Research Project on Renewable Energy Economics, Kyoto University

京都大学経済学研究科

再生可能エネルギー経済学講座

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No.143 安易な1ビット思考が日本を蝕む

2019年9月5日
京都大学大学院経済学研究科 特任教授 安田 陽

記号論理学の世界

 今回はいつも普段から言ってることをちょっと趣向を変えて書くことにします。はじめに数学の話をしましょう。記号論理学や数理論理学の分野では、存在量化子 existential quantifier という記号があり、∃と表記されます(アルファベットのEを反転したものです)。また、全称量化子 universal quantifier と呼ばれる記号もあり、これは∀と表記されます(アルファベットのAを逆さにしたものです)。

 前者は「ある?」もしくは「少なくとも一つ存在する」ということを表す記号であり、xは「ある(少なくとも一つの)xについて」ということを意味します。また後者は「すべての」を表す記号であり、xは「すべてのxについて」という意味を表します

 ここで、任意の対象xに対して任意の属性Pが与えられた際に、「xPである」ということを論理式Pxで表すこととすると、xPxは「ある(少なくとも一つの)xPである」xPxは「すべてのxPである」を意味する記号表現になります。

論理飛躍は極端思考に至る

 このように記号で表現すると一目瞭然ですが、∃xPxと∀xPxはまったく異なる命題をそれぞれ記述しています。しかしながら、現在日本で(いや世界中で)見られる議論には、このxPxと∀xPxを安易に混同する非論理的で恣意的な主張が随所に見られます

 例えば、太陽光パネルや風車が事故を起こすたびに土砂流出や倒壊の写真がインターネットを駆け巡り、「再エネは問題が多い」「これだから再エネはけしからん!」という意見が沸き起こります。上記の記号論理表現に即していえば、xが「再エネ発電所」に、Pが「問題だ」に相当しますが、多くの人がいくつかの印象的な写真を見ただけで、∃xPx「ある再エネ発電所が問題だ」から∀xPx「すべての再エネ発電所は問題だ」であるかのように容易に連想ゲームを展開しがちです。このような連想ゲームは、論理記号で表現すればわかる通り、単純に論理飛躍であり、論理破綻です。

 もちろん、直感や感情にもとづく自由な発想は時と場合によっては必要で、新たなイノベーションを生み出す源泉にもなりますが、こと事故の再発防止やリスクマネジメントの世界では冷静で論理的な思考が望まれます。誰しもがうっかり感情的になってしまう場合もありますが、いやいや「∃xPxと∀xPxを混同してはいけない」と、ふと冷静な自分を取り戻すフィードバックが本来必要です。しかしながら現在の日本では(いや世界でも)タガが外れたようにこの論理飛躍が当たり前のようにおこなわれ、しかもそれを他者から指摘されても一向に改めずに平然と論理破綻を続ける風潮さえみられます。

 記号論理学は記号表現を用いるが故に抽象性が高くとっつきにくいという難点もありますが、記号を用いるため公平でバイアスのかからない思考実験が可能であるという利点もあります。例えば先ほどの事例でいえば、Pを「問題だ」と仮定したまま、xの部分に「道路や橋」を代入したらどうなるでしょうか。今年も集中豪雨が多く、全国で多くの道路や橋の被害がみられますが、そのような報道写真や動画を見て∃xPx「ある道路や橋が問題だ」から、ただちに∀xPx「すべての道路や橋は問題だ」と考える人はいるでしょうか? さらにそこから「だから道路や橋はけしからん!」と連想ゲームに発展させる人はいるでしょうか?

 なぜ、再エネ発電所(仮にx1とします)だと∃xPxと∀xPxを混同して連想ゲームをする人が多く、道路や橋(仮にx2とします)だと冷静に∃xPxに留まる人が多いのでしょうか。それは、x1は新しい技術でよく知られていない故に「必要かどうかわからないもの」としてみなされ、x2の方が人々に身近で「役に立つもの」とみなされるというバイアスがかかっているからだと推測されます。このようなダブルスタンダードで恣意的なバイアスを取り除く上でも記号論理学的な思考実験は有用です。

1ビット思考という名の極論

 さて、論理的な記号表現により、多くの人が(とりわけ自分のよく知らない新しい技術に対して)∃xPxと∀xPxを混同しやすいということを見てきましたが、このような極端な論理飛躍は極端な二元論に容易に結びつきます。現実には、∃xPx「ある(少なくとも一つの)xPである」と∀xPx「すべてのxPである」との間にはさまざまな状況があり、一般にはそれは確率統計論的に表されます。発生確率は0~1の間の小数値で(しばしば%で)表されることも多く、事故発生確率の場合はその数値を如何に下げるかについて、エビデンス(データや理論)に基づき科学的な議論がなされていくのがリスクマネジメント的考え方です。しかしながら、前述の∃xPxと∀xPxを混同しやすい人は、たいてい0か1の2値しか持ち合わせていません。

 このような0か1かの極端な思考回路はかつては「デジタル思考」などと揶揄されたものですが、今やデジタル全盛時代でそのへんのパソコンですら64ビットなので、0から1までの区間を表現しようとする場合、264(= 1.845×1019 =1845京)通りの値を取ることができます。そのような時代に0か1の2値でしか物事を判断できない人がいるとしたら、デジタル全盛時代の若者に鼻で笑われてしまうでしょう。筆者はこのような極端な二元論的思考を「1ビット思考」と名付けたいと思います。

1ビット思考は、∃xPxと∀xPxを混同することから容易に発生します。世の中には「右か左か」「〇〇推進派か〇〇反対派か」などのようにわかりやすい二項対立を好む言説も多くみられますが、これらも1ビット思考に基づくものです。ここでは右や左や〇〇推進派や〇〇反対派といった「自分と同じ意見かどうか」という(しばしば色眼鏡でバイアスがかかる)価値判断と本来の論理的思考とがまったく異なるものだということを図式化するために、図1のような概念図に表してみます。

図1 意見の相違と論理性の概念図
図1 意見の相違と論理性の概念図

 ∃xPxと∀xPxを混同する1ビット思考は図の上端と下端どちらにも存在します。例えば再エネに懐疑的な人が再エネであれば何でもケチをつけて回ったり、再エネに好意的な人が再エネであれば何でも疑いなく賞賛するような極端な考え方です。論理破綻で極端な思考に走るが故に、自分と異なる意見を「敵」とみなし、その「敵」の中から敢えて極端な言説を探し出し、それを攻撃することによって自身の優越性に浸る…という1ビット思考同士の醜い争いが世の中いたるところで発生しています(図左側の矢印①)。

真の科学的論争とは

 どの分野にもどの組織にも1ビット思考的な人は一定割合存在しますが、それは∃xPxであり∀xPxではありません。我々がなすべきことは、立場や意見が異なったとしても「共通ルール」を共有する人同士が同じテーブルにつき、論理的に議論を進めていくことです(図右側の矢印②)。共通ルールとは論理性や科学的エビデンスであり、それを用いた議論が本来の合意形成というものです。そして、戦うべき相手は立場や意見が異なる人ではなく、非論理的で極端な言説に対してなのです。ちなみに本項では科学技術の議論、とりわけエネルギー問題を念頭に置いてますが、この考え方は他の分野の合意形成・政策決定、歴史問題や国際問題などさまざまな分野で応用可能です。

 真の対立軸は、実は図の垂直方向(意見が異なるかどうか)にあるのではなく、水平方向(論理的であるかどうか)にあります。つまり、相手の立場や意見が同じか違うかに関わらず、非論理的な思考に対して「それは違う」と言いつづけることが必要です。ひとりひとりがそのような地道な活動を心がけることが、明るい日本の(そして地球の)未来が切り開ける唯一の道だと筆者は考えています。

【キーワード】記号論理学、二元論、科学的論争