Research Project on Renewable Energy Economics, Kyoto University

京都大学経済学研究科

再生可能エネルギー経済学講座

本講座(第2期)は、2024年3月31日をもって終了いたしました。

TOP > コラム一覧 > No.388 原爆をつくった男たちは何を考えた/フランク報告、「日本への無警告投下に反対」の意外な理由

No.388 原爆をつくった男たちは何を考えた/フランク報告、「日本への無警告投下に反対」の意外な理由

2023年8月17日
京都大学大学院経済学研究科 特任教授 竹内敬二

キーワード:マンハッタン計画、原爆、日本投下、オッペンハイマー、フランク報告

 8月は広島、長崎への原爆投下を考える月になる。米国ではこの夏、「原爆をつくった男」といわれる物理学者ロバート・オッペンハイマーの生涯を描いた映画「オッペンハイマー」が封切られ、話題になっている。早く見たいと思う。私は約30年前、第2次大戦中に原爆を開発したマンハッタン計画に参加した科学者たちを訪ね歩き、開発に加わったことへの思いなどを取材した。しかし、日本への投下決定で当時どんな議論があったのかなどは、よく分からなかった。マンハッタン計画の科学部門リーダーだったオッペンハイマー博士(1967年に死去)や軍の中枢部が何を考えていたのか。終戦から78年という十分な時間を経てつくられた映画は、新しい事実を教えてくれるだろうか。

マンハッタン計画、3年で原爆製造

 マンハッタン計画は1942年に始まった米国の核兵器開発計画。ウラン濃縮、プルトニウムの製造・抽出、原爆の設計などを柱とした。ウラン原爆(広島型)とプルトニウム原爆(長崎型)をつくり、45年7月16日にはプルトニウム型原爆の爆発実験を行った。計画の拠点は全米各地にあったが、中心的な作業はニューメキシコ州ロスアラモスの高台の荒れ地に建設された研究所で行われた。今もロスアラモス国立研究所がある。

 私が同計画に参加した科学者たちを訪ねたのは、戦後50年を翌年に控えた1994年だった。すでに多くの科学者が他界していた。計算すると1942年に30歳の若手だった人も取材時は82歳になる。



(写真。シーボーグ博士はプルトニウムを含む9個の元素の主発見者になった。指で指しているSg《シーボギウム》は博士の名にちなんだもの。1994年カルフォルニア大バークリー校で筆者撮影)

隠されたプルトニウムの発見

 カルフォルニア大学のグレン・シーボーグ博士は取材当時(82歳)も大学の研究室に出勤していた。「新元素を発見して周期律表を書き換えるのが夢だった」というが、その言葉通り1940年にプルトニウムを発見した。世紀の発見だったが、「原爆の材料になる物質」だったので発見は秘密にされ、博士はマンハッタン計画でプルトニウムの製造を担当することになった。プルトニウムの発見が世界に公開されたのは、長崎への原爆投下によってだった。

 私はインタビューした科学者に共通の質問をいくつかした。「投下された原爆の開発に参加したことをどう思うか、後悔しているか」もその一つ。シーボーグ博士は「全く後悔していない。当時ヒトラーが先に原爆を持った方がよかったと考える人がいただろうか」

ドイツの原爆計画の破綻、科学者に知らされず

 マンハッタン計画の物理部門責任者のハンス・ベーテ博士(当時87歳)も「ノー、後悔はしていない。ドイツを恐れていた」が答えだった。

 マンハッタン計画は「ドイツより先に原爆を」が合言葉だった。科学者の間では「ドイツには天才ハイゼンベルクがいる」という言葉が交わされた。不確定性原理で知られる若い物理学者の存在の「影」におびえ、「ドイツが前を走っているのでは」と考える科学者も多かった。ただ、ある科学者は「諜報活動の結果、1944年末ごろ、ドイツが産業規模での原爆開発計画をもっていないことが分かった」と教えてくれた。

 しかし、軍上層部はその結果をほとんどの科学者に伝えず、開発を続けさせた。重要な地位にいたベーテ、シーボーグ両博士も、ドイツの開発失敗を「知らなかった」と答えたことに驚いた。軍には「原爆を完成させずには計画を終了できない」の雰囲気が強く、かえって開発ピッチが上がったと感じた科学者もいた。

「仕方がなかった」「後悔している」……

 ドイツの降伏が近づき、そして45年5月に降伏すると、にわかに「日本投下の是非」が話題になった。よく使われ、強い影響力を発揮したのが「日本に強硬上陸すれば100万の米軍兵士の犠牲が出る。原爆投下はそれを避ける手段」というものだった。いまだに語られる主張だ。

 ベーテ博士は「科学者の意見は半々だっただろう。半数は日本投下を望んでいなかった。」という。しかし、軍への科学者の影響力は小さかった。軍内部ではそのときすでに日本投下が決定されていたともいわれる。

 マリアナ諸島テニアン島で、長崎に投下する原爆を組み立てた一人、フィリップ・モリソン博士(当時77歳)は「私は標的委員会とよばれる場で『少なくとも無警告投下はよくない』と話したが、相手にされなかった」

 モリソン博士は、終戦翌月の45年9月、被害調査の一員として広島に入った。すさまじい被害を目の当たりにして「もう核戦争はできない」と衝撃を受けた。原爆開発への参加については「深く後悔している。いつもそう思ってきた。しかし、開発は当時必要なことだった。私自身他に取る道が分からなかったのも事実だ。悪い時代だった」と語った。

 あまりに大きな破壊力ということで、戦後、原爆の使用は強く非難されるようになった。しかし「投下前、原爆投下はそれほど特別なものと思われていなかった」という科学者もいた。当時すでに約60の日本の主要都市が大規模空襲で破壊されていた。その流れの中で新たな都市破壊が一つ増えるだけという意識だったというのだ。原発をつくる者であっても、原爆の段違いの破壊力をリアルに想像できなかったのか。約60の都市を破壊し感覚が「マヒ」していたのか。

秘密による分断。

 老科学者たちは率直に話してくれた。誇りをもって原爆開発に加わり、ドイツの影に追われて開発を進めたこと、ドイツ降伏で行き先を失った原爆が、思いもよらず日本に投下されたことへの戸惑いと悔恨などだ。ただ、マンハッタン計画では情報は厳しく管理され、科学者も限定された情報のなかでしか生活できなかったようだ。

 終戦間際の1945年4月、ルーズベルト米大統領が任期中に死去した。マンハッタン計画の責任者だったグローブズ将軍が、副大統領から就任したトルーマン新大統領に、「実は原爆を開発中だ」と知らせたが、トルーマン氏は開発計画の存在を知らなかったという。計画開始からすでに3年が経過していた。

フランク報告、「無人地帯への投下」を提案

 日本への原爆投下については、水面下で議論があった。ドイツが5月に降伏したあと「日本への投下案」が強まってきた。これに対して、シカゴにいたマンハッタン計画参加の科学者7人が45年6月、日本への無警告投下に反対する提案「フランク報告」(The Franck Report)を陸軍長官に提出したのである。代表者は物理学者のジェイムズ・フランク博士。

 シーボーグ博士はフランク報告に署名した一人だった。なぜ署名したのかと聞くと、「理由は簡単。原爆を使う必要性はなかった。ドイツはすでに降伏していたからだ」と答えた。

 フランク報告は軍に無視された。しかし、この報告の内容と日本投下に関する議論がどう扱われたかには強い関心を持たざるを得ない。フランク報告はかなり長い文書だが、次のような内容だ。

「恐ろしいものをつくった責任」

 フランク博士ら科学者は、「原爆という恐ろしい兵器をつくってしまった人間の義務」としてこの文書を書いたとしている。原爆は「過去の発明を全て合わせたよりも大きな危険をもつ」と表現している。とんでもない怪物を誕生させたということだ。しかし「その恐ろしさを我々(開発に携わったもの)以外の人類はまだ気づいていない」という特殊な状況にある。だからこそ発言するという。

 米国が原爆を使用して世界に原爆所有が明らかになれば、世界では即座に核兵器開発競争が起きるだろう。フランス、英国、ロシアなど主要国は基礎知識をもっているので、3、4年で現在の米国のレベルに追いつき、10年以内に(ある適度の規模の)原爆を持つようになるだろう。そうした世界の到来は米国の安全をも危うくする。

 核兵器保有の拡大競争や核戦争の危機を避けるには核兵器を規制する国際的な合意が必要だが、今そんな準備はない。したがって米国が原爆を使うとすれば「最初の使い方」が極めて重要になる。他国の尊敬を得る方法で使わなければならない――。



戦後世界で米国が優位になるように……

 フランク報告はこのように論を展開したあと「サマリー」として結論を書いている。一部を抜き出す。

 「これらの考察によって、我々は日本に対する無警告の使用は勧められないと信じる。もし米国がこの無差別の新しい破壊手段を、人類に対して解き放つならば、米国は世界中からの支持を失うだろう」「この原爆が、適切に選択された無人地域におけるデモンストレーションによって最初に世界に見せられるならば、原爆規制の国際合意をつくるためのよりよい条件ができるだろう」

 つまりフランク報告は、原爆を軍事的な都合で使うのではなく、「将来の核軍拡競争を回避する」「核兵器の規制条約をつくりやすい条件をつくる」「その中で米国が優位な位置に立てるようにする」ことを考えて使い方を考える必要があるといっている。人のいない場所での「デモンストレーション爆発」を推奨した。

 当時米国内でこうした深い洞察、議論、提案があったことは驚かされる。しかし、歴史は残酷な方の道へ進んだ。軍はフランク報告を無視し、広島と長崎に原爆が投下され、戦後すぐに核開発競争が始まった。冷戦が深まった。(表参照)。

 私が知りたいのは、日本投下は、諸説あるが、どのように議論され、いつ決定されたのか、フランク報告はどの程度議論されたのかということだ。今年は戦後78年が経つ。映画「オッペンハイマー」は歴史をどう描いているのか。