の指摘をしている。

 使用する際に公共料金を支払う高速道路、上下水道なども同様である。わが国は戦後半世紀を過ぎて営々と築き上げてきたインフラの劣化・陳腐化が激しい。インフラの維持管理費の捻出に汲々として相当する原資が見いだせない状況であることからもアセットマネジメントに関心が集まっている。想定外の急速な劣化速度からといって維持管理費の一部について過去に遡及して回収することはないであろう。また高速道で「予期しない大事故」が発生したからといって復旧関係費用について過去に遡って回収ということもありえない。

 いずれにしても国民にとっての常識的納得感を大事にすべきである。一般的には何かを購入(費用負担)には一定の受益感を期待しているものである。原発の事故後の過去分は負担感のみである。この様な過去分が大手を振ってまかり通る社会は長続きしない。常識的な納得感や受益感を決して侮ってはいけない。

 原発事故への過小評価
 そもそも、事故リスクを過小評価し事故費用の備えを怠ってきた。それどころか、リスクに備えると原発が危険だと思われる恐れがあるとのリスクマネジメントの不足や投資が嵩むことから賠償費用の備えをせず安全投資についてさえも抑制した国・電力会社の甘い判断による問題である。しかも原発事故を懸念する議員の主張を冷笑・無視し、「安全神話」を流布させてきた。その責任を顧みず賠償の原資不足を電気利用者全員が負担するようにすることは不合理の極みである。「原子力損害賠償法」の趣旨に鑑みれば、本来、こうした万が一の際の賠償への備えは事故以前から確保されておくべきであった。その結果、福島第一原発事故以前は、賠償への備えの費用が料金に含まれていない相対的に安価な電気を全需要家が享受していたことにはなるが、リスクを甘く見た責任を更に具体的に示すことや原発コストの再試算は至急行うべきである。

 主務省令で巨額の過去分2.4兆円の費用が動く
 改めて、不思議に思うことは、過去分であり、40年間総計2.4兆円に及び、強制力を伴う国民負担という義務であり、更に託送料金への加算という非常に重たいテーマである。にもかかわらず現在のところ国会審議の対象になっていない。省令の変更で済むことのようである。国民への情報開示や説明機会は少なく、負担は重なり、納得感は薄い。このままでは国民不在と言われかねない。これは原賠機構法等の関係法の建て付けが省令で済むようになっていることによるのだろう。政府の用意周到な法制化、(あくまで想像の域をでない一般論になるが)つまり将来を見越して、絶妙に国会審議を避け省令で済むような建て付けを狙ったかもしれないが、本当のところはわからない。しかし強制力の伴う膨大な費用が法律でなく、省令で動くことに違和感を覚える。議員と議論を重ねていると「国会は骨抜きの対象でもなく、白紙委任をするところでもない!」という刺激的な発言になる。国権の最高機関たる国会の存在意義が問われかねない。

 欧州等では、例えば“2050年までにCO2削減80%など”と具体的な数字が法律に書き込まれることが多いようである。日本ではこの種の数字を法律修正案として入れようとすると(経験済みであるが)政府の激しい抵抗にあうことになる。国会が立法府としての役割を果たすためには、敢えて困難を承知で言うならば、新法の閣法の国会審議の際に省令についてもチェックする必要がある(最も年間100本を超える法律案が提出される中でチェックすることは難事ではある。だからこそ国会機能の強化が必要である)。政府は恐らく「具体的な省令の作成は法律案の成立後」と言い張るに違いない。これは自らの裁量範囲を十分残しておくことも意味している。

 ところで、過去分等は既に過去の経験に根差している。(その2)では、最初の過去分等や議員連盟の要請、消費者庁の消費者委員会の対応について述べる。

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